新約第24週
【ヨハネ19章23節~使徒2章47節】

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2007年9月7日 初版

日曜 【ヨハネ19章23~42節】 「完了した」

 今日の箇所で3度も繰り返されるキーワードがあります。「聖書(のことば)が成就するため」(24・28・36節)です。新約聖書に記された主イエスの十字架の出来事が、一貫して聖書(旧約聖書)に記された神の約束の成就であることを、この福音書の記者は強調します。
 24節は、詩篇22篇18節から。
 28節は、詩篇69篇21節から(42篇2節を挙げる説も)。
 36節は、詩篇34篇20節から。
 37節にも、ゼカリヤ12章10節からの引用があります。

 詩篇の箇所を挙げましたが、33・36節の「骨が折られなかった」というのは、過越のいけにえとしてほふられる子羊のほうを、むしろ思い起こさせる記述です(出エジプト12章46節、民数9章12節)。
 過越の祭りでは、傷のない1歳の雄の子羊をほふり、血を家の門柱とかもいに塗ります。これは、出エジプト時の最後の災いである神のさばきの渦中、子羊の血の塗られたイスラエルの家だけは、さばきが過ぎ越された出来事を記念するものです。
 傷のない子羊の血によってさばきを免れる。この旧約聖書に記された神の約束が、まさに過越の祭りの日に、十字架にかけられた主イエスによって完全に成就したことを、福音書記者は明記します。
 残酷な十字架。しかしそれは、私たちがさばきを免れるための、身代わりの十字架です。私たちの罪はそれほどに恐ろしいのです。

 「完了した」(30節)という十字架上の最後ことばは、人を死の絶望から救いに来た救助者が、かえって死に飲み込まれるという、これ以上にない絶望のなかでのことばです。
 「どこに神の救いがあるというのか」 「なぜ神はこれをよしとされたのか」
 このとき、多くの弟子たちにとって、十字架はそう思えてなりませんでした。
 しかし、「完了した」と発せられた主イエスは、ご存知でした。十字架は、旧い約束の成就であり、新しい救いの完成であることを。絶望の十字架が、主イエスにとっては、すでに勝利の旗印でした。「完了した」は、勝利宣言だったのです!
 こうして、私たちの残酷な罪を示す十字架が、今や罪を示すと同時に、その罪の縄目から信じる者が完全に解き放たれていることを宣言するものとなったのです。

月曜 【ヨハネ20章1~23節】 「平安があなたがたにあるように」

 アリマタヤのヨセフとニコデモたちによって埋葬されたのが金曜日。土曜は安息日。そして、数えて3日目(2泊3日)の、週の初めの日曜早朝、マグダラのマリヤが墓にやって来ました。安息日前に急いで埋葬したため、香料などは週明けに、ということになっていたようです(ルカ23章54節~24章1節)。

 ところが、よもやの墓泥棒です。入口の石は転がされたまま、遺体はなく、わずかに頭に巻かれていた布切れが残るばかり。
 「十字架刑だけではあきたらず、遺体まで持ち出すなんて、ひどい・・・」と、マリヤの脳裏には、祭司長たちや十字架の下で愚弄していた兵士たちの姿が、浮かんでいたことでしょう。
 悔しくて、悲しくて・・・、「お墓の前で泣かないで、そこに私はいません」と言われたって、涙がとめどなくあふれてきて。

 そんなマリヤに声をかける2人がありました。まるで夢幻のような白い衣をまとって。
 「女の方、なぜ泣いているのですか・・・」
 2人に答え、そして振り向くと、後ろには墓園の管理人らしき人が立っていました。
 「女の方、なぜ泣いているのですか・・・」
 「私にあの人を返してください。たとえ亡骸であっても・・・」 マリヤは管理人に答えました。

 そのときです。耳を疑うような、けれども、世界中で一番、マリヤの聞きたかった声がしました。
 「マリヤ」

 その後、主イエスは、弟子たちの閉じこもっていたところにも現れ、最後の晩餐でおっしゃっていたように(14章27節など)、「平安があなたがたにあるように」(19・21節)とあいさつをされました。聞き慣れた、そして一番聞きたいと願いながらも、もう二度と聞けないと思っていた主イエスのあのお声。主の死とユダヤ人に対する恐れ(19節)で極限の心細さにあった弟子たちにとって、どれほどの慰めと励ましになったことでしょう。

 主イエスは、恐れ閉じこもっていた最悪の状況の弟子たちに、おっしゃいました。「あなたがたを遣わします」と。救いの良い知らせ(福音宣教)のために主イエスが召されたのは、そういう弟子たちでした。それは福音宣教が、人の力や知恵、状況によるのではなく、「聖霊」(22節)によってなされていくものだからでした。敗残兵のようだった者たちが、聖霊を受けたことで一転して、罪と死に勝利された主イエスのメッセンジャーとして遣わされていくのです。

火曜 【ヨハネ20章24節~21章14節】 「見ずに信じる者は幸いです」

 「死人がよみがえった!」
 映画や小説なら、ありでしょう。もし現実に起こったら、世界中を駆け巡るトップニュースです。
 身近な人の死に直面した方でも、「生き返ってくれたら・・・」と願うことはあっても、本当に生き返るとは考えにくいのではないでしょうか。「あの人は、私の心の中に、生き続けるのです・・・」という思いを抱いて、残された者が生き続けるのです。

 トマスの答えは、悔しさ悲しさを押し殺して、冗談さえ交えた至極現実的なものでした。
 「もし仮にそんなオバケが出るってんなら、その槍の穴に指を差し入れてやらぁ」
 彼もまた、皆と同じく、主の死とユダヤ人に対する恐れで極限の心細さにあったと思います。大きな現実の壁に周囲を覆われ、心が狭くなっていたのでしょう。目を天に向けたときに見えるもの、人間の“現実”という思い込みをはるかに超えた父なる神の創造的なみわざに、心を向けることができなくなっていました。
 もし、みことばによる約束を信じ、主の御前に静まって祈り、心を天に向けることができたら、きっと、人間的な視点とは違う、神の視点から、主の復活についても、見ずに信じる(29節)ことができたでしょう・・・。
 しかし、トマスの心は塞いでいました。

 見ずに信じる者でなければ、救われないのでしょうか?
 いいえ、見なければ信じられない者のところへは、直接ご自身をお示しになってまで、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(27節)とおっしゃる、あわれみの主です。トマスの冗談にも真剣につきあわれる主です。
 思えば、十二弟子も、パウロも、聖書や教会史に出てくる多くのキリスト者も、直接キリストを見るか、神のわざを見ることによって間接的にキリストを見聞して、信じています。教会の歴史は、主のあわれみの歴史であることに気づきます。

 ただし、信仰の本質は目に見えません。そもそも信仰とは、目に見えないものを確信させるものだからです(ヘブル11章1節)。この世界がことばによって生まれたこと(ヘブル11章3節、創世記1章)を信じ、ことばなるお方(ヨハネ1章1~3・14節)を信じ、みことばの約束(罪の赦しと永遠のいのち)を信じる。信仰の本質は、「ことば」にこそあります。そういう意味で、「見ずに信じる者は幸い」(29節)と言えるのです。あの、福音書に出てくる百人隊長のように(ルカ7章2~10節)。

水曜 【ヨハネ21章15~25節】 「あなたはわたしを愛しますか」

 ガリラヤ宣教に始まった主イエスの公生涯の物語は、テベリヤ湖畔(ガリラヤ湖畔。参照:6章1節)の出来事で締めくくられます。
 ガリラヤ湖、そこはペテロが主イエスから、「これから後、あなたは人間をとるようになるのです」(ルカ5章10節)と言われ、弟子に召されたところです。
 あの日も、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした(ルカ5章5節)。

 夜が明けそめたとき、岸辺にいた人が声をかけます。「網をおろしなさい」
 あのときと同じです。
 そして大漁。イエスの愛されたあの弟子が気づきます。「主です」

 久しぶりの主イエスとの朝食。3年間、いつもあった光景。
 食事を済ませてから、主イエスはペテロに尋ねられました。「あなたはわたしを愛しますか」

 かつてペテロは、「あなたはわたしを誰だと言いますか」という主イエスの問いに対して、「あなたは、生ける神の御子キリストです」と告白し、主イエスから「幸いなるかな」と祝福されたことがありました(マタイ16章15~19節)。
 最後の晩餐のときも、「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私はあなたを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26章35節)と、誰よりも熱心でした。
 けれども結局、鶏が鳴く前に3度も「そんな人は知らない」と、しまいには呪いをかけて誓ってしまいました(マタイ26章74節)。

 「あなたはわたしを誰だと言いますか」
 という第一の問いに、「生ける神の御子キリスト」と告白しながら、「知らない」「知らない」「知らない」と、3度も呪い誓ってしまった・・・、そういうペテロに対して、主イエスは再び問われたのです。
 「あなたはわたしを愛しますか」

 己の罪に打ちひしがれるペテロに対して注がれる、主イエスのご愛でした。
 「あなたの罪は、わたしが十字架で背負ったから・・・」
 主イエスは、再びペテロを、人をとる漁師として、キリスト者を養い育てる牧者として、ガリラヤ湖畔で召し、出発させたのでした。そのときに問われたのは、能力があるかどうか、失敗しないかどうかなどではありませんでした。
 ただ一つ、「あなたはわたしを愛しますか」(17節)だったのです。

木曜 【使徒1章1~26節】 「父の約束を待ちなさい」

 「使徒の働き」は、「ルカによる福音書」と同様、テオピロに宛てて書かれていることから、「第二ルカ」と呼ばれることもあります。
 「ルカ」は異邦人(非ユダヤ人)でしたが、キリストを信じてからは、パウロの親友・同労者として、ともに伝道旅行にでかけました。医者であり、その高い教養が、福音書や使徒の働きの執筆にも生かされたようです。
 「テオピロ殿」(ルカ1章3節)が何者だったかは諸説ありますが、ローマ帝国高官の入信者だったと見るのが有力なようです。
 ルカは、第1巻の福音書において、主イエスのメシヤ(救い主)としての言行録をとおして、キリスト教信仰の中核と原理を示しました。第2巻の使徒の働きでは、主イエスの福音の真理が、歴史のなかで、どのように世界大の広がりをみせ、宣教の実を結んでいったかを記します。本書は、聖霊の絶えざる導きと励ましにより、キリスト教会という歴史の場で、強力な反キリストの勢力に対抗しつつ、力強く主イエスの福音を宣教していく、使徒たちの働き、あるいは行動の記録です。

 主イエスは復活後、40日間、弟子たちに現れて、神の国のことを語り、数多くの確証をもって、ご自分の生きていることを示されました。各福音書の巻末にその様子が記されています。有名な大宣教命令(マタイ28章18~20節)も、この時期のガリラヤでの説教でした。
 ルカ福音書の巻末には簡潔に昇天の記事がありましたが(24章50~51節)、今日の使徒の箇所でもう少し詳しく言及されます。主イエスは、エルサレムのそば、オリーブ山の東麓にあるベタニヤ付近(ルカ24章50節)で天に昇っていったと言われます。

 そのとき主イエスは、弟子たちに新しい使命を授けました。「わたしの証人」(8節)として、「キリストは苦しみをうけ、3日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改め」(ルカ24章46~48節)について、地の果てにまで宣べ伝えなさい、というものでした。
 「イスラエルの再興」(6節)という弟子たちの問いには、直接お答えになりませんでした。この期に及んで地上の目に見えるものに縛られている弟子たちに愛想を尽かされたとも思えますが、真のイスラエルを「キリストの教会」と理解するならば、再興以上の、新しい出発について、弟子たちの思いを遙かに超えたすばらしいビジョンを、主イエスは示されたとも言えます。

 このすばらしい任務に向けて勢いよく出ていく、輝かしい第一指令は! ・・・なんと、「待て」でした。ガクッ・・・。
 しかし、出鼻をくじかれるというような人間的な心配は無用です。そもそも、神のプロジェクトは、人間の力や知恵で進められるような、生易しいものではありませんでした。天の父の約束された「聖霊」(4~5・8節、ルカ24章49節)を受けなければ、出ていく力を得ることはできなかったのです。だから、その時(神の時)まで「待て」というのが、使徒たち、証人たちの、栄光ある最初の任務だったのです。

 さて、待つ間、ユダの抜けた後の使徒が選ばれます。使徒職が加えられたのは、2000年の教会の歴史において、後にも先にもこのときだけです。そもそも使徒職の条件が、「主イエスが私たちといっしょに生活された間、・・・いつも私たちと行動をともにした者」(21~22節)であることから、必然的に限られます。さらに、この後しばらくして、初代教会の初期にヤコブが殉教し(12章2節)、その他の使徒たちも殉教していきましたが、後任は立てられませんでした。マッテヤを加えた後の十二使徒が不動(永久欠番)であるのは、天の都の城壁に記された名が不動であるからなのでしょう(黙示録21章14節)。ユダの死とこの選びが、極めて特別だったことがうかがえます。

金曜 【使徒2章1~28節】 「主の名を呼ぶ者は、みな救われる」

 「五旬節」(1節)は、「過越の祭り」「仮庵の祭り」と並び称されるユダヤ三大祭の1つです(申命記16章16節)。過越の祭りから7週間後(数えて50日目)に行われることから(レビ記23章15~22節)、「七週の祭り」とも呼ばれます。また、ギリシャ語の「50(ペンテーコンタ)」から、「ペンテコステ」とも呼ばれます。

 主イエスの昇天から1週間が過ぎ、この日も弟子たちは、主イエスのおっしゃった「父の約束を待ちなさい」ということばに従い、一つ所に集まっていました。皆、心を合わせ、祈りに専念していたのでしょう(1章14節)。
 すると突然、天からの激しい風が吹いてくるような響きとともに、炎のような分かれた舌が現われ、ひとりひとりの上にとどまり、皆が聖霊に満たされて、外国語(異言)で語り始めたのです。様々な国語で、ユダヤ人だけでなく、信じるすべての人が救われる福音を。
 「天来の風」、旧約聖書では「風」も「霊」も同じ「ルーァハ」というヘブライ語があてられています。そして「炎のような舌」です。「霊と火によるバプテスマ」、かつてバプテスマのヨハネが預言したとおりに(ルカ3章16節)、主イエスのおっしゃった「父の約束」は、ここに成就したのでした。

 さて、当時のエルサレムは、負の遺産によって国際都市になっていました(5節)。かつて、紀元前7~6世紀に、新バビロニア帝国によって南ユダ王国が滅ぼされてから、ユダヤ人は捕らえ移されたり(バビロン捕囚)、諸国に離散して住んでいました。ディアスポラ(離散ユダヤ人)と言われる人たちです。紀元1世紀には、エルサレムに戻ってきた定住者もいたようですが、ユダヤ三大祭のときにだけエルサレムに上ってくる者もいたようです。また、ユダヤ教に改宗し、エルサレムに住んでいた“本当”の外国人もいたようです(11節)。

 散らされていた者たちが、言葉の壁を越えて同じ福音を聞く。それは輝ける象徴でした。
 言葉の壁と人々の分断は、人類の初めの頃に、バベル(バビロン)の塔で起きた罪の呪いでした(創世記11章1~9節)。「神から離れ、神のようになる」という原罪のあらわれがバベルの塔であり、そこで人は、神のかたちに造られたときの「ことば」を失い、お互い愛し合うこと、一致することを捨てました。神との断絶が隔ての壁を生み、人との隔ての壁をも生み出したのです。
 しかし今や、主イエスの十字架による罪の赦しが、神と人との隔ての壁を打ち壊し(エペソ2章14節)、和解をもたらしたのです。「主の名を呼ぶ者は、みな救われる」(21節)のです。ペンテコステの奇蹟は、その福音のあらわれでした。

 そして、聖霊に押し出されて人々の前で説教を始めたのは、あのペテロでした。

土曜 【使徒2章29~47節】 「この曲がった時代から救われなさい」

 説教集や説教テープなど、メディアに記録された説教はいろいろありますが、ここには、聖霊に導かれて語られたキリスト教会最古の説教が、ペテロの息遣いもそのままに記録されています。混ぜ物もなく、シンプルで真っ直ぐな説教。

 「あなたがたは、・・・十字架につけて殺しました」(23節)
 「しかし神は、・・・よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです」(24節)
 「神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」(36節)
 「私たちはどうしたらよいでしょうか」(37節)
 「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです」 (38~39節)
 「この曲がった時代から救われなさい(別訳「逃れなさい」)」(40節)

 そして、この説教で心を刺された人々3,000人が、この日、悔い改めてバプテスマを受けたのでした。
 信じ救われた人々は、教えを堅く守り、交わり、ともに食し、ともに祈りました(42節)。喜びと真心をもって教会の交わりと生活を歩む、新しく生まれた人々の姿が、ここに鮮やかに記されています(46節)。これが主の教会です。これが原点です。主も、救われる人々を毎日仲間に加えてくださることによって、新しい主の家族を祝福してくださいました(47節)。

参考文献

  • 山口昇:監修『新エッセンシャル聖書辞典』(いのちのことば社、2006年)
  • R. V. G. タスカー:著/小林高徳:訳『ヨハネの福音書(ティンデル聖書注解)』(いのちのことば社、2006年)
  • 村瀬俊夫「ヨハネの福音書」『新聖書注解・新約1』(いのちのことば社、1973年)
  • I. ハワード・マーシャル:著/富田雄治:訳『使徒の働き(ティンデル聖書注解)』(いのちのことば社、2005年)
  • 斎藤篤美「使徒の働き」『新聖書注解・新約2』(いのちのことば社、1973年)

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