新約 第27週
使徒の働き11章1節~15章29節

日本長老教会 四日市キリスト教会 牧師
大竹 護

2007年6月29日 初版

【日曜】 使徒の働き11章1~30節

 使徒の働きは、展開の流れを捉えて読むことが大事と言われています。
 9章で世界宣教の器であるパウロが召し出され、10章で異邦人伝道の根拠が据えられます。11章は、先のコルネリオのことが分かち合われ、世界宣教の担い手となるアンテオケ教会が形成されるところです。キリストが召天前に約束された、「地の果てにまで」(1章8節)が、いよいよ実現しそうだ、という雰囲気を感じます。

 前半は、コルネリオのことを話すペテロ。通読している私たちからすると、また同じ話か、と思えるところ。けれども、著者のルカにとっては、これは繰り返し語らなければと思ったほどの内容だったのでしょう。当時、異邦人に伝道するのかどうなのか、大きな問題だったことがうかがえます。それにしても印象的なのは、ペテロの報告を聞いた人々の応答。とかく悪い意味で保守的になりがちな私たちに、お手本となる姿勢を見せてくれる初代教会の先輩たちです(18節)。
 後半は、アンテオケ教会の設立です。バルナバがアンテオケに向かい、サウロ(パウロ)を連れて来る。世界宣教をやってのけるアンテオケ教会の活躍は、13章から見ることにして、驚くべきは、この生まれたばかりの教会が、飢饉で苦しむユダヤの教会に救援物資を送ったという報告。肉体の必要に応えた教会が、霊的必要に応える教会になっていく。
 宣教の思いと、生活の困窮への救済の思いを、ともに持ちたいものです。

【月曜】 使徒の働き12章1~25節

 9章から11章と、世界宣教、異邦人伝道の雰囲気が高まるなか、12章はパウロでもアンテオケ教会でもなく、今一度ペテロとエルサレム教会に焦点を当てます。
 その冒頭は、使徒ヤコブの死という驚きのニュースから始まります。あのヤコブが殺された。当時の教会には、衝撃の出来事だったと思います。しかも、ヤコブだけでなく、ペテロも捕まり、殺されそうな事態となる。教会はペテロのために熱心に祈り続けます。
 ついに十二使徒の中で殉教者が起こり、自分も殺されるかもしれないという状況。鎖につながれ、兵士に囲まれながら、それでも寝ていたというのは、なんとも豪胆なペテロと言えるでしょう。そのようなペテロを御使いは起こします。そして、鎖は落ち、門がひとりでに開き、ペテロは解放されていく。解放されたペテロが真先に向かったのは、マルコの母のマリヤの家です。その家で祈祷会がなされていたからでした。
 この時の教会の姿は、なんともだらしなく、しかし笑えてしまうもの。ペテロが助かるように熱心に祈っていたにも関わらず、実際にペテロが帰ってきたと報告する女中ロダに対して、「あなたは気が狂っている」と言い、挙句には「それは彼の御使いだ」と馬鹿にしています。
 あのエルサレム教会がこの様だった。不信仰な私たちには、どこかホッとさせてくれる姿です。この姿は見習えない。反面教師として覚えたい。しかし、どうでしょうか。このような不信仰な祈祷会の祈りにも、神様は応えて、ペテロを助けてくださったわけです。
 神様のご忍耐とご熱心を覚えつつ、祈り手として成長していきたいと思います。

【火曜】 使徒の働き13章1~20節

 使徒13章は、いよいよ世界宣教へと打って出るアンテオケ教会の姿です。世界宣教の始まりは礼拝からでした。聖霊がバルナバとサウロを選びます。使徒の働きは、これ以降、主にサウロ(パウロ)に焦点が向けられますが、しかしあくまで主人公は聖霊(神様)なのでした。
 第一次伝道旅行と言われるこの旅は、バルナバとサウロ、そして助手としてマルコ(ヨハネ)が行います。まず向かった先は、バルナバの故郷であるキプロス島です。

 キプロスでの伝道は大成功と言えるでしょう。なんと、地方総督のセルギオ・パウロが信仰に入ったというのです。影響力の強い地方総督が入信したということに、二大宣教師がどれだけ励まされたでしょうか。
 蛇足ですが、当時の人は2つの名前を持っていることは一般的なことでした。サウロはユダヤ名。パウロはローマ名です。著者のルカは、これまでずっとユダヤ名でサウロと呼んでいたのが、このセルギオ・パウロが信じた時に合わせて、パウロと呼ぶようになります。以後、サウロはパウロです。
 キプロスでの伝道を終えた一行は、ペルガ、ピシデヤのアンテオケと進みます。ペルガではマルコが離脱し、これは後々問題となるのですが、それは次週の通読となります。
 ピシデヤのアンテオケでの伝道については、ユダヤ人向けの説教が記されています。聖書を知る者に対するパウロの説教。興味深く味わいたいと思います。
 アンテオケ教会の宣教に対する熱心さと、その背後にある神様の熱心さを覚え、私たちも福音を伝える者となりたいと思います。

【水曜】 使徒の働き13章21~41節

 本日の箇所は、昨日に続いて、第一次伝道旅行、ピシデヤのアンテオケでの説教の場面です。使徒の働きには、パウロの三大説教、ユダヤ人向け(旧約聖書を知っている)説教(13章)、異邦人向け説教と(17章)、クリスチャン向け説教(20章)が記されていますが、ここはユダヤ人向け説教のところです。
 ユダヤ人に対しての説教のひとつのスタイルとして、イスラエルの歴史を回顧する手法があったようです。パウロはこのとき、出エジプトからカナン征服、サムエル、サウル、ダビデ、と説教を展開します。
 やや興味深いのは、サウルについて触れているところ。パウロがベニヤミン族出身であり、ヘブル名がサウロであることを思うと、わざわざサウルについて触れた気持ちが分るような気がします。
 ダビデからはイエス様に一気に飛びます。そして、このイエスこそ、イスラエルの先祖にされた神様の約束の成就であると述べていきます。イエスが約束の救い主だとして、そのイエスに何が起こったのか。それは、十字架の死と復活でした。そして、その意味は、罪の赦しでした。この十字架の死と復活が真実であることは、証人がいること。何より、聖書が証言していることをもって、証明します。
 何とかして、一人でも多く、このキリストを知ってもらいたい。信じてもらいたい。そのような、パウロの熱い息吹を感じながら、読み進めていきたいと思います。

【木曜】 使徒の働き13章42節~14章10節

 第一次伝道旅行中のパウロとバルナバです。キプロスでの伝道は大成功でした。ピシデヤのアンテオケでの伝道はどうだったでしょうか。パウロの説教を聞いた人が、次の安息日にも同じ話を、と願い、なんと次の安息日にはほとんど町中の人が集まったのでした。あるユダヤ人たちは、妬みに燃えて、パウロに反対しましたが、とは言えピシデヤのアンテオケでの伝道も成功と言えるでしょう。
 続いて一行は、イコニオムへ行きます。ここではどうだったか。町の人々が二派に分かれ、反対派と使徒側に分かれます。町の半分が使徒側についた。今の日本の状況を考えれば、これも十分に成功と言えるでしょう。しかし、使徒たちを石打にしようという計画が起こります。
 ここまで、伝道は順調だった。キプロスでは大成功。ピシデヤのアンテオケでも、イコニオムでも成功だったと言える。しかし、雲行きがあやしくなってきた。そのような状態です。
 イコニオムの後、一行はルステラに向かいます。ここで、生まれながら足のきかない人を癒します。結果、騒ぎが起こりますが、それは明日の通読となります。
 印象的なのは、イコニオムでもルステラでも、奇蹟が行われたことです。そして、それは御恵みのことばの証明でした。私たちは、しるしと不思議なわざ、足のきかない人を癒すことはできないかもしれません。しかし、救われた者としていかに生きるか。それは示すことが出来ます。
 私たちの日々の生活が、御恵みのことばの証明となりますように。

【金曜】 使徒の働き14章11節~15章5節

 この14章で第一次伝道旅行は終わりです。本日の箇所は、昨日の続き、ルステラでの伝道の様子からです。ここで大惨事が起こります。パウロに対する石打の刑が執行された、というのです。それも、執行した人間が、パウロは死んだと思う程の状態となります。
 昨日確認したように、第一次伝道旅行は、最初は順風満帆でした。そして、次第に危険が増していきます。パウロ、バルナバからすれば、旅の疲れが大きくなり、ストレスがピークに達する、そんな状態での石打でした。これは、ひどかったと思います。しかし、パウロとバルナバは、このルステラの後、デルベに行き、そこでも福音を伝える。さらにさらに、驚くべきは、その帰りのコース。なんと、迫害の会った地に引き返していくというものでした(地図を確認してください)。
 石打の生々しい傷を帯びたパウロが、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」と励ました言葉は、この地の教会をどれだけ勇気づけたかと思います。迫害があった地の教会をそのままにしないパウロ。教会を建てあげるということが、文字通り命がけなのだ、ということが教えられるところです。
 帰ってからのパウロとバルナバには、大きな問題が控えていました。人が救われるのは、キリストを信じるだけでいいのか。それとも、それ以上に何か必要なのか。なんと、教会内で意見が割れ、論争が生じます。その解決は明日の通読で見ていくことになります。
 私たちも、教会を建てあげるという一大事業を、真剣にしていきたいと思います。

【土曜】 使徒の働き15章6~29節

 人が救われるのは、キリストを信じるだけでいいのか。それとも、それ以上に何か必要なのか、という問題。この問題を扱うのが、本日の箇所。エルサレム会議の記事です。
 興味深いのは、著者ルカは、パウロやバルナバの言葉ではなく、ペテロと、イエス様の兄弟ヤコブの言葉を記します。使徒の働きにおけるペテロの記述はここで終わり。ペテロの最後の活躍の場面です。
 ペテロはここで、大きく2つの事柄を上げています。1つは、実際に異邦人が信じて、聖霊が与えられたこと。具体的にはコルネリオのことを指していると思います。もう1つは、異邦人だけでなく、ユダヤ人である私たちも、割礼や律法によってではなく、ただキリストの恵みによって救われたと言います。救いに必要なのは、信仰のみ。これがペテロの主張です。
 そして、このペテロの発言をきっかけに、会議は一気に結論へと向かいます。ペテロの発言があってから、バルナバとパウロの発言に耳を傾けるようになる。この会議において、ペテロが重要な立場にいたわけです。

 この1週間の箇所を、ペテロ中心に見てみると、神様はなんとしてでも、救いに必要なのは信仰のみ、ということを初代教会のクリスチャンに伝えたかったことがわかります。ペテロを整えるために、コルネリオを備え、幻によって教え、命が危ないときには御使いを送ってでもペテロを守る。そのようにして、このエルサレム会議におけるペテロの発言があったわけです。「救いに必要なのは、信仰のみ」と、なんとしてでも伝えたい。そのような神様の思いが、ペテロの歩みを通して教えられます。
 いつの間にか、律法主義に陥る私たち。自分も、他人も裁かず、信仰による救いを信じる者としての歩みを送っていきたいと思います。

参考文献

  • F. F. ブルース 『使徒行伝』 (聖書図書刊行会、1958年)
  • 下川友也 『PDS 使徒たちに学ぶ』 (いのちのことば社、2006年)