新約 第32週 ローマ書6章15節~11章12節
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聖書教会連盟 泉野聖書教会 牧師
中西 明
2007年8月3日 初版
【日曜】 ローマ書6章15節~7章12節
クリスチャンは、律法の行いとは関係なく、信仰により恵みによって救われました。そして、その後も、律法とは関係なく、恵みのなかで成長してゆきます。律法とは関係なく・・・そうです、パウロは、クリスチャンは「律法の下にではなく、恵みの下にある」と言っています。そうすると、律法は関係ないとまで言ったら、クリスチャンは何でも自由に罪を犯そうということになるんじゃないか?そんな反論が予想されます。パウロは、今回のところで、その予想される反論に答えているのです。
【1】 クリスチャンは積極的に罪を犯そうとは思わない(6章15~23節)
クリスチャンは、かつては「罪の奴隷」であった者も、今ではキリストに身をささげ、自ら「義の奴隷」となることを選び取ったのです。そのクリスチャンが、弱さのゆえに罪を犯すことはあったとしても、自ら積極的に罪を犯そうという思いを持つことはありません。
【2】 クリスチャンは律法と縁を切った(7章1~6節)
ここで、パウロは、クリスチャンは律法とは縁を切ったと書いています。律法は、不完全な私たちの罪を指摘します。私たちの古い夫である律法は、いつも私たちを責め立てるのです。しかし、クリスチャンはその律法とは縁を切って、キリストと縁を結びました。イエス・キリストを信じるなら、私たちは絶えずイエス様の愛と恵みを受けて、律法を守り行う者に造り変えられてゆくのです。律法そのものには私たちを救う力はありません。イエス様にこそ救う力があるのです。
【3】 律法そのものは聖であり、良きもの(7章7~12節)
じゃあ、律法は罪なのかというと、そんなことはないとパウロは言います。律法があるから、私たちは罪を知ったのです。律法があるから、私たちはイエス様を必要とすることが分かったのです。律法そのものは聖であり、良きものなのです。
【月曜】 ローマ書7章13節~8章11節
【1】 人間パウロの告白(7章13~25節)
律法を守ろうと努力して、パウロが見出したことがあります。それは、自分のうちに罪が宿っていること、自分の肉のうちには善が住んでいないということです。心では善を行いたいと願うが、しかし肉では罪を犯してしまう・・・あの偉大なパウロであっても、そうだったのです。イエス・キリストを信じた瞬間にクリスチャンは義と認められました。しかし、だからといって全く罪を犯さない者になったわけではありません。クリスチャンになっても、罪の性質は残されているのです。クリスチャンは生涯をかけて聖められ、天国において完全に聖められるのです。ですから、この世にあっては、罪の現実を知らされることがいくらでもあります。しかし、その時こそ、私たちはますますイエス様を必要としていることを自覚し、イエス様に信頼する者に変えられるのです。
【2】 御霊に従って歩む信仰者の勝利(8章1~11節)
イエス様は私たちに罪に打ち勝つ力を与えてくださいました。その力は、もうひとりの助け主である御霊=聖霊様によって与えられたのです。私たちのうちには、今も罪の力が働いています。その罪の現実を、パウロはここで「罪と死の原理(=法則)」と呼んでいます。一方、その罪の力に打ち勝つ力の法則を「いのちの御霊の原理(=法則)」と呼んでいます。
パラグライダーが上昇気流に乗って空高く舞い上がっている情景を思い浮かべください。パラグライダーには重力の法則が常に働いています。しかし、上昇気流に身をゆだねるとき、パラグライダーは空高く舞うことができます。キリストに信頼し、御霊のご支配に身を委ねる時、私たちは同じように、罪の力に打ち勝つ力が与えられるのです。
肉に従うことを願えば、クリスチャンといえど、罪を犯してしまいます。しかし、イエス・キリストに信頼し、御霊に従うことを願うなら、罪を犯さなくてすみます。クリスチャンはみなキリストにあって、罪に打ち勝つ御霊の力が働いているのです。絶えずイエス・キリストに信頼し、御霊のご支配に身をゆだねましょう。
【火曜】 ローマ書8章12~30節
【1】 クリスチャンはみな、御霊をいただいている(8章12~17節)
クリスチャンは、自分の肉の努力や禁欲によって、罪を犯さなくなるのではありません。イエス・キリストに信頼し、御霊に支配されることによって、罪から解放され、罪に勝利できるのです。神の子どもとされたクリスチャンはみな、罪に打ち勝たせてくださる御霊を持っています。クリスチャンが神を「天のお父様」と呼べるのは、この御霊が与えられているからです。
【2】 御霊がとりなしてくださっている(8章18~25節)
クリスチャンはみな御霊をいただき、確実に天国に導かれます。しかし、この世にあっては、様々な困難や苦しみを通ることがあります。クリスチャンが試練や苦しみのなかにある時、私たちのうちに住まう御霊が、私たちのためにとりなしてくださいます。私たちがどのように祈ってよいか分からないときでさえ、御霊が言葉にならないうめきによってとりなしていてくださるのです。あなたのうちで、今日も御霊が祈ってくれています。御霊はイエス様とともに、心強い助け主なのです。
【3】 万事を益としてくださる神(8章26~30節)
クリスチャンが知っていることがあります。それは、「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」ということです。今は「なぜ?」と思うことも、神には、私たちには思いも及ばぬ計り知れないご計画を持っておられます。あなたがこの世で経験する苦しみや困難を、神はご自身の栄光のために、そしてあなた自身のために用いることができるのです。『創世記』のヨセフ物語をご存知でしょうか。ヨセフは兄弟に裏切られエジプトに売られました。しかし、そのヨセフがエジプトの宰相となったとき、カナンから飢饉のために逃れて来た兄弟を救うよう導かれたのです。神はヨセフにとって最悪に思えた出来事を最終的に最善へと導かれたのです。クリスチャンはこの世の苦しみを通りながら、しかし最終的には救われるのです。そのことを信じましょう。
【水曜】 ローマ書8章31節~9章5節
【1】 勝利の歌(8章31~39節)
神には確かな救いの計画があると信じるなら、いかなる時にも、私たちは勝利の希望と新しい確信を持つことができます。神が私たちの味方であるなら、だれも私たちに敵対することはできません。神は、私たちを愛してご自身の御子をさえも惜しまず、死に渡されたお方です。あなたは失敗をして罪を犯すかもしれません。しかし、神はどんな時にもあなたを弁護してくださいます。サタンはあなたの罪を指摘するかもしれません。しかし、神はキリストにあるあなたを絶えず義と認めてくださり、罪に問うことはしません。たとえ、状況や感覚が悪いように見えても、神は常にあなたの味方です。神の愛から私たちを引き離すものは何もないのです。
【2】 パウロの心の痛み(9章1~5節)
勝利の歌から一転、パウロの悲しみの告白が始まります。それは、福音を拒絶し、まだ救われていない多くのユダヤ人同胞に対する悲しみです。パウロの悲しみは、クリスチャンであるなら誰もが持つ悲しみです。救われていない家族、友人、知人・・・救われていない多くの日本人・・・パウロのように救われていない魂に重荷を持ち、とりなし祈ろうではありませんか。
【木曜】 ローマ書9章6~33節
イスラエルは神様に特別に選ばれた民族です。彼らは、諸国民を祝福する特別な使命のために選ばれました。しかし、だからと言って、彼らが自動的に救われるのではありません。イスラエル人であっても、救い主イエス・キリストを信じて救われるのです。
パウロは、イスラエル人として生まれる者がみな、救いに定められた真のアブラハムの子孫(真のイスラエル)ではないと言います。その具体的な例として、アブラハムから生まれたイサクとイシュマエルをあげます。アブラハムの祝福を相続する者として選ばれたのはイサクでした。また、イサクとリベカの間に生まれたヤコブとエサウをあげます。こちらも、アブラハムの祝福を相続する者として選ばれたのは、ヤコブでした。
神様はあらかじめ、救いに至る者を選び、定めておられました。救いは、人の行いによらないで、ただ神様の主権的な選びによるのです。
しかし、そうすると、神様が思いのままにある者を選び、思いのままある者を退けるのは、神様に不正があるのではないか。もしそうなら、人間の責任をとやかく言うことはできないのではないか。そんな反論が出てきます。
しかし、神様に背き罪を犯したのは、みな人間の責任なのです。すべての人は罪を犯し、神様からの栄誉を受けることができません。しかし、神様は罪人であるすべての人に福音を知らせ、救いのチャンスを与えてくださっているのです。創造主であり主権者である神様が、救いにだれを選ぼうが、被造物である私たち人間には文句が言えません。ただ言えることは、イエス・キリストを信じて救われた者は、それが神様からの一方的なあわれみであり、恵みであるということです。神様はユダヤ人の中からも、異邦人のなかからも、イエス・キリストを信じて救われる人々を起こされました。
キリストを信じて救われた私たちは、神からの一方的なあわれみと恵みを受けたのです。そのことを感謝しましょう。
【金曜】 ローマ書10章1~17節
10章で、パウロが書いていることは、福音に応答すべき人間の責任についてです。神様は、だれにでも得ようと思えば得られる救いを提供してくださいました。ただし、人はその神様が提供してくださる救いの方法に従わなければなりません。神様が提供くださる救い方法は、行いによって自分自身の義を立てることではなく、へりくだって神様からそのまま義をいただくことです。つまりイエス・キリストを信じて、そのまま義としていただくことです。
神様は救われるために何か特別に難しいことを要求されているのではありません。救いを得るために必要なことは、イエス・キリストが十字架の贖いによって、すべて成し遂げてくださいました。人間の側で救いを得るために必要なことは、素直にそのキリストのみわざ、福音のみことばを信じることなのです。ですから、パウロは「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」と、そのように言うのです。
しかし、この福音も、宣べ伝える人がいなければ、だれも福音を聞いて救われることができません。ですから、すべてのクリスチャンには、イエス・キリストの福音を伝える使命と責任があるのです。そして、その福音を聞く一人一人にも、福音に応答する責任が与えられているのです。つまり、福音を宣べ伝えるのも、またそれを聞いて信じる信じないのも、これは人間の側の責任なのです。
あなたがクリスチャンであるなら、あなたには福音を伝える責任があります。そして福音が語られているなら、それを聞いた人は、神の福音に応答する責任があるのです。
【土曜】 ローマ書10章18節~11章12節
イスラエル民族あるいはユダヤ人は、今もかたくなに福音を拒絶しています。パウロの時代もそうでした。すると神はイスラエル民族あるいはユダヤ人を完全に退けてしまったのでしょうか? パウロは「絶対にそんなことはない」と答えています。パウロは、彼自身イスラエル民族ですが、今はクリスチャンです。パウロはかつて教会の迫害者でした。そんなパウロでもキリストによって救われたのです。パウロは、彼自身の救いの証を通して、イスラエルが完全に捨てられたのではないと言います。また、旧約の時代エリヤに関する箇所で言われたことは、今日にも当てはまるとパウロは言います。すなわち「今も、恵みの選びによって残された者がいる」ということです。
イスラエル民族の多くがつまずいている中にも、神は最善の計画をお持ちなのです。それは、イスラエルが福音を拒絶したことによって、福音がかえって異邦人に届けられ、異邦人のなかからも救われる者が起こされるようになったということです。世界中の人々が救われるとき、やがてイスラエルからも救われる者が起こされる・・・イスラエルの救いの完成の時が訪れる。神様はそのことを約束されているのです。
今日のところから、どんなことが教えられるでしょうか。それは、今はかたくなに福音を拒絶し、捨てられている者のように見えても、その人のためにとりなしの祈りをやめてはいけないということです。そして、どんな人にも福音を伝えることをやめてはいけないということです。もし、あなたが家族のため、友人のため・・・救いのためにとりなし祈っているなら、あきらめずに祈り続けましょう。そして、あきらめずに伝道をし続けましょう。
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