新約 第26週
使徒の働き7章44節~10章48節

日本同盟基督教団 白井聖書教会 牧師
玉垣 資

2007年6月29日 初版

【日曜】 使徒の働き7章44~60節

 ステパノの説教はユダヤ人の宗教的柱である土地・律法・神殿に関して説き明かし、議会の罪を糾弾しました。44節からは神殿についてです。ソロモンの建てた神殿にではなく、神が設計した荒野の幕屋にこそ真の礼拝の姿があったと対比されています。

 素晴らしい神殿を建てたソロモンですが、彼は後にエルサレム近くにモレク神のための幕屋を造りました。「唯一の真の神を知っているはずなのになぜ?」と思います。神殿を建てたソロモンは「いと高き方は手で作った家にはお住みにならない」ことを忘れたのでしょう。ステパノの言葉は、イスラエルの民が神殿を神のように取り違えてしまった偶像礼拝を示しているのです。私たちも何をもって神を礼拝しているのでしょうか。しっかりと神ご自身を見つめているでしょうか。

 「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです」とステパノの糾弾は激しさを増します。しかし、その言葉の裏に示されているのは、悔い改めて立ち返ることを求める神の愛の招きです。

 しかし、その愛の招きは人々から拒絶されてしまいます。まさに主イエスが人々から拒絶されて殺されたようにステパノも殺されるのです。しかし、人々がステパノを罪に定めましたが、主イエスは神の右に立ちステパノの正しさを弁護しておられます。殺されようとするステパノが人々のために祈ることができたのも、主イエスを見つめていたからでしょう。この最後のステパノの姿は後のパウロに強烈な影響を与えたはずです。

 私たちの神の前での歩みがすべての人に理解されることはないかもしれません。しかしたとえ誰にも理解されなくとも、主イエスが認めてくださるというクリスチャンの受ける慰めがあるのです。また私たちの歩みを神が用いてくださることを覚えましょう。

【月曜】 使徒の働き8章1~25節

 ステパノの死を境に激しい迫害の炎が容赦なく教会に襲い掛かりました。迫害者サウロを前にクリスチャンたちはエルサレムから散らされていきます。ステパノの死の悲しみに追い討ちをかけるこの事態に多くの者が途方にくれたことでしょう。しかし、迫害は教会を痛めつけるただ悲惨な出来事として終わりませんでした。迫害によって散らされた人々はキリストの証人としてみことばを宣べ伝えたのです。「エルサレムからユダヤ、サマリヤ、そして地の果てへ」との主イエスの約束が実現する時でした。

 私たちは大きな苦難を前にすると絶望を覚え行き詰ってしまうものです。しかし、神は私たちの苦難さえもご自身の良き計画のために用いてくださる方であることを覚えましょう。

 さて、サマリヤへと広がった福音は、多くの人々に救いの喜びを与えました。その中に魔術師シモンという男がいました。彼は魔術を行い、人々を驚かせては注目を集めていました。しかし執事ピリポの働きを通して魔術師シモンも信じて洗礼を受けたのです。

 ところが、彼が常に関心を寄せていたのはみことばではなく、ピリポの行なうしるしと奇蹟でありました。やがて魔術師シモンが聖霊を授ける権威を求めた時、その化けの皮がはがされます。彼は魔術のように神の賜物を扱い、今まで以上に自分に注目を集めることをたくらんだのです。名誉と金儲けのために聖霊の権威を求めたのです。確かに洗礼を受けたシモンでしたが、彼の生き方は古いままであったのです。

 私たちも隠れた動機について問われます。素晴らしいことを願いつつも、実は魔術師シモンのように自分に注目を集めるための願いではないだろうかと時に探られます。私たちの新しい生き方は神の栄光を求める歩みです。注目を自分にではなく、神に向ける神の栄光のための歩みを求めていきましょう。

【火曜】 使徒の働き8章26節~9章9節

 サマリヤでの素晴らしい働きを行なったピリポに神からの新しい命令が与えられます。

 実はこの命令は変わった内容でした。あまり人の通らない荒野の道に行くようにと命じられたのです。サマリヤで華々しい成果をあげたピリポです。常識で考えるならば「サマリヤに留まったままの方が、より多くの人に福音を語れると思います」とピリポが断っていてもおかしくなかったでしょう。しかし、ピリポは自分の判断や考えではなく、神の命令に従いました。神を信頼し従うピリポの信仰が光ります。ピリポが命令通りに道を下っていくと一台の車が走っています。さらに車に近づくようにとの命令が下ります。再度ピリポが命令に従うその時、車からイザヤ書の朗読が聞こえてきました。こうしてみことばの説き明かしを求めていたエチオピアの宦官とピリポとが出会ったのです。この出会いはまさに神のお導きでした。結果エチオピアの宦官は主イエスを信じ洗礼を受けて、国に帰ることになります。この出来事こそ、地の果てへとキリストの証人が遣わされる異邦人宣教の前触れでした。

 ピリポへの命令は変わった内容でした。しかしその命令にピリポが従ったときに素晴らしいことが起こりました。神からの命令と導きは私たちが思う以上に正しいことを覚えたいと思います。大切なことは、私たちも信じて神の命令に従うことです。そのとき神のみわざを仰ぐことでしょう。

 ところで、イエスの御名がエルサレムから遠く広がる中で、怒りに燃える男がいました。迫害者サウロです。彼の教会への激しい憎悪は留まるところを知りません。クリスチャンが散らされたなら、地の果てまでも追いかける覚悟です。サウロは大祭司からの手紙を手に、イエスを信じるこの道の者たちを捕らえようと一路ダマスコへと向かいます。誰にもサウロの道を遮ることはできないかのようでした。ところが突然の光と天からの声が彼の行く手を阻みました。声の主はなんと主イエスです。正しいことをしてきたはずのサウロ。しかし実は神への罪を犯していたのです。サウロのこれまでが音を立てて崩れる瞬間でした。この主イエスとの出会いがサウロを本当の人生へと導きました。

 主イエスが出会ってくださるならばどんな頑固な人でも変えられることを教えられます。主イエスとの出会い、それはこれまでの自分が崩れ去るような出来事です。しかし、その出会いを通して私たちも本当の人生を歩むことが出来るのです。

【水曜】 使徒の働き9章10~30節

 主イエスと出会ったサウロのために神はダマスコに1人の人を備えておられました。

 アナニヤです。主イエスはアナニヤの前に現れ、祈っているサウロのもとを訪ねよと命じます。すでにサウロにはアナニヤが来ることを知らせてあるとのことです。神のみこころとは、立場の異なる人にも明らかにされ、調和へと導かれることを思います。

 はじめは渋るアナニヤです。しかし、「わたしの選びの器だ」とサウロについて語る主イエスに彼は従うのです。「はい。主よここにおります」と預言者サムエルのように答えたアナニヤのまっすぐな信仰の応答でした。

 こうしてアナニヤを通してサウロの目は開かれ、宣教者として立ち上がるのです。「イエスは神の子である」とのメッセージはサウロの新たな生涯の原動力でありました。サウロの回心を誰もが驚きました。ユダヤ人も教会もその変化を驚き受け止められません。ユダヤ人はサウロを殺そうと立ち上がり、エルサレム教会は彼を受け入れるのを躊躇したのです。これまでの迫害のための歩みを考えるならば当然でした。

 しかし、慰めの子バルナバが一肌脱ぐことによってサウロは教会の交わりに加えられたのです。そしてギリシャ語を使うユダヤ人への宣教など、あのステパノと同じ歩みへと踏み出したのでした。教会は人の思いや計画を超えた神の御心によって動かされていると気がつきます。

 サウロの回心と新しい歩みは人には予想できなかったことですから、教会さえも受け入れることは困難でした。しかしサウロを交わりに迎えるために、主イエスはアナニヤやバルナバを用いてくださいました。私たちもまた素晴らしい神のご計画のために用いられる神の器であることを覚えて、神の声を聞いて歩んでいきましょう。

【木曜】 使徒の働き9章31節~10章8節

 31節のみことばは教会の姿を教えます。教会はステパノの死とサウロによる迫害という困難に直面しましたが、結果的にはユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地に広がっていました。サウロも今や力強い仲間となっています。教会は平安を保ち、建て上げられ、主を恐れて歩んでいます。聖霊の励ましが常にありました。教会に属する者に神様が備えてくださる豊かな恵みをここに見ることができます。何があっても揺るがず前進する教会の姿があるのです。力強く導いてくださるお方によって今日も教会は歩みます。

 32節からは、再びペテロが登場します。巡回伝道の働きのなかにあった彼はルダを訪れ、そこで中風で8年間も寝たきりのアイネヤと出会います。ペテロは語りかけるのです。「アイネヤ。イエス・キリストがあなたを癒してくださるのです。立ち上がりなさい。そして自分で床を取り上げなさい」と。するとこれまで動けなかったアイネヤは立ち上がり、自らの手で生活ができるようになりました。この癒されたアイネヤを見て、多くの人が主に立ち返りました。

 ペテロはその後、地中海に面した町ヨッパに向かいます。実はヨッパに住む女弟子タビタが死んでしまったために「すぐに来てくれ」との緊急の要請があったのです。ヨッパに着くと、悲しみに暮れるやもめたちがいました。タビタを悼む彼らの姿からは、大切な人との別離の深い悲しみが伝わってきます。

 しかし、ペテロが屋上に置かれたドルカスの遺体に語りかけたとき、タビタは目を開けるのです。「タビタ、起きなさい」
 この言葉は主イエスが「少女よ。あなたに言う。起きなさい」(マルコ5章41節)と語りかけて少女を生き返らせたあの場面を連想させます。この生き返ったタビタの姿もまた、多くの人を信仰へと導きました。

 使徒ペテロの歩みは主イエスが生きて働く歩みでした。主イエスはアイネヤを癒され、タビタを生き返らせて、宣教のわざを祝福してくださいました。
 さまざまな縄目にかかった私たちも、主にあって自由をいただくことができます。そして死さえも打ち砕くいのちをいただくことができるのです。主イエスからの希望があります。
 また主イエスによって自由にされ、いのちをいただいた者の姿は、この世界に大きな衝撃を与えることを忘れてはなりません。

 さて、カイザリヤにはコルネリオという人がいました。彼は異邦人のローマ軍人でありましたが、神を恐れ、祈りをもって歩む人でした。神はこのコルネリオに白羽の矢を立てました。神の言葉に従いコルネリオはペテロを招くためにしもべたちを遣わします。教会は新たな歴史を迎えようとしていました。

【金曜】 使徒の働き10章9~33節

 1節から8節までコルネリオが神の幻を見たことと連動するように、ヨッパにいるペテロにも神の導きがありました。昼の祈りをささげるために屋上へと上ったペテロは、やがて空腹を覚え、不思議な幻を見ます。それは天から下ってくる入れ物でした。中には地上のあらゆる種類の四足の動物や、はうもの、空の鳥がいます。律法に示された汚れた動物がいました。中を眺めるペテロに声がかけられます。それは「ペテロ。さあほふって食べなさい」という驚くべき命令でした。「できません」とのペテロの答えは、きよいもの、きよくないものを定める律法を守ってきたことを考えるならば当然のことでした。しかし、声の主は「神がきよめたものをきよくないと言ってはならない」とペテロを教えるのです。

 この不思議な幻を3回体験したペテロはその意味を思い巡らします。そのペテロに御霊は語りました。「訪ねて来る3人の者に会うように」と。ペテロはその言葉に従い、しもべたちを迎えて用件を聞き、コルネリオの待つカイザリヤへと行くことになったのです。
 本来、ユダヤ人が異邦人のもとを訪ねることは律法にかなわないと考えられていました。その偏見にかつてのペテロも生きていたのでした。しかし、3回の幻と御霊の語りかけの体験は、神の本当の御心を示し、ペテロの価値観を新しくしたのです。ですからペテロは、コルネリオに会うことをためらうことなく、カイザリヤに行くことができました。

 私たちはどのような価値観に基づいて人や物事を見ているでしょうか。実は神の言葉とかけ離れた考えや習慣に根拠を置いてはいませんか。信仰の歩みとは、神の価値観、世界観が新たに築かれていく歩みです。私たちは神の言葉を聞くことと共に神の価値観に生きることを求めようではありませんか。

【土曜】 使徒の働き10章34~48節

 ペテロとコルネリオとの出会いは、神のみこころを知るパズルの完成の時となりました。それぞれが受けた神からの言葉と導きを分かち合った時、ペテロは偉大な神のご計画に目が開かれます。今、神の言葉を聞くことを待ち望むコルネリオたちの姿に、ペテロは神の御心を確信したのです。神は「かたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人」を受け入れてくださるお方だと。そこでペテロは主イエスの死と復活の証人として福音をコルネリオたちに語りました。主イエスを信じるならば誰でも罪の赦しが与えられると呼びかけます。すると何とみことばに耳を傾けていたすべての人々に聖霊が下ったのです。あのペンテコステの日のように、異邦人のコルネリオたちにも聖霊が与えられたのでした。彼らは異言を語り、神を賛美しました。

 異邦人であっても信じて聖霊を受けたという事実に、もはや彼らを受け入れることを妨げるものは何もありません。コルネリオたちは洗礼を受けて教会へと加えられることになるのです。異邦人宣教はこうして幕を開けたのでした。
 ペテロとコルネリオに与えられた導きと聖霊のみわざは、異邦人を受け入れてくださる神の御心を、目に見える形で明らかにしました。その神の御心を教会は受け入れるように導かれ、異邦人をも視野に入れた宣教へと教会の歩みは舵を切り始めるのです。

 人の思いや考えの及ばない神の御心は、実に不思議なかたちで表わされました。神の御心は、神と人と、そして人と人との交わりによって織りなされるのです。私たちは神との交わり、そして人との交わりをどれだけ大切に考えているでしょうか。交わりを通して神の御心が鮮やかに示されることを体験しているでしょうか。それは驚くべき神の御心です。今日の私たちも神の御心を知って生きることが必要です。与えられた私たちの交わりが豊かに祝され、明らかにされた素晴らしい神の御心に従って歩む毎日でありますように。

参考文献

  • I. ハワード・マーシャル:著/富田雄治:訳『使徒の働き(ティンデル聖書注解)』(いのちのことば社、2005年)
  • 小野静雄「使徒の働き」『実用聖書注解』(いのちのことば社、1995年)
  • 斎藤篤美「使徒の働き」『新聖書注解・新約2』(いのちのことば社、1973年)
  • John B. Polhill, ACTS, The New American Commentary Vol.26 (Nashvill,Tennessee, Broadman Press, 1992)