新約 第24週
ヨハネ福音書19章23節~使徒の働き2章47節

カンバーランド長老教会 牧師
(米国日本語教会開拓準備中)

佐藤 岩雄

2009年10月31日 初版

【日曜】 ヨハネ福音書19章23~42節

 イエスの死が伝えられています。何度読んでも、一気に読むことのできない箇所です。文字をたどりながら、神の子イエスの受難を思うと、思わず目をつむりたくなるような箇所です。

 あらためて読んでみて、この箇所には、光と影の部分があるように思いました。女性たちは、公然と十字架を見上げて、最後まで主イエスに従いました。その後で、陰に潜んでいたような人たちが登場します。ヨセフや、そして、ニコデモまで登場します。最後に出てきて主イエスの葬りを行いました。

 ヨセフやニコデモは、言ってみれば人間としてできる最高の行為をしています。しかし、イエスを釈放しようとしたピラトやヨセフや、ニコデモという高い地位にいる議員たちも、イエスの死を止めることができなかったように、いくらお金をかけても、人間の力をもってイエスの死を止めることはできませんでした。
 この当時、十字架刑の囚人は、墓に葬られることも少なかったようです。ですから、十字架についた人の骨というのは、あまり発掘作業でみつからないそうです。彼らは主イエスを、最高の埋葬の方法で、誰も葬られたことのない、貴族の入るような墓に葬りました。しかし、多額なお金が使われているほどに見えてくるのは、人間の力の限界です。どのような努力をしても、死という現実は変えられないという虚しさです。振りかえってみて、私たちの人生でも、人間の努力が空回りをする経験があるのではないでしょうか。

 しかし! その人間の限界の向こう側で、虚しさだけに押しつぶされそうになる現実のなかで、神の救いの業は進みました。ヨハネやニコデモは、何もできなかった良心の呵責から、イエスを最高の仕方で葬ったのでしょう。その墓が、この最高の葬りの仕方が、主イエスの復活の舞台として用いられることになるのです。

 私たちの宣教の業がいかに虚しく思えるときも、人間の努力の限界を感じるようなときにも、いいえ、そのようなときであればこそ、神の業は目に見えないところで進んでいるのです。そして、それは、時至って地下水脈のように湧き上がります。
 十字架の主イエスへの信頼を、今日も新たにしましょう。

【月曜】 ヨハネ福音書20章1~23節

 これは、私たちが毎年お祝いするイースターの主イエスの復活の場面です。
 それと同時に、今日の最後のところには、主イエスが「聖霊を受けなさい」と息を吹きかけた場面が書いてあります。これは、ペンテコステの日に実現する出来事です。
 私たちが、主の復活を覚えて、神の国の到来を待ち望みつつ、どのように歩むよう期待されているのか、それが示されているように思います。

 本日の箇所には 「週の初めの日の夕方」と書いてあります。この言葉を聞いて、今から二千年前の、この聖書を最初に読んだ読者がすぐに思い浮かべたのは、週の初めの日とは、世界創造の最初の日を象徴的に表しているということです。つまり、ヨハネによる福音書においてイエス・キリストの復活は、神の創造の回復が開始されたということを表しています。
 神が最初に「光あれ」という言葉をもって、暗闇に満ちた世界を照らし出されたように、主イエスは、「あなたがたに平和があるように」という言葉で、この混乱に満ちた世界に、新たな光を生み出されたのです。主イエスご自身が先立って、鍵のかかった部屋の中心に立って、平和を宣言されます。主イエスは暗闇が濃くなる世界のただ中に立ち、平和あれと宣言されます。
 私たちはすでに、この新しい創造のなかを、神の国のなかを生き始めています。この感謝をもって、遣わされていきましょう。

【火曜】 ヨハネ福音書20章24節~21章14節

 魚は初期キリスト教において、十字架や子羊、生命の樹などとともに、キリストの象徴として用いられたそうです。特に魚の図像は、古代ローマのカタコンベの壁画や地中海沿岸各地の石棺や墓碑の浮彫などに数多く発見され、最古のものは2世紀にさかのぼります。
 迫害されていた初期のキリスト教徒たちは、自分たちがクリスチャンであることを表すのに十字架を用いることはできずに、暗号のようにして魚の図を用いたのだそうです。今でも、教会のいろいろなシンボルとして魚を用いることがありますが、これは、ギリシア語で魚を意味する「ιχθυς」(イクスス)が、「イエス」「キリスト」「神の」「子」「救い主」を意味するギリシア語の5つの頭文字の組合せと同じだからです。

 本日の箇所と、その次の箇所で、ヨハネによる福音書は終わります。ヨハネの最後の言葉がここに書いてあります。本日の箇所とその次の箇所には、ヨハネが最後に読者に伝えたかったことが書いてあると言ってよいでしょう。ヨハネは何を伝えたかったのでしょうか。
 それは、主イエスの弟子になるということです。他の福音書にも、ここに書いてあるような、魚がたくさん取れて、それにびっくりして主イエスに従うようになった、という記事はあります。しかし、こんなに後ろではなく、もっと福音書の前のほうに書いてあります。イエスがペトロに「弟子としてついてきなさい」という箇所に、この箇所はとてもよく似ているのです。この描写の仕方が、ルカ福音書5章の「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われたこととよく似ているのです。そのことを思い起こさせるために書かれたかのようです。
 ヨハネがこの記事で伝えるのは、主イエスが復活の後で、もう一度、ペトロに「弟子であること」を思い起こさせたということです。どのような失敗をしても、イエスは、再び私たちに従う機会を与えてくださることが示されているのでしょう。
 私たちも、主イエスへの信頼を新たにして、従っていく者となりましょう。

【水曜】 ヨハネ福音書21章15~25節

 食卓の中心におられたということは、非常に印象的です。食事の間、彼らが何を話したのかは、記されていません。会話をしなくとも通じ合う気持ちがあったのかもしれません。
 そして、食事が終わったときに、主イエスはペトロに尋ねました。
 「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」
 なんという質問でしょうか。食事をしていた席は一瞬、緊張に包まれたことでしょう。

 この箇所は、復活したイエスがペトロに、3度同じ質問をしたと伝えております。「わたしを愛するか」という質問です。あの3度イエスのことを知らないと言ったペトロの過ちをすべて消していくかのように、3度「わたしの羊を飼いなさい」と、ペトロにもう一度、なすべき務めを与えられました。イエスの愛は、私たちがどんな過ちを犯したとしても、それを知りながら、受け入れ、私たちを立ち直らせてくださる愛です。私たちの弱さを知り尽くし、なお受け入れてくださる、その愛です。

 1度目に「飼いなさい」と言われた言葉は、「餌をやる。食事の世話をする」という意味です。2度目の「世話をしなさい」というのは、より「羊の管理をする。マネージメントをする」という意味合いの強い言葉です。そして、3度目に、イエスは、再び、「餌をやる。食事の世話をする」その言葉に戻っています。
 これもまた、一見、大した違いに見えないように思いますが、イエスは、最後にもう一度、羊の群れの日常の世話、食事の世話をするように、ということを強調しました。主はペトロに、マネージメントをしなさいと言われたのではなく、魂の世話をするように言われたのです。

 魂の世話というのは、目に見えません。目には見えませんが、私たちが神の養いを受けなければ、私たちの魂は力を失い、枯れていきます。聖餐式が象徴するのは、私たちは、主イエスの贖いの肉を食べ、赦しの血潮を飲まなければ生きていけないということです。
 私たちが礼拝に来るのは、この養いを受けるためです。主イエスが招いてくださる食卓が、礼拝で用意されています。感謝と喜びをもって、また、期待して礼拝に集う者となりましょう。

【木曜】 使徒の働き1章1~26節

 使徒言行録には、前半に使徒の活躍、後半に新しく信仰をもった人々の活躍が記されています。何も使徒が特別な聖人として祭り上げられるということが書いてあるのではありません。絶えず新しく信仰に入った人々のことについて、どのような配慮が必要かを議論し、その人たちのための居場所をつくり、すべての人に発言の機会を与えていきました。

 自分のために何かする時間よりも、新しく来られた他の人々のために時間を割き、労力を裂いていったのです。これは、組織の運営から考えますと、大変骨のおれる作業でした。
 しかし、使徒言行録を読み進めていきますと、初代教会の指導者たちが、絶えず降りかかってくる多くの課題や問題に、大変柔軟に対応していった様子がわかります。自分たちの経験や考え方を絶対化して、それに合わないものを切り捨ててしまうのではなく、目の前の問題をどう扱ったら良いのか、とても誠実に議論を重ねていきました。
 使徒たちや他の指導者が、なぜ鼻が高くならずに、そのような謙虚な態度を保つことができたのか、本日の箇所を見てわかりますのは、使徒たち自身がまず、神に受け入れられたからだということです。自分自身の経験や考え方以上に、私たちの心を新しく作り変える聖霊により頼む新しい生き方に入っていったからです。

 6節で、弟子たちが「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねたことが記されています。これは、彼らの古い考え方が残っていたことを示しています。弟子たちは、まだ自分たちが大将になって国を治めることを望んでおりました。そんな彼らにイエスが示されたのは、聖霊を受け、地の果てまで私の証人になれという生き方でした。イスラエルという古い自分にしがみつくのではなく、新しい出会いを求めて、地の果てまで行くということです。

 神様は、どんな人であろうとも、主イエスにあって、そのままで受け入れてくださいます。使徒が、かつては裏切り、逃げ隠れていたのに立ち直ることができたように、私たちが、どのような罪を犯していても、私たちが神のもとに帰るのなら、神は受け入れてくださいます。

【金曜】 使徒の働き2章1~28節

 本日は、聖霊が使徒たちに降り、教会が誕生した記事を読みます。

 ヨハネ福音書3章8節にあるように、風は思いのままに吹きます。どこから来て、どこへ行くのか知ることはできません。わたしたちは、聖霊という自由な風を、予想したり管理したりすることはできませんし、見ることができないのです。聖霊を直接見ることはできません。しかし、木の葉が風に震えるように、風によって、聖霊によって揺り動かされた人たちやその働きをみることはできます。
 聖霊があたかも見えるように聞こえるように、この上なくはっきりとあらわされたのが、このペンテコステの出来事だったといえましょう。そして、その聖霊の働きは今に至るまで、教会とそこに集う人々を方向づけ、揺さぶり、導いています。

 キリスト者であった詩人、八木重吉の詩に、次のようなものがあります。
 「父よ ふしぎなる 聖霊のちからよ、われにあるごとく 父にあるごとく、ふしぎなるちからよ われを、父につれゆくめぐみよ、わが魂のうちに芽ざしたる、ただひとつ 罪なき芽よ」
 八木重吉らしい、純粋に自分の内側を見つめようとした詩だと思います。聖霊を「ただひとつ、罪なき芽よ」と言っています。芽というのは成長します。イエス様が、神の国はからしだねのようなものであると言われました。聖霊はそれを芽吹かせてくださり、私たちのうちで育ててくださるのです。

 9~11節には、そこに居合わせた人たちの出身地名がズラリと並んでいます。こうした国々の言葉を、使徒たちは片っぱしから話していたことになります。さらに5節で「天下のあらゆる国から」とわざわざ言っているように、使徒が喋っていた言葉は、世界中の言葉を網羅していたことがわかります。
 聖霊が下った使徒たちは、様々な国の言葉を語り始めました。しかし、彼らが語っていたことの内容は、たったひとつでした。11節の後半をご覧ください。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」。神の偉大な業。それは、神がイエスを通してなさった偉大な救いの御業のことです。
 私たちに与えられた言葉をもって、私たちも今日、主の偉大な救いの御業を証していこうではありませんか。聖霊があなたと共におられます。

【土曜】 使徒の働き2章29~47節

 聖霊が下られたときの出来事が、大きなインパクトをもって書いてあります。特に、このペトロの説教の箇所には、ダビデが登場します。この引用は、私たちの持っています旧約聖書とは、少し言葉が違います。それは、このペトロが使っていた聖書が、旧約聖書をギリシャ語に翻訳した聖書であるからです。翻訳を繰り返しましたので、もともとの文章とは、伝えたい意味は一緒であっても、少し表現が違ってきたということです。

 当時、多くの人々は、聖書の言葉を読んで、それぞれに自分の考えで解釈していたのだと思います。また、あまりこの詩篇の意味がよくわからない人もいたかもしれません。それが、イエスという方によって、光が当てられ、自分たちが今まで考えてきた以上にはっきりとこの箇所を理解することができるようになりました。この人々にとっては非常な驚きであったことでしょう。
 聖書を読んでいて、それが神が自分に贈ってくださった言葉だということがわかるようになると、私たちも同じような驚きを覚えるようになります。それが聖霊の働きです。

 そこにいた多くの人々は、ペトロの言葉に心を刺されて、「兄弟たち。わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねました。
 ペトロが伝えたこと、それは何よりも、洗礼を受けるということでした。これが、教会の生まれたときから大切にされてきたことでした。また、悔い改めるということです。ペトロは、主イエスの伝えられた約束を、忘れずにそこに付け加えました。「賜物として聖霊を受けます」ということです。
 その聖霊によって、私たちは、日々、新たに主の御言葉に聞くことができるのです。主に感謝して、今日も歩み始めましょう。

引用

 ※ 聖書本文の引用は、日本聖書協会の「新共同訳」を使っています。