新約 第29週 使徒の働き20章1節~24章9節
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日本福音自由教会
大津福音自由教会 牧師
渕野 弘司
2007年7月13日 初版
【日曜】 使徒の働き20章1~17節
トロアスでの集会の記録は、初代教会のキリスト者たちがどのように礼拝し、交わりを持っていたかわかります。この頃すでに、キリスト者たちは「週の初めの日」に集まり、「パンを裂く」聖餐式をし(7節)、福音が語られるという集会が行われていました。このときは、翌日にパウロが出発することになっていたので、特別に別れを惜しんでの夜通しの礼拝、交わりが持たれました。
そのなかで、ユテコという青年が、昼間の労働の疲れや食後に長く続くパウロの話などで、つい眠り込んでしまい、腰をかけていた3階の窓から転落してしまいました。気絶ではありません。そのとき医者ルカも居合わせていたので、確かに死んだのです。
この記録は、礼拝中に眠ってはいけないという警告のためではないでしょう。この出来事は、私たちが主を礼拝するなかにも、同じことが起こっているのだということを覚えさせるものです。ユテコの姿こそ、神を礼拝する私たち自身なのです。古い自分は死に続け、新しくよみがえり続ける礼拝こそが、私たちの真の礼拝、キリスト者生活なのです。
【月曜】 使徒の働き20章18~38節
パウロは、エペソ教会の指導者たちに別れのメッセージを語ります。これらのメッセージにキリスト者としてのあり方を教えられます。
【24節】 自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた任務を果たし終える
パウロは自分の歩んできた福音宣教の道を振り返ります(18~21・27・31・33~34節)。彼の働きは教会を通して「主に仕えてきた」(19節)歩みでした。キリスト者はキリストの教会にあって、主に仕えるのです。そこには謙遜の限りを尽くす(19節)という、主イエス・キリストを模範とした姿勢が求められるのです。
パウロにこの先、迫害と苦しみが待っていることは、聖霊によって示されていましたし、容易に想像できました。しかし、彼は困難のなかでも神から与えられた「走るべき行程」があり、それを走り尽くすことが、彼の使命に生きることだと受けとめていました。教会を導くために神に立てられた者は、自分自身と群れ(教会)全体に気を配りながら(28節)、キリストの羊を牧していく任務が与えられているのです。パウロだけでなく、主は、あなたの「走るべき行程、主イエスから受けた任務」を用意しておられるのです。
【32節】 神の恵みとみことばにゆだねます
エペソ教会から離れていくパウロは、長老など指導者たちを成長させ、福音を伝えていくために、神の恵みとみことばにゆだねます。聖霊によって与えられる神のみことばの力が、私たちを神の御国を継がせる祝福へと導くのです。
【31・35節】 思い出してください
パウロは、教会とは何か、またこれからの教会をどのように導くべきかを示すなかで、将来の危機に備えるべきことを示します。曲がった教えが起こるなかで、パウロが示した福音の真理を思い起こすことが、曲がった教えに流されない方法なのです。そして困難のなかにありながらも、労苦して弱い者を助け、「受けるよりも幸いである」ことを思い出して歩むのです。
私たちにも与えられた主イエスにある任務があり、走るべき行程があり、困難にあっても、神の恵みとみことばが与えられています。そのみことばを思い起こすなかに、私たちを召してくださった神の栄光が輝いていくのです。
【火曜】 使徒の働き21章1~26節
パウロ(記者のルカも同伴)は、ミレトでエペソ教会の長老たちと別れてエルサレムに向かいました。船は地中海を渡り、フェニキヤのツロに上陸し(1~3節)、さらにトレマイを経由し、カイザリヤに着き、そこでは伝道者ピリポの家に滞在しました。カイザリヤでは、かつてエルサレムの飢饉を預言し、そのとおりになった(参照:11章28節)預言者アガボが、「『パウロはエルサレムで捕らえられ、異邦人に渡される』と聖霊が告げた」と言います(12節)。そのため、ルカも含め(12節)、パウロの周りの人々は、エルサレムに上らないように泣きながら訴えます(13節)。パウロは当時の教会に、なくてはならない伝道者、指導者だったからでしょう。
しかし、パウロは、十字架につくためにエルサレムにまっすぐに顔を向けられていた主イエスのように(参照:ルカ9章51節)、エルサレムに上ることを取りやめはしませんでした。彼自身にも御霊によって、「なわめと苦しみが私を待っている」(20章23節)と示されていましたが、彼にはエルサレム教会へ諸教会からの献金を届ける主イエスから受けた任務があり、御霊の示しによって、エルサレムへ行ってから、ローマを見なければならない(19章21節)とも示されていたからです。御霊はエルサレムへ行くなとは言われていなかった。パウロには迫害と苦しみが明らかに示されても、エルサレムへの道、さらに続くローマへの幻が「走るべき行程」(20章24節)であったからです。
パウロだけでなく、今を生きる私たちキリスト者ひとりひとりにも、向かうべき、それぞれのエルサレムがあります。そこでは傷つき、苦しむことがあるかもしれません。この世の流れに妥協せずに、神のみこころ、主イエスの御名のために生きることは苦しみが伴うことは、当然予想されることだからです。それでも私たちは、主イエスの御名のために、まっすぐに進んでいくことを選び取っていきたいのです。
【水曜】 使徒の働き21章17節~22章10節
ヤコブたちの提案によって、ユダヤ人のきよめの儀式に加わった(21章20~26節)パウロでしたが、アジヤからのユダヤ人によって襲われてしまいました。彼らの訴え(21章28節)は、まったくのでたらめで、パウロとエペソ人トロピモとはエルサレムの町でいっしょにいただけで、神殿には連れて行かなかったのです。
このことで町中が大騒ぎとなったため、ローマ軍の千人隊長が百人隊長らとともにローマ兵を率いてきます。群衆の叫びは、めいめい勝手なことだったので、確かなことを調べるために兵営にパウロを連れて行くことにしました。こうしてパウロは、ユダヤ人の暴徒から守られます。主はパウロを守るためにローマ軍をも用いられたのです。主は私たちを守るために、あらゆることを用いられるのです。
危機一髪のところで助け出されたパウロでしたが、この危機的状況のなかでも冷静に千人隊長に願い出て、ついさっき自分を殺そうとしていた群衆に語りかけ始めます。何とかして主イエス・キリストの救いを伝えるために機会を逃さなかったのです。
パウロの情熱と知恵は、いったいどこから来たのでしょうか。それは「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、・・・わたしの証人となります」(1章9節)と主イエスが約束されたように、聖霊なる神の働きに他なりません。
22章に入って、パウロは、自分の救いのあかしを語りはじめました。キリスト者がとにかく語ることは自分が主イエス・キリストとどのように出会って、救われたかということです。
【木曜】 使徒の働き22章11~30節
パウロの民衆に対する弁明は、救いのあかしから、異邦人宣教への召命のあかしへと移ります。パウロの見えなくなった目を開いてくれたのは、「律法を重んじる敬虔な人で、そこに住むユダヤ人全体の間で評判の良いアナニヤでした。さらに神殿において祈っていたときに、主イエスが現れ、主イエスから異邦人へ遣わすと言われたことをあかししました。
異邦人伝道を神からのみこころとする宣言に民衆の怒りが爆発しました。この混乱からパウロを引き出した千人隊長はパウロが生まれながらのローマ市民であることを聞いて驚きました。千人隊長が多額の金で市民権を買ったのに、パウロは生まれながらにローマ市民権を持っていたと知り、千人隊長はうろたえました。それほどローマ市民権は特権だったのです。生まれながらにしてローマ市民権を持っていたパウロだったからこそ、異邦人伝道に大いに用いられた器となれたのです。いや、神は、パウロが生まれる前から、彼をそのような者としてお用いになるご計画だったのでしょう。
【金曜】 使徒の働き23章1~15節
パウロはユダヤ人議会(サンヘドリン)において弁明する機会を与えられました。パウロの第一声、「兄弟たちよ」(1節)という言葉に、大祭司アナニヤは激怒しました。ユダヤ人の最高権威者たちである議会に対して「兄弟たちよ」と呼ぶとは何事だというように。ユダヤ律法では、有罪となるまでは被告人を保護しなければならないので、「彼を打て」と命じることは律法に反する行為でした。パウロは皮肉を込めて、「白く塗った壁」とか、「大祭司だとは知らなかった」と言ったのでしょう。
さらにパウロが死者の復活の望みを語ると、サドカイ派とパリサイ派に議会が割れ、パウロに対する裁判も混乱し、パウロはそこからようやく引きずり出されました。
混乱のなかでしたが、パウロは守られました。パウロはこの夜、疲れきってしまっていたり、落ち込んでいたのでしょうか。主ご自身がパウロのそばに立ち、ローマでのあかしの使命を与えます。これからも、いのちの危険にあったとしても、パウロはこの夜の主の励ましをずっと覚えていたからこそ、恐れず危機に立ち向かえたのでしょう。
【土曜】 使徒の働き23章16節~24章9節
過激なユダヤ人たちがパウロを殺そうと陰謀を企てますが、パウロの姉妹の子がこれを耳にし、パウロに知らせこの危機から逃れます。千人隊長まで動かして、パウロを守るためにローマ兵470人にも守られ、馬で運ばれ、カイザリヤの総督ペリクスのもとに連れて行かれます。多くの危機のなかでパウロは守られました。主がその御手を動かし、千人隊長までも動かしてパウロを守られたのです。それはパウロが主の救いをローマであかししなければならないという使命、主のご計画があったからです。パウロはこれらの力強い主の守りの御手を強く覚えたことでしょう。
私たちもまた、主の守りのなかでこれまでも歩ませていただき、これからも主のご計画のなかで、守られ、主の使命に生きることができることを覚えていきたいものです。
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