新約 第23週
ヨハネ福音書15章11節~19章22節

片倉キリスト教会 伝道師
高山 星子

2007年6月1日 初版

【日曜】 ヨハネ福音書15章11~27節
「イエス様から弟子たちへ(1)」

【11~17節】 イエス様の戒め「愛し合いなさい」

 イエス様の喜びが弟子たちのうちにあり、弟子たちの喜びが満たされるために、イエス様は弟子たちにこのように話しておられます。そして、イエス様は「わたしの戒め」として「互いに愛し合いなさい」と言われました。「わたしがあなたがたを愛したように」その土台となるべき愛をイエス様はこのように言われています。「人が友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛をだれも持っていません」

 イエス様は、イエス様が言われたことを行なう者、そして、イエス様から父なる神様のことを知らされた者を「友」と呼ぶと言われました。そして、イエス様は、弟子たちを、また私たちを「わたしの友」と呼んでくださっています。「友のためにいのちを捨てるという大きな愛」、私たちのためにいのちをお捨てになられたイエス様の大きな愛です。

 そして、イエス様は、友である弟子たちに、まことの実を結ぶ為に任命されたことを思い起こさせています。この任命は、イエス様の選びによるという事実と父なる神様が必要なものを備えてくださるという恵みを土台としています。

 この任命を受けている弟子たちに、イエス様は大切な鍵をもう一度すすめられました。「互いに愛し合いなさい」
 私たちのためにいのちを捨ててくださったイエス様の愛に生かされたとき、私たちは、愛を知り、人を愛することができるのではないでしょうか。そして、その愛の行為においてまことの実が結ばれるのです。

【18~25節】 迫害の予告

 「世」ということばは本来、「秩序ある世界」を意味するギリシャ語が使われています。しかし、ここでは「罪に汚れた世界と人々」イエス様を否定する勢力、神様よりも自己を愛する人たちを指して用いられています。しかし、弟子たちはその勢力のもとにいません。イエス様が選び出してくださったのです。イエス様への迫害は、弟子たちにも向けられます。しかし、イエス様が地上に来られたことによって、その迫害に弁解の余地はありません。

 私たちは迫害を受けられたイエス様を忘れ、自分に起こる困難や反対に悲しみを持ち、疑いを持つような経験はないでしょうか。イエス様にある者はイエス様と共に喜びを受け、共に苦しみを受けるのです。そして、まずイエス様が最初に苦しまれたことを覚えましょう。そこにまことの慰めがあります。

【26・27節】 輝かしい約束

 迫害の予告は弟子たちに不安と恐れをもたらしました。しかし、この時、力強く輝かしい約束が弟子たちに伝えられたのです。イエス様が父なる神様のもとから遣わす助け主・真理の御霊が弟子たちと共にあかししてくださるということです。

【月曜】 ヨハネ福音書16章1~16節
「イエス様から弟子たちへ(2)」

【1~4節】 迫害の事実を弟子たちに予告されるイエス様

 迫害の予告は、突然の迫害に弟子たちが不安と恐れと疑いに陥り、イエス様をあかしすることから、また信仰から離れることがないようにと、弟子たちのそばから離れるイエス様の配慮です。さて、迫害の内容は、町の組織から締め出されることを意味する会堂からの追放、殺害。そして、迫害を起こす人物は、その行為こそ神への奉仕だと思っている人だということです。

【5~7節】 助け主が遣わされる

 迫害の予告の後、イエス様がいなくなるということを聞かされた弟子たちの心は悲しみで一杯になり、どこへ行くのですかと尋ねることすらできません。
 しかし、イエス様は悲しみの弟子たちをご覧になり、本当のことを明らかにしますと言われ、わたしが去ることは、弟子たちにとって良いことですと言われました。イエス様がすべてを成し終えて栄光のうちに天にあげられることによって助け主なるお方が遣わされるのです。

【8~16節】 助け主の働きとは

 その助け主なるお方である御霊のはたらきは、この世に、罪、義、さばきについての誤りを認めさせることです。
 「世」の誤りとはこのようなことです。

  1. 罪について、人々が自己中心的な生活のためにイエス様を否定し続けること。
  2. 義について、神様が求めておられる義を知ろうとせず、イエス様の成し遂げてくださることが唯一神様の義にかなうものであるということを理解しない。
  3. さばきについて、この世を完全にさばかれるお方が来られ、さばきを成し遂げられたことを理解しない。

 しかし、イエス様はこの時の弟子たちに、それ以上の話をされませんでした。助け主なる方が弟子たちのもとに遣わされた時、すべての真理に弟子たちが導かれると言われたのです。
 「真理」とは、ギリシャ語で「隠されていない、明らかな」という意味です。ここでいう真理とは、父なる神様を明らかにしたイエス様であり、イエス様の栄光であります。いつも、助け主なるお方である御霊が、私たちを真理のうちに導いてくださいます。

【火曜】 ヨハネ福音書16章17~33節
「イエス様から弟子たちへ(3)」

【17~22節】 悲しみから喜びに

 「しばらくするとわたしを見なくなるが、また、しばらくするわたしを見る」
 イエス様のことばに弟子たちは論じ合い、質問をしようとします。その弟子たちの様子をご覧になられたイエス様は、「なぜ論じ合っているのですか。あなたがたの悲しみは喜びに変わります」と言われました。出産の時の苦痛をあげながら説明がなされています(旧約聖書にこの表現がよく用いられます)。

 イエス様の十字架上での死は弟子たちに悲しみと絶望を与えました。しかし、三日目のイエス様の復活は、彼らの絶望を全く変え、最も大きな喜びを弟子たちに与えたのです。その変わらない喜びこそ、人々を堅く立たせるものであり、希望そのものです。嘆き悲しみを通してまことの喜びがもたされるということは、とても重要なことです。

【23~28節】 父なる神様に求めることができる

 弟子たちがイエス様を通して父なる神様に直接、願い求めることができる日が来るということです。まさしく、イエス様の十字架の身代わりの死があったからこそ、父なる神様の前に罪ある人間が出ることができます。そして、祈り求めることができるのです。そして、父なる神様は与えてくださるのです。あなたがたの喜びが満ちるために。

【31~33節】 勇敢でありなさい

 弟子たちは、父なる神様から受けたことを話されるイエス様を目の前にします。そして、あなたこそ父なる神様から来られたことを信じますと告白しました。しかし、イエス様は「あなたがたは今、信じているのですか。あなたがたは散らされ、わたしをひとり残す時が来ます」と言われました。そして、ついにはおひとりになられるイエス様、しかし、父なる神様が共におられました。これらのことは十字架の苦難の道で成就します。

 散らされると言われた弟子たちに、イエス様は、困難があるが、ひるまずに前に向かって歩みなさいとすすめています。そして、すでにわたしは世に勝ったのですと宣言されました。それは、イエス様が十字架上でこの世の罪と死に打ち勝たれ、復活されることを確信してのおことばです。世に勝利をおさめられたイエス様のうちにある私たちは、臆病になることなく、恐れを持つことなく、イエス様のくださった平安のうちを歩む者とされているのです。前に向かって。

【水曜】 ヨハネ福音書17章1~26節
「イエス様の祈り」

【1~5節】 イエスご自身のための祈り

 恐れと孤独の十字架の道は父なる神様の栄光を現すためでした。十字架で父なる神様の栄光を現すことができるようにとイエス様は祈られました。それは、神様からいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるためです。そして、十字架での目的を成し遂げました(過去形)と祈られます。まだ、十字架におかかりになる前でしたが、この祈りは、神様のご計画は必ずなるのだという確信に満ちていました。

 イエス様は、この世界が創造される前から栄光のうちに父なる神様と共におられました。神様の栄光とは、神様のご存在そのものであられる本質、お持ちになっておられるものが明らかになり、輝くことです。天地を創造され、すべての人を支配する父なる神様の栄光こそ、イエス様のうちにみることができます。そして、イエス様の復活は栄光に満ちていました。そのことにより、私たちはまことの父なる神様とイエス様を知ることのできる永遠のいのちに生かされています。

【6~19節】 弟子たちのための祈り

 弟子たちは、父なる神様のもの、イエス様のもの。イエス様は弟子たちを守られてきました。それは彼らが滅びることがないという聖書の成就(ヨハネ6章39節)のためでした。しかし、弟子たちのそばから離れる時が訪れようとしています。イエス様は、残される弟子たちを父なる神の御名(その名を帯びる者の力を指します)のなかに保ち、この地上にある悪の勢力から彼らを取り去るのではなく、彼らを守ってくださいと父なる神様に祈られるのです。

 真理は、神様にふさわしい者にするためにその者を罪から切り離し、神様の聖さに属する者とします。イエス様は罪と汚れのない神の御子なるお方です。しかし、そのようなお方が、十字架で人間の罪の聖めのためにいけにえとなられました。まさしく、イエス様は、世の罪を取り除く神の小羊です。そして、このことこそ、弟子たちを聖めることでした。この「真理によって彼らを聖め別ってください」との祈りは、イエス様の成してくださった恵みのうちに、聖書のみことばによって生かし続けてくださいとの祈りでもあります。

【20~26節】 信仰者のための祈り

 父なる神様がイエス様のうちにおられるように、信仰者が目的と思いにおいてひとつとなり、イエス様のうちにいるようになることを祈ってくださいました。それは、ひとつとなった信仰者、すべての教会がイエス様のうちにいることによって、世界の人々がイエス様こそ、父なる神様から遣わされたお方であることを信じ、父なる神様の愛を知り、イエス様の栄光をみるためです。

【木曜】 ヨハネ福音書18章1~24節
「捕らわれたイエス様」

【1~7節】 捕らわれるイエス様

 ゲッセマネの園(マタイ26章36節、マルコ14章32節)、火のともるたいまつとともにユダ、兵士、役人たちをご覧になられたイエス様。全知全能なる神の権威を持たれたイエス様は、すべての起こる出来事、すべての人間の心を知っておられました。

 「誰を捜すのか」 イエス様のおことばに、苦難を自ら進んで受けるという意志をはっきりみることができます。イエス様の苦難は、受動的なものではなく、自ら進んで苦難を負われたのです。

 捕らえにきた人々は「ナザレ人イエスを」と答えます。イエス様は「それはわたしです」と言われました。その時に特別なことが起こります。そのお答えははっきりと神の聖なる名を現す表現だったのです。旧約時代、モーセが燃える芝を通して神様の臨在に触れたとき、「その名は何ですか」と問い、神様は「わたしはある」と答えられました(出エジプト記3章14節)。そのお答えがイエス様のお答えと重なるのです。その場に居合わせた人々は、あとずさりし、倒れたとあります。父なる神様の名を言われたイエス様を前にして、人々はそのような行動に陥ってしまったのです。

【8~15節】 弟子たちを守られるイエス様

 イエス様はこれまで、どのようなときも悪の勢力から弟子たちを守り、配慮されてきました。父なる神様がイエス様にくださった者を一人も失うことがないということの成就です(ヨハネ17章12節)。

 弟子のペテロはイエス様を守ろうと剣で大祭司の耳を切り落としましたが、イエス様はペテロを止められました。ペテロが良いと考え行動したことが、神様のご計画を中断することがあることを示されたのです。

 大祭司カヤパの舅のアンナスのもとへと、役人に縛られ、連れて行かれたイエス様。大祭司の庭ではペテロが、門番の女からイエス様と共にいたことを指摘され、ペテロは軽蔑の意味をもつ言葉で答えたのです。「そんな者ではない」

【19~24節】 大祭司の前でのイエス様

 大祭司の尋問に、イエス様はこの「世」に対して偽ることなく話してきたことを、そして、その内容はユダヤ人たちが知っているのだから彼らに聞きなさいと言われます。ユダヤの律法では、自分自身についての証言は真実とは認められませんでした(申命記19章15節)。大胆に答えられるイエス様を、そばで聞いていた役人は「大祭司にそのような答え方をするのか」と平手で打ちました。その行為に対してのイエス様のことば「もし、正しいなら、なぜ打つのか」は、十字架へと叫ぶ人々に対してのことばではないでしょうか。アンナスは、イエスを縛ったままで大祭司カヤパのもとへ。

【金曜】 ヨハネ福音書18章25~40節
「ピラトの前でのイエス様」

【25~32節】 イエス様のおことばの成就

 第一に、ペテロがイエス様を三度否定したことです。最後には、ペテロが耳を切り落とした人の親類から「わたしが見なかったとでも言うのか」と証拠をつきつけられても、なお否定します。

 第二に、神の律法に従うためであり、神への奉仕という理由で、イエス様を迫害をする者があらわれる時が来るということです。イエス様は、大祭司カヤパのもとから総督官邸に連れて行かれましたが、ユダヤ人たちは過越しの食事をとれなくなるという理由で異邦人である総督の官邸に入ろうとしません。

 第三に、イエス様が捕らわれた目的が、「死刑」だということです。ピラトはユダヤ人たちにイエス様への告発の理由を問いただしますが、彼らの引渡しの理由を理解できません。ユダヤ人たちが持つ律法でさばきなさいとのピラトにユダヤ人たちは「死刑」ということばを出し、死刑はローマ総督のもとに置かれている私たちには許されていないと言うのです。

【33~40節】 まことの王としてのイエス

 さて、このヨハネの福音書では、まことの王なるイエス様が、ピラトという人物を通して浮き彫りにされていきます。
 「あなたは、ユダヤ人の王ですか」 このピラトの質問は、ユダヤ人たちの告発を聞いてのものでしたが、イエス様はあなた自身の考えなのかと問われました。イエス様は、わたしの国はこの世のものではないとお答えになりました。これは、イエス様が伝道を開始されたときのことばを思い出させます。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1章15節) 神の国の王として来られたイエス様。ピラトはイエス様に「それではあなたは王ですか」と。この質問にイエス様は「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです」と答えられました。

 真理のあかしをするために生まれ、この真理のためにこの世に来られたイエス様。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従いますと言われました。ピラトは言います。「真理とは何ですか」
 私たちも真理を知ることのできない者でしたが、真理に属する者とされました。そして、その真理を明らかにされたイエス様は、私たちのまことの王です。

 ピラトはイエス様に死刑に当たる罪はないと釈放を提案しますが、ユダヤ人たちはバラバの釈放を選んだのです。

【土曜】 ヨハネ福音書19章1~22節
「十字架へとイエス様」

【1~16節】 ピラトのこの世の権力に対しての恐れ

 軽蔑されたイエス様の姿をユダヤ人たちが見て、満足し、釈放へと気持ちを変えるのではないかとのピラトの期待は裏切られ、十字架への激しい要求は変わりません。特にピラトはイエス様に罪はないと宣言しますが、ユダヤ人たちの「イエス様は自分を神の子としている」との主張を恐れます。ローマで神とされていた皇帝への政治的反逆罪として、この訴えが成り立つ可能性があるからです。ピラトの一番恐れているものは、この世の権威であり、権力者です。

 緊迫した状況の中でピラトは総督としての権威をイエス様に示しますが、イエス様はうえからの権威を明らかにされます。権威の本当の源はこの世界を造られた神様です。そして、その権威はまことの王なるイエス様を通してあらわされるのです。しかし、「カイザルの味方ではない」「イエス様の存在がカイザルにそむく」とのユダヤ人たちの訴えを聞き、ピラトは見える地上の権威を恐れるのです。

ユダヤ人たちの罪

 「さあ、あなたがたの王です」ユダヤ人たちは「除け、除け、十字架につけろ」と。そして、ついにはカイザルのほかに私たちの王はいないとまで言うのです。神とされていた皇帝をユダヤ人が自分たちの王とし、神とすることは十戒に触れることでした。(出エジプト記20章3節)ピラトは、その時、十字架につけるためにイエス様をユダヤ人たちに引き渡したのです。

【17~22節】 十字架におかかりになられるイエス様

 ピラトからユダヤ人たちはイエス様を受け取り、イエス様は十字架を背負い、どくろと呼ばれている地で二人の者を両脇に、十字架につけられました。

 ピラトは、上からの権威によるまことの王としてのイエスの最後を目の前でみてきました。総督としての彼の権威(権力)も、またこの地上のすべての権威(権力)も、まことの王なるイエス様の支配のもとにあるのです。しかし、ピラトはこの世の権威を恐れ、イエス様の十字架刑を止めることはできませんでした。

 しかし、ピラトのその罪状書きは本当のことを言い当てていました。ピラトは祭司長の「自称、ユダヤ人の王」と訂正してくれとの求めを拒否し、「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と掲げたのです。まさに、イエス様こそ、神の選びの民である真のイスラエルの王です。私たちはまことの王としてのイエス様を信じています。そのまことの王なる方が私たちのために十字架におかかりになってくださったのです。

参考文献

  • 村瀬俊夫 「ヨハネの福音書」 『新聖書注解・新約1』 (いのちのことば社、1973年)
  • 山下正雄 「ヨハネ福音書」 『実用聖書注解』 (いのちのことば社、1995年)
  • 『新聖書辞典』 (いのちのことば社、1985年)
  • 『新キリスト教辞典』 (いのちのことば社、1991年)
  • 『チェーン式 新改訳聖書』 (いのちのことば社、2005年)