新約 第25週
使徒の働き3章1節~7章43節

沖縄バプテスト連盟 宮古バプテスト教会 教育主事
瑞慶山 麗子

2007年6月15日 初版

【日曜】 使徒の働き3章1~26節

 「毎日『美しい門』という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである」
 「だれですか、せっかく神の選民イスラエルとして生まれ、キリストを信じる者として教会に登録されながら、ひとり歩きできないのは?いつでも友人や牧師におんぶされなければ動けないのは?」(F. B. マイアー『今日の力』)

 なるほど、このようにも読むことができるなあ、と感銘を受けた。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(6節)と、自分の足でチャンと立ち、イエスの名によって歩いているか問われるではないか。聖書を求めて読んでいるだろうか。奉仕はやらされているのではなく、神のために自ら進んでささげているであろうか。日々心の中に、神の御声を聞いて態度を決める決意は準備されているのか。神のささやきを聞き逃さない平安は獲得しているのか。雑念雑音を心から追い出しているだろうか。自分の個人的な生活の中に、教会へのビジョンや伝道への情熱はあるだろうか・・・。
 歩き回ったり、踊ったりして神を賛美したこの癒された男のように、神を求め、体験し、歓喜に溢れて歩んでゆきたいものである。

【月曜】 使徒の働き4章1~22節

 この箇所でペテロとヨハネによってなされた、その力ある伝道をのぞいてみよう。
 「・・・二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が5千人ほどになった」(4節)
 読んでいるだけで、炎のように熱くて力強いありさまが伝わってくる。2人の話を聞いてる人々、周りにいた民衆も完全に彼らの言葉にもっていかれている。聖霊が2人を揺るがない信仰に立たせ、人々の心を獲得し、恐れるものは何もないと、ぞくぞくするほど伝わってくる。

 しかし実際、彼らは痛みのなかを突き進んでいる。乱暴に捕まえられ投獄されている(3節)し、脅されている。伝道に迫害はつきものとは、言うは易し。伝道をして、けなされ、ののしられ、・・・耳にいたい言葉は、時間が経つと少しづつ胸の辺りまで降りてくるような感じで、胸も締めつけられたり、深呼吸を繰り返さなければ平静を保てなかったり。体に矢を何本か突き刺さってる感じと表現したらよいかもしれない。

 そこで23節からの記事に目をとめてみたい。ペテロとヨハネは釈放されると仲間のところへ行き祭司長や長老たちの言ったことを残らず話した。2人の持ち込んだ報告は仲間をも奮い立たせ、一挙に聖霊充満!彼らは一つとなって、ますます勇敢にキリストを伝える使命を果たしたいと願い、祈っている。「仲間のところ」が、2人にとって霊的にも肉的にも家(ホーム)となっている。この家はすごい!興奮する喜びを同じ思いで受け止め、悲しみは「大変だったね、よくやったね」と一緒に悲しみ、一緒に泣いてくれる仲間が集まっているのだ。同じ思いになって共感し、お互い矢を抜きあって共に癒され、共に奮い立つので、激しい霊的戦場にも、再びキリストの素晴らしさを掲げて歩みだせるのではないだろうか。

 私たちの日々も、キリストの栄光を現すために用意されている。勇敢に走り続けるために、出発点となる家(ホーム)も点検してみたい。家庭や教会は私の出発点の家だ。ないがしろにできない大変重要な場所なのだ。そこに私のことを日々祈り支え、どんな話を残らずしても共感し、神の御心を共に受け取ってくれる人はいるだろうか。いないならば、まず自分から、真の出発点となる志をもって歩みだそう。出発点は疲れた兵士が帰る場所。安らぐ場所。癒す場所。神の平安に包まれる場所。そして崇高な志に立たせる場所。勇気と希望に押し出す場所。霊的一致は神の喜ばれるところ。聖霊充満、力ある伝道は決して夢ではないのだ。私のホームが必要だ。そこは間違いなく神の臨在にあずかるのだから。

【火曜】 使徒の働き4章23節~5章11節

 アナニアとサフィラを通して「見せかけ」という姿勢に問われる箇所ではないだろうか。「見せかけ」とは本当にあいまいな在り方だ。そして何より日本人はこれに弱いのだ。アナニアとサフィラも使徒たちの集まりをとても好んでいたのだろう。自分たちの土地(不動産)を売ってまでお金を作り使ってほしいと思ったのだから。しかし「見せかけ」の行為を隠れ蓑にした心というのは、あんがい予想をはるかに超えて欲望の渦にまかれてしまっているのかもしれない。偉大な使徒のリーダーたちに特別祝福されるかもしれないし、献げた額がうわさされていつしか尊敬される夫婦になっているかもしれないし、おのずとたくさんの人を指導するリーダーになってゆくかもしれない・・・等など。安易だが、あっという間にこれくらいは心によぎっていただろう。しかし、神が見せかけ、つまり偽りという罪をいかに完全否定するお方であるかが、ここにははっきりと示されている。彼らに悔い改める余地さえ与えなかったのだ。死まで待ったなしであった。恐ろしくて身震いしてしまう。「見せかけ」にはおそろしい欲望の尾ひれがつきやすく、また本人も人をも欺き、何よりすべてを御存知であられる神を、まず欺いているのだ。欺くというより自分で神の座に座ってしまうのと同じなのだ。そうなってくると信仰があるなんて間違っても考えられない。神を恐れていないのだから。ここまでくると「見せかけ」イコール「サタン」と言い切れてしまうではないか。

 正直というあり方、生き方が祝福されることを多くのクリスチャンは体験しているのではないだろうか。場をわきまえない心のままに言い放つ正直は問題だが、他者を受容し、なおかつ自分の心と考えを正直に提示できる生き方が、最終的には多くのトラブルを回避し、祝福されていく。そこに育つ友情や信頼が無二のものとなることは間違いなく、「信じた者の群れ」(4章32節)がいかに充実した力に満ちていたかは想像できるではないか。「見せかけ」を拠点として生活するこの世には、なかなか達せ得ない魅力的な人々の在り方であったことだろう。だからアナニアたちも・・・つい。

 キリスト者はキリストを名乗る者。「見せかけ」は御法度。

【水曜】 使徒の働き5章12~42節

 「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行なわれた」
 このようなミニストリーが展開されていると、ものすごく人目を引くのを感じる。今でもそうだ。体の癒しや悪霊の追い出しという主の霊による業が顕著にあらわれると、もちろん主によってなされたのだから、あたりまえだと感じつつも、新聞の記事に見入ってすごいっ!!と魅了されている自分。クリスチャンでさえ、なのだ。ノンクリスチャンの前に展開された使徒たちの奇蹟によるミニストリーは強烈に人々の関心を捉えたに違いない。この大きな揺さぶりに耐え切れず、まず手をかけてしまったのが、同じ天地の造り主を信じるサドカイ派の人々であった。イエスの名を検討するよりも、妬みに燃えて使徒たちを牢につないでしまった。しかしこれがまた、神の牢破りという驚くべきみ業に。続いて登場するのが、皆から尊敬されるガマリエルという律法の教師だ。「あの者たちから手を引きなさい。ほおっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであるならば彼らを滅ぼすことはできない」(38~39節)と、神の方法に任せようと導いた。この言葉には大変学ばされる。

 実際今日でも、日本のキリスト教界におけるミニストリーは、教会に大きく揺さぶりをかける。病気を癒すミニストリーや心の癒しのミニストリー、聖なる笑いのミニストリーや賛美と踊りのミニストリーなど、大聖会などで溢れる主の臨在に感激して教会でもやってみよう!ともたらされるものが多いだろう。しかし大抵今までなかったものが入ってくるというインパクトに私たちは耐えることが難しい。そしてまず議論が繰り返され、分裂や信頼関係の亀裂など、ひどい結果を生む例も少なくない。でも日本の教会の体質はこれでよいのだろうか?良いものを保ち、守るために保守的であることは素晴らしい。しかしまた寛容であることも必要だと感じる。「しばしやってみて様子を見てみよう。実を見て判断しよう」・・・若い牧師が率いる私の教会ではこのお試し期間が結構大切だ。お試し期間中に、いろんな意見を出し合い、祈り合い、主の時をみんなで探るのだ。神は教会を愛しておられる。教会に対する神の期待をみんなで求めていくなら、どんな変化もさほど脅威ではない。「人間から出たものならば自滅する」からだ。いつも修正可能、いつもやり直し大歓迎という体質を教会は持ち合わせていきたいものだ。柔軟で寛容な心が鍵となるのは間違いない。

【木曜】 使徒の働き6章1~15節

 「そのころ弟子の数が増えてきて・・・日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで12人は弟子をすべて呼び集めて・・・」(1~2節)
 この増えてきている弟子の数とはどんな人数だろう。何千人と押し寄せるのに対処しているのだから、本当に想像がつかない。信じた者が皆この群れのなかで生活したわけではないだろうが、それにしても・・・。リバイバルがすでに起こっている地域の人の証などを聞いたが本当に毎日人々が教会に押し寄せているのだ。この凄さは、やはり体験した時にますますこの箇所からいろいろ学ぶのだろう。生きてる間に体験してみたい。うん。

 さて、この12人の迅速な対応に感銘をうけるではないか。聖霊がもたらす祝福は、群れの一致にあらわれる。この群れも一致の祝福に溢れていたのであろう。しかし!不一致の種が芽を出したのがこの事件だ。世においてはちょっとした苦情だが、この群れにとっては大問題!とすぐに判定された。聖霊のなせる業かな。12人は弟子をすべて集めている。そして迅速に完璧に対処された。苦情も不平も聞き漏らさずに汲み取れるように。皆の心が良い結論に達して平安を得ることができるように。・・・この箇所には「教会の祝福」のレッスンが詰まっている。

 以前テレビのフランス料理を教える番組で、シェフが料理を指導しながら繰り返し伝えていた。「大切なことなので何度でも言いますよ。料理に大切なのはスピード。そして丁寧に!ということ」彼は迅速に調理や流しまわりへの手配はしているが、あわててはいない。ひとつ一つの行為に丁寧さを失ってはいけない、そのことが料理の秘訣とも言った。うん、料理も信仰生活も、教会牧会も同じだと思った。教会の祝福は、牧師がたくさん勉強した人だから、とか評判の良い牧師だからとかいうこととは全く畑違いのものだ。変な人はいないからとか、あの人が来てくれているからということも程遠い。良い教会は、信徒がそれぞれの生き方のなかで、極意を見出しているところに生まれるのではないだろうか。主婦が料理の極意を見出すとき、サラリーマンが仕事の極意を見出すとき、それを教会に持ち込み、適応することで群れは祝福されるのではないだろうか。何より不思議と極意というのは仕事や環境が全く違っても、一致しているものなのだ。真理とは聖書の言うとおり一つだ。私たちが生きている環境のなかで見つける祝福の秘訣は、教会のために用意されているのだと思う。教会は地上で神の栄光をあらわすことができる特別な場所なのだから。いざ!神のためにすべての良いものを持ち寄り、教会を祝福していこうではないか。

【金曜】 使徒の働き7章1~22節

 さて6章の後半から、偽証を打ち立てられてまで議会に引っ張ってこられたステパノである。ステパノは6章で問題が起こったときに、選び出された7人の筆頭に記されている。その上、「恵みと知恵に満ち、霊によって語る」と説明されているし、使徒たちと同じく不思議な業としるしも行なっており、彼がどんなに信頼された人物であったか、また本当に神に従う人だと認められていたかを想像することができる。訴えた人々は、ステパノは、1.聖なる所を冒涜し、2.律法に逆らった言葉を語ってやめず、3.神を冒涜したというのであった。ステパノは天使のように輝く顔を上げて、これに答えてゆく。

 ステパノは旧約聖書に基づいて、丁寧に自分の信仰が何に立っているのかを語り始める。彼の姿は中国の投獄されるクリスチャンリーダーたちを思わせる。中国はまだまだ家の教会への取締りが続き、捕らえられた人々は、労働や拷問など迫害下にある。リーダーたちは何度も捕らえられている人々が多く、その痛みの経験は平和に暮らす自分には、聞くに堪えないほどだ。しかし彼らの天使のように輝く顔を忘れることはできない。キリストを否むことだけは、命を天秤に掛けられてもできないという信念と、共にある尽きない喜び。彼らはキリストの救いに満たされていて、何をも恐れないのだ。彼らは伝道生涯のなかで、いつも捕らえられる事は覚悟している。だから時間を惜しんで聖書の勉強をし、まだ福音が届いてない人々のところへ歩き続ける。きっとステパノも、使徒たちへの迫害を見ながら、自分も覚悟していたことであろう。揺るがない彼の信念は、日々積み重ねた神への想いと感謝のあらわれに違いない。今日、私の信仰の信念は揺るがない土台にしっかりと立っているだろうか。

【土曜】 使徒の働き7章23~43節

 ステパノの説教は、信仰の父といわれるアブラハムに始まり、イサク、ヤコブ、エジプトの王となったヨセフ、エジプトからイスラエルを救い出したモーセ、と旧約聖書を通して、神が自らイスラエルの神となり、イスラエルは神の民となったことを語る。神がアブラハムとその子孫の間に立ててくださった契約は変わることがなく、イスラエルを見捨てず、導き続けてくださった。しかし「先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け・・・」(39節)、「自分たちで作ったものをまつって楽しんでいました」(41節)。・・・ステパノは先祖が神に逆らってきたことを直視して、神の憐れみを語る。あなた方が考えているのと同じく、神は素晴らしい!イスラエルの神は時代を超えて不思議なしるしをもって導いてくださる素晴らしいお方なのだ!しかし、何という背信の繰り返しなのか!・・・この痛烈な叫びは、私たちはどうなのか!と迫る。ステパノを訴えた、聖書をよーく勉強している人々は、「神の不思議な力の導きは、イスラエルに特別にあらわされてきたものであり、イスラエルは神に選ばれている!」と誇りに思っていたことであろう。しかしステパノは歴史を語るなかで、人間の愚かさと失敗に目を留め、失敗を繰り返してはいけないのだと言いたいのではないだろうか。聖書は自分がどこに立って読むかによって全く違う読み物になるから不思議だ。神に選ばれたことを誇るのか、それとも神を裏切り続けてきたことを受け入れて学ぶのか、私たちの生き方もまたステパノに問われているではないか。