新約 第31週 ローマ書1章1節~6章14節
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日本同盟基督教団
横須賀中央教会 協力教師
高田 さをり
2007年8月3日 初版 2009年12月1日 第2版
はじめに・・・
この手紙は皆さんもご存知の通り、パウロ先生によって、2000年ほど前に書かれたものです。ローマに点在する教会に、クリスチャンたちに宛てて書かれた手紙であります。
パウロ先生自身が1章10節でおっしゃっているように、先生はローマに行きたいとは願いながらも、なかなか行かれずにいる状況でした。そんななか、ギリシャのコリントにおいて、海の向こうのローマへ向けてしたためられた手紙がこの「ローマ人への手紙」(ロマ書)です。
ロマ書は手紙の体裁をとりながらも、内容は信仰と信仰生活の基準が明確に示されたものです。神学とキリスト教の教理が記されているものです。
ロマ書をおおまかに分類すると、1~12章はキリスト教教理です。そして12~16章には、それまで書かれた教理と目的を軸にどのように実際生活するか、それが主な内容です。
1~12章にはキリスト教教理とは何か。それは、私たちと共に居てくださる聖霊様、その聖霊様による聖化、神さまによる聖めとはどういうものか、ということが体系的に書かれてあります。「神の目に」聖いとはどういうことか。「神に」聖められるとは、どのようなことなのか。
この手紙が書かれた最大の目的とテーマは何でしょうか。何を目指して、パウロ先生はこの手紙を書いたのでしょうか。今を生きる私たちにも関係がある、その目的とは、「福音宣教」です。
【日曜】 ローマ書1章1~17節
【1節】
使徒パウロ。彼は「キリストのしもべ」と名乗っています。しもべは主人のために働きます。主人の命令で働きます。パウロは自分から出たもののために働いているのではなく、神から出ていることをお伝えするために、この手紙を書いているのですよ、と強調するため、このように書き出しているのでしょう。
【2節】
「あらかじめ約束された」とあります。キリストが地上にいらっしゃって、十字架によるあがないをなされたのは、突然思いつきのように起こったのではありません。パウロは、まずそれを手紙の最初に宣言しています。
これは、預言者たちを通して旧約聖書で預言されてきたこと。それがキリストの出現と十字架をあらわしていたのだよ、あなたがたは預言の成就を味わっているんだよ、と。つまり、パウロは預言者たちの後を受け継いでおり、その預言は確かなものであって、信じるに値するものだ、と書き始められているのです。
【3~5節】
キリストは、人としてこの地上にいらっしゃいました。マタイの福音書のはじめに系図が書かれてあります。イエス・キリストは、人として、確かな家系、普通の人々と同じ営みのなかに、あえて生まれました。その必要がなかったのに、私たちと同じようになられました。
4節を見るとき、私たちは再び知ります。主イエスというお方は、「ただ人間として生まれた男性が突然教祖になって一世を風靡した」というのではない、ということを。
この方の誕生は、ですから御霊によるものでした。十字架にかかって死なれましたが、死に打ち勝ってよみがえり、人々の前に姿を現し、そして天に昇られた方です。
そのキリストが ―――人として私たちと歩んでくださり、父として導いてくださり、御霊としてそば近くいてくださる神様が――― 弟子たち、使徒たち、あらゆるクリスチャンのひとりひとりに、働きを任されたのでした。パウロ先生も、自分もそのうちの一人である、と5節に書いています。
【14節以下】
パウロ先生は、あせっています。そういうわけで14節の「負債」という言葉を使っているのでしょうか。また新共同訳聖書では「果たすべき責任」とあります。このフレーズは「ある人から預かっているものを、先方に渡していないので渡さなければ」というような言い回しです。
わたしたちは渡しましょう。伝えようとか、説得しようとか、そういうことではなく、ただ、その両手に乗せられた福音を、隣の人へお渡しすることが大事です。
福音には力があります。それを信じるすべての人を解放へと導く力です。
【月曜】 ローマ書1章18節~2章4節
どのような人も、弁解することはできません。それは、神さまの存在を知っているかどうか、ということについてです。
神さまは、あらゆるところに、そのしるしを示しておられます。ですから、わたしたちは、たとえ聖書を読まなくても、教会にくることがなくても、福音を知らされていなくても、神の存在と圧倒的な力を知らない、とは弁解できないはずなのです。
【20節】
昔の日本人は、「自分ではどうにもならない」色々なことを、妖怪変化の存在や神々という形で理解していたのだと思います。それでも、自分以外に「神」という存在があると気づいていただけ謙虚さを感じますが。
しかし、やはり「気づいていれば」良いわけではありません。どこまでいっても自分本位なのです。せっかく神さまの気配を察知しても、自分に災いが降りかからなければいいや!今が良ければまあいいだろう!という神理解までしか持ち合わせてこなかったふしがあります。これは残念です。
【21~23節】
そして、現代では、神の存在そのものを否定する、ヨコにおいておく、そういう風潮になっている。むしろ、信じていると「ぁゃしぃ」。となってしまう。
しかし、そうやって神さまを否定する人々、そういう人々も代用物を求めます。偶像礼拝。「まことの神さまでないもの」を「神」として拝む。ギリシャ神話、日本神話、多くの神々が登場します。けれども、これらの神々は、人の情欲が具現化されたものなのです。ですから、神々には担当があります。偶像という神がいるわけではない。わたしたち人間の自己中心が形になっていったのが、いわゆるところの、神なのです。そして、その神の名によって、その神を理由にして、利益を追求し、自分の中の罪を正当化して行くのです。ゆえに、そこには「聖書が提示するところの悔い改める」という行為は、もちろん行われません。
【26節以下】
ニセの神礼拝と欲望は必ずセットなのです。それゆえ、それらの礼拝には悔い改めがありません。ただ罪に対する正当化があるだけなのです。これが罪の姿です。自由に生きているつもりが、縛られてしまって、がんじがらめになってゆく状態です。こうして、人は本来の姿からは、かけ離れていってしまうのです。
自分の罪を軽んじると、何もかもを軽んじるようになります。この解決が神さまにあることを忘れるとき、わたしたちは、自分の中のあらゆる情欲を正当化して人を自分を傷つけてゆくでしょう。
神を軽んじてはいけません。偶像礼拝の罪を、軽いものとして見てはいけません。自分を辱めることになります。自分を愛さなくてはいけません。そうしなければ、隣の人を愛することもできないからです。わたしたちは、神に従いましょう。全くの自由を得ようではありませんか。それが勧められ、既に提示されているのです。うけとめつつ歩もうではありませんか。
【火曜】 ローマ書2章5~29節
主イエスキリストの公生涯、最初の一声は「悔い改めなさい、神の御国が近づいたから」でありました。主イエスの道を備えた人、バプテスマのヨハネもまた、そのように宣教を開始したのでありました。
してみると、やはり、「悔い改める」ということが、神さまの呼びかけにお応えすることの第一歩、といえるのだと思います。
わたしたちは、悔い改めているでしょうか。
時々、あたまで理解できると、その都度わたしは思っていました。何を思うかというと、
「今日はいいメッセージだったなあ。今日の聖書メッセージは、○○さんに聞いてもらいたいなあ」もしくは「○○さんこそ聞くべきだ」「○○さんのような人が聞くべきなのに、今日は来ていないや、残念だな」
もしも、礼拝で、聖書を読みながら、そんなふうに考えることがあったら、おそろしいことです。
ロマ書2章です。1章は乱れた社会、またまことの神を知らない世界で起こったりであったりする出来事を中心に話が進められていました。
2章は、イスラエル人の世界観をベースに、イスラエル人に向けて書かれています。すなわち、まことの神さまを、既に知っている人々へ。
壁が厚すぎて、御言葉が達しない心になっていませんか。常識に縛られて、知っている知識が心にまとわりついて、余分な脂肪のように、魂にこびりついて、健康を損なってはいませんか。信仰者が犯しやすい罪とは、「義人意識」です。すでに神様によって救われていることに、あぐらをかき、上からモノを見てしまうのです。
福音書のパリサイ人と取税人の記事を思います(ルカ18章9~14節)。神を信じていると自負している人は、このことに陥りやすいのです。
御言葉は、隣人や、他人へ向かっているのではありません。受けたその人に向かっているのです。
使徒の働きの記事にペテロがイスラエルの民に向かって、メッセージする箇所があります。そのとき、イスラエルの人々は、ペテロのメッセージにどう反応したでしょうか。
「律法学者たちは悔い改めろ!」とさけんだでしょうか。
・・・そうではありません。彼らは「私たちはどうしたらよいだろうか」と叫んだのです。
25節以降で出てくる「割礼」は、イスラエル人男性に行われた外科的な処置です。これは旧約聖書からの伝統です。そして、この儀式を通過しているかどうかが、「神の民かどうか」、ひとつの境でした。そうした一通りの宗教儀礼を行っていれば、神は自分を認めてくださると思ってしまっていた人々が、この聖書箇所の背景には多く存在したようです。
しかし。わたしたちは悔い改めましょう。儀礼は大切でありましょうが、それが人を救うわけではありません。
悔い改めない人のままでいるのは、つらいことです。苦労は買ってでもしろ、と言われますが、聖書にはそんなこと書いていないのです。イエス様は、むしろ、おっしゃいます。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところへ来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11章28節)。
【水曜】 ローマ書3章1~31節
【1節以下】
1節以下。イスラエル人は選民です。神が選んだ特別な民です。では何が優れているのかといえば、それは、まず最初に「神のことば」をゆだねられた点です。しかし、それ以外のことは、イスラエル人も異邦人も、同じ人間です。
聖書は言います。すべての人が罪の下にあるということ。そして、この律法と罪と救いの関係性は、今初めて説明されたものではなく、旧約聖書の時代、何千年も前から言われていることだ、とも説明されています。
旧約聖書はウソではありません。おとぎばなしでもありません。むしろ、根本なのです。そして、その根本の古きよきもの(古い契約)を、主イエスが、安定させ、完成させた(新しい契約)のです。
【9・10節】
詩篇14篇が引用されています。
人は、正しいでしょうか。できれば信用したい。どの人もすばらしい、信じるに足る存在であると、思いたい。
ところが、残念ながら、人には、自分でもどうしようもない性質を抱えていますので、それが難しいのです。子は親の期待を裏切って、それが悪い裏切りの時もあって、しかし、それが人です。親だけは絶対正しいと子どもは信じたいものですが、ほかならぬ親は自分がそれほど正しくないことを知っているでしょうし、知るべきです。配偶者とは、恋人とは、親友とは信じあえると思いたい。でも、やっぱり、なかなか上手く行かないのが、私たちの暮らす社会です。モーセの時代から離婚についての話題はありますし、その前から、兄弟同士の憎みあいの記事があり、友人同士の決裂がある。
人は、罪から解放されない限り、この裏切りの連鎖からも解放されません。しかも、律法によっては「悪いことだ」と自覚することはできても(自覚も大切ですが)、根本的な解決になりません。
【21節以下】
人は完全に律法に従うことはできません。また、神の目的を全うすることもできません。そして、信仰を持った人が、二度と罪の悩みを持たないわけでもありません。しかし、主イエスの贖いを受け入れた人々は、罪から来る刑罰を免れることができます。イエスの贖いを受け入れるとは、どのようなことでしょうか。それは、問われるべき責任を、イエスが背負ってくださったことを、信じ感謝することです。それが「義とされる」ということです。
何人であっても、先に信じても遅れて信じても、イエスを信じることによってのみ、人は救いを受けるのです。
「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです」(使徒4章12節)
【木曜】 ローマ書4章1~25節 「神による義」
パウロは、「神によって義とされる」とは具体的にどのようなことなのか、旧約聖書からアブラハムのエピソードを引用しています。信仰の父祖と呼ばれるアブラハムの「行いが立派であったゆえ神に認められたのではない」ということが説明されます。
【9~11節】
割礼とは現代も行われている「神の子とされる」ことを覚えるための行為であり証拠とされます。しかし、この行為自体に救いがあるわけではありません。実際アブラハムは割礼を受ける以前に神によって義とされました。むしろ神によって義とされたことを確信して、アブラハムが証を立てたということが強調されています。
【13節】
その姿勢を貫いたアブラハムにこそ、神は祝福を約束した旨が述べられます。このことから信仰とは一方通行の関係ではなく、神と人との相互関係がしっかりと生きている関係であると知ることができます。
【20~22節】
見えている幸い以上のものを神に期待したアブラハム、こういう人こそ「神から義とされる人」であると念が押されています。
【23~24節】
また、アブラハムの姿勢が後世を生きるわたしたちに残されているのは、私たちのためでもあることがわかります。キリスト御自身を見たりさわったりしていなくても、アブラハムのように「見ずに期待する」のなら、必ず神との関係が健やかなものにされるということ、イエスの犠牲と復活を信じ感謝することによって「神の目に義とされる」ことが説明されます。
【25節】
キリスト・イエスの十字架の死と復活は、ひとえに私たちを義のなかに招きたいがためであったと、4章は綴られます。
見えるものを信じることさえ難しい時代です。けれども、あらゆる事象のなかに神は温かいメッセージをこめてくださっています。目に見えることを感謝しつつ、さらに目に見えない幸いにも期待する日々を歩みたいものです。
【金曜】 ローマ書5章1~21節
4章からの続きです。
信仰にあって義とされる(救われる)恵みに導き入れられたキリスト者は、神の平和のうちを生き、喜びに生きます。
患難さえも希望に変えられる(患難→忍耐→練られた品性→希望)と知っているからこそ、いつも喜ぶのです(第一テサロニケ5章16節)。
しかも、この希望は失望に終わることがありません。「聖霊によって、神の愛が私に注がれているから」(5節)です。
いのちをかけて表された十字架の上での愛。どんなときでも、キリスト者は、その愛を思い起こすとき、喜びに包まれます。元気になります。
「天地を造られた偉大な神様が、小さな私を、それほどまでに愛してくださっている」と。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方」(8章32節)の愛が注がれているから、失望に終わることはないのです。
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【土曜】 ローマ書6章1~14節
罪人であることを知れば知るほど、「こんな者さえも赦していただけるなんて・・・」と、赦しの恵みも豊かに、しみじみ実感します(5章20節)。
では、その恵みをとことん味わうために、「さらに罪のうちを歩もう!」ということになるのでしょうか?(6章1節)
いえいえ、本当に信仰によって義とされ、罪赦されたキリスト者は、もはや罪のうちを歩むのが苦しくなります。罪のうちを歩む存在ではないのです。人が水中で生きられず、魚が陸上で生きられないように。
なぜなら、古い肉の欲に生きる自分はキリストとともに十字架につけられて死に、キリストの復活とともに新しい神の子として生きる者とされたからです(5~8節)。洗礼(バプテスマ)が、その証印です(3節)。
自由の身となったのに(7・9節)、再び罪の奴隷に舞い戻るなど、愚かで不合理で、何より新しい人にとっては生理的に受けつけられないことなのです。貧民窟から抜け出したのに、なぜまたその生活に戻ろうとするのですか?
奴隷解放と自由民権運動を通しての自由は、多くの血と汗と涙によって勝ち取られたものです。もはや誰も好んで再び奴隷の身になろうとはしません。
同様に、キリスト者として、真の自由の恵みに浴した者は、もはや再びサタンのいざなう罪の奴隷に身を落とすなんて、考えるだけでも嫌になることなのです。
罪の奴隷からの解放には、やはり多くの「血」が流されました。十字架の上で流された血潮です。救われたあなたが、もう一度罪の生活に舞い戻ることは、その「血」を無駄にすることになります。主イエスをもう一度、十字架にかけることと同じなのです(ヘブル6章5~6節)。
「愛する主を、本当にもう一度十字架にかける気ですか?」 罪に歩もうとしたときに、自問してください。
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