新約 第33週
ローマ書11章13節~16章27節

牛久上池台キリスト教会 伝道師
鍼灸治療院エリム 院長

片山 証子

2007年8月11日 初版

【日曜】 ローマ書11章13~36節 「神を畏れる」

 神様の御計画の完成、救いの成就は何を目安にできるのでしょうか。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。これこそ、彼らに与えたわたしの契約である」(26節、イザヤ59章20~21節)。神の国の完成、つまりすべての人に救いの恩寵が行き届き、神様への従順で満たされた時、と答えることができます。ではその確認の第一歩として、自分自身が神の前に跪くとき、常に敬虔な、従順な心でいるのか。義務的に、機械的に、排他的に祈りを献げていないか。自らの反省と、御恵みへの感謝と、従順である喜びとを持って礼拝しているか。このような自己点検がいつもできているか。知れば知るほど信仰生活は安穏、怠惰ではいられない、自分に厳しいものだと考えさせられます。

 第1章から提言されているとおり、神様はすべての人を救うために、すべての人が神様の前で悔い改めることを迫っておられます。異邦人は不自然な罪の道をたどることによって、ユダヤ人は神様のみこころによって心がかたくなにされたことによって、不従順であることを知らされているのです。神様の恩寵はいかに大きなものなのか、誰にでも手にできるものなのか。それは与えられていなかったからこそ嘆願し、失ったからこそ後悔する、なんとも人心を奮起させるものだということがわかります。神様の前で謙遜にさせられ、自分自身の救いがたい滅びの状態を告白し、神様の憐れみを懇願すること、神様の慈愛のなかに留まり続けることを希求すること、これが望まれている人間の姿なのです。そしてその姿は一貫して変わることがないのです(29節)。

 神様!これは一体全体どういうことなのですか?あなたのみこころはいったいどこにあるのですか!?悲惨な、残酷な、理不尽なニュースを見聞きするたびに心が揺り動かされます。なぜ?どうして?と思ったときこそ、神様のみこころが働かれているのではないでしょうか。「敢えて」イスラエルに不従順を知らされることによって救いを全うされようとする神様です。すべての人が従順で満たされるときまで、忍耐して、待っておられる神様です。すべてのことが神様の御手の中にあるのです。その神様に礼拝を献げさせていただいていることに感謝しましょう。

【月曜】 ローマ書12章1~21節 「キリスト者として生きる」

 この章から具体的な生活態度についてパウロは提言していきます。そこでまず、あなた自身をささげなさい!と迫ります。しかもその献げものは「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物」としてなのです。献げものとしてふさわしいかどうか、疑わしいものではないか、みこころに沿った献げものかどうか、善をわきまえる判断力が求められています。

 自分自身を献げたならば、この世と妥協することなく、かえって心を新たにすることによって、継続的に造り変えられていくことを知ります。キリストに似たものにされていく、その過程を知ることになるわけです。一時的な献身ではすまされない、生きた、継続した献げものを謙遜に、愛をもって献げる信仰者の姿が浮かび上がってきます。

 パウロは生活における様々なシーンを挙げて、模範になる言動の実行を促します。「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(21節)と重要な秘訣を伝え、この章が結ばれます。生きた供え物として、悪を退ける最短の道は、生活を聖い、善い思いと行いとで満たしておくことではないでしょうか。常に主のそばに置いていただけるよう祈りましょう。

【火曜】 ローマ書13章1~14節 「この社会の中で生きる」

 国家・社会の権威、秩序は神様が定められたことであり、神様は人間が人間を統治することを認めておられる、ということです。神様がいらっしゃらなければ上に立つ権威の出所、成り立ちは怪しいものとなってしまいます。ところが、神様は人間の良心を積極的に働かせるために、時折不完全で無知な人間を通しても働かれます。ですから不完全な、暴走もしてしまう政府が生み出されることもあるでしょうが、それでも敬意をもってこの社会のなかで秩序を守ること、義務を果たすこと、渡された務めに励むことを奨励しています。これはすべての指導者が神様の選びによる、と言っているのではなく、神様が制定されたことに対して敬意を払うことを促しているのです。

 キリスト者は社会のなかでも愛をもって生活するように勧められています。いえ、愛がなければ真の律法が全うされないのですから、進んで愛することに励まなければならないでしょう。さらに、救いを完成させるキリストの再臨に備え、イエス・キリストを着ること、この世にある罪深い快楽から自分を守り、キリスト者と呼ばれるにふさわしい生活をするように警告が出されています。キリストにある公明正大な生き方に進みましょう。

【水曜】 ローマ書14章1~23節 「教会の中で生きる」

 謙遜に、愛をもって、公明正大な生活をしていこう、とお奨めがあった後に、信仰が「弱い」と指摘されるとは一体どういうことなのでしょう。信仰生活で悪を退けるために消極的な選択をしてしまう、かえって歩みが臆病になり、重要でないことに対していたずらに、大げさに心を遣う人が「弱い」といわれるようです。弱いものがいるならば、その対象として強いものがいるわけで、この二者がどうやら信徒間に不和をもたらしていたようです。

 パウロは「食べる」という非常に具体的な、生活そのものの行動から信仰生活の落とし穴について指摘しています。重要なのは「私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい」(13節)。自分では良かれと思ってしていたことが、周囲の人に疑問、戸惑いを生じさせ、「クリスチャンって?」と思わせてしまっていないでしょうか。あなたの言動は徹頭徹尾信仰に立った配慮ができていますか、確信を持って歩んでいますか、その歩みはお互いの霊的成長に役立っていますか、と訊ねられているのです。お互いが疑心暗鬼に陥らないように心を強く保てるよう祈りましょう。

【木曜】 ローマ書15章1~13節 「キリストと共に歩む」

 キリストに似るように、キリストに倣って生きていくなかで、お互いを責め合うことなく、自分自身の信仰の確信と、隣人への愛の配慮とで心が満たされたら、どんなにすばらしい一致が私たちを待っていることでしょう。神様も喜んで受けいれてくださるに違いないと思いませんか。ここでは「喜んでもらう」ことに励むことが勧められています。しかもその喜んでもらう人の徳や、益になるように、です。

 「キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです」(3節)。この真理を実証していくと、主は無知で蒙昧、とんちんかんな間違いや虚しい野望を抱いていた弟子達にどのような眼差しで見つめられていたでしょうか。主は決してあら探しをしたり、とげとげしくしたり、不親切になったりはせず、完全な愛と忍耐とをもってお取り扱いされておられます。憐れみの一囲いのなかにいながら、弱い、強いと云っている場合ではないと思わされます。まして異邦人もともに喜べ!と言っているのですから、それこそ奇想天外な応酬があってもおかしくない。何が喜んでもらえるのかもわからないときがあるかも知れません。それでも主はすべての民を慈しんでおられ、すべての民が礼拝する時を待っておられるのです。主の期待に応え、望みにあふれる歩みを進めましょう。

【金曜】 ローマ書15章14~33節 「使徒の職務のために祈る」

 パウロの宣教の旅は続きます。「キリストの福音をくまなく伝えました」(19節)、「キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです」(20節)。すべての民が神様の前に礼拝する時を待ち望み、ありとあらゆる人々に福音を届け、ひとつの目標に踏みとどまらず、さらに先を目指し、可能な限り教会建設、伝道事業を推し進めていたことがうかがい知れます。この大事業を成し得たのはもちろん、パウロが主の御恵みへの応答であり、任務を果たしたいという熱心であったことは云うまでもないことですが、背後にある支援も欠かせない、ということを抜かしては語れません。

 伝道者としての役割を果たすときに、最も辛く、言い出せないことは自分の魂や生活が困窮している状態です。自分が進めようとしている伝道の計画が受けいれてもらえるかどうか、という不安もあります。才能あふれるパウロですら、自分の計画を披露し、不安をさらけ出し、祈ってくださいと懇願しています。教える立場であるからこその試練が待ち受けています。伝道の背後には執り成しの祈りが必要です。伝道者が喜んで、思いを尽くして奉仕に励むことができるよう、伝道者、牧会者、同労者のために祈りましょう。

【土曜】 ローマ書16章1~27節 「友人ために祈る」

 ローマ人への手紙の最後は他のパウロ書翰にも見られるように挨拶、祝祷で締めくくられます。この手紙の持参人であったであろう、フィベの推薦に始まり、ローマ教会の構成員を覚えて、名を挙げて「よろしく」と挨拶を送ります。名前だけでも26人!その人々に繋がる家族、聖徒である同労者を含めると何人になるのでしょうか。教会に連なる一人一人が一致をもって従順に主に仕え、霊的勝利を勝ち得ることを祈ります。短いお奨めの後には執筆当時の同労者一同からの挨拶が続きます。短い挨拶の中にも礼儀正しく、ねぎらいを込めることによって、離れていても主にある同労者の輪が築かれていったことでしょう。

 ここに記された人々の名はちょっとした有名人もいれば、市の上役もいます。しかし大半がそのまま名も知れず、年月とともに風化されてしまう名前。友情の存続は「覚えている」というこんな些細なことで壊れたり、保たれたりするのだと思うのです。今、私たちのそばにもおられませんか。あの人は一体どうしているのだろう。他の人は忘れてもわたしは忘れないよ、という友人はいませんか。その人のために祈ってあげられるのはあなたしかいないかも・・・。主がどのような取扱をその友人になされるのか、まったく未知ではありますが、いずれのときに「ハレルヤ!感謝だよね」と手を取り合えると信じて祈りましょう。