新約 第22週
ヨハネ福音書11章28節~15章10節

東京インドネシア福音教会 牧師
スルヤ ハレファ

2007年5月25日 初版

【日曜】 ヨハネ福音書11章28~57節

 マルタに言われて、マリヤはイエス様のところに行きました(28~31節)。悔しさ(32節)と悲しみで泣いているマリヤを見て、イエス様は涙を流されました(33~35節)。私たちの信じるイエス様は無情なお方ではありません。イエス様は私たちの悲しみを知っておられ、ともに悲しまれることができる神様であることを脳裏に焼きつけましょう。

 慰めに来たユダヤ人たちもマルタもイエス様の力を疑いました(36~39節)。それに対し、「信じるなら、あなたは神の栄光を見る」とイエス様は言われました(40節)。お墓の石を取り除けてもらった後、イエス様は祈られました(41節)。これは実に人々が信じるためでした(42節)。そしてイエス様は3日間以上死んだラザロを蘇らせました(43~44節)。多くのユダヤ人がイエス様のなさった奇蹟を見て信じるようになりました(45節)。悔い改め、イエス様には奇蹟をなせる力があると信じようではありませんか。

 信じるどころかイエス様を危険人物とする人たちがいました(46~48節)。ユダヤ人の指導者たちがカヤパ大祭司の案(49~50節)に従いイエス様を殺そうと議会で決めました(53節)。このためイエス様は公然と歩かなくなります(54節)。これは人を恐れるからではなく、“時”がまだ来ていないからと思われます。過越祭が近づいて多くのユダヤ人たちがエルサレムに上って来ました。身を清めるために来た人(55~56節)もいれば、イエス様を捕まえようと謀る指導者たちもいました(57節)。このように、私たちが住んでいるこの世はなんと悪いところでしょう。しかし本書の著者はその現実だけに目を留めずに、人間の悪い営みでさえ、神様の預言と見ています(51~52節)。暗い現実を受け止めながら、神様からの視点で物事を見抜いて、全知全能なる神様がいること、働いておられることを忘れないでいきましょう。

【月曜】 ヨハネ福音書12章1~19節

 過越の6日前にイエス様が再びベタニヤに来られ、ラザロたちと食卓に着いておられました(1~2節)。マルタは給仕していました。マリヤは香油をとってイエス様の足を髪の毛で拭いました(3節)。その香油は300デナリ、つまり現在の300万円に相当するので、会計係のユダは貧しい人に分け与える方がいいのではないかと呟きました(4~5節)。しかしこれは自分の得になるという下心から出たものでした(6節)。イエス様はマリヤの行動を良しとしてくださいました(7~8節)。感謝を込めて、マリヤのように惜しみなくお金や時間、努力をイエス様に献げましょう。

 香油に塗られて次の日、イエス様はエルサレムに来られられました(12節)。古代歴史家とされるヨセフスによるとエルサレムに集まる人数は270万人に上ると言います。その人たちがしゅろの木の枝を取ってイエス様を出迎えました(13節)。この風景は最近テレビで出て来る北朝鮮の人々が国旗を揚げて金正日氏を歓迎する様子と似ているかもしれません。あまりにもすごい風景で、イエス様を憎む指導者たちは当然心細くなりました(19節)。

 あれほどイエス様を出迎えた群衆がたった5日後には「除け。除け。十字架につけろ」と叫ぶようになります(19章15節)。なぜそうなったでしょうか。群衆が出迎えたのはラザロを蘇らせたしるし(奇蹟)を聞いたからでした(17~18節)。彼らの信仰はイエスへの信仰ではなく、奇蹟への信仰であると言えます。このような信仰は全くの不信仰よりはましですが、堅実なものではありません。

 イエス様はろばの子に乗られました(14~16節)。これはゼカリヤ9章9~10節に書いてあるように、イエス様は群衆が思うような王ではありません。戦争を巻き起こすのではなく、平安をもたらし、イスラエルの民のためだけではなく地の果てまでの諸国民のためなのです。このような聖書の教えを信じることは人間の都合ではあまり面白くないものかもしれませんが、堅実な信仰に導くのです。このような信仰を願い求めようではありませんか。

【火曜】 ヨハネ福音書12章20~43節

 過越の祭りにはユダヤ教に改宗したギリシャ人も参加し、イエス様と会いたがっています(21節)。ギリシャ的な名前を持ち、ギリシャ人が多く住んでいるベツサイダ出身のピリポに、その旨を伝えました。でも、ピリポはイエス様がユダヤ人だけでなく、諸国民のために平和・救いをもたらすことがまだわかっていなかったようです。幸いなことにアンドレに話した(22節)後、ともにイエス様に話すことになりました。国民や部族違いによる差別などをやめて、彼らをもイエス様のもとに案内しましょう。

 イエス様の栄光の時が来ました(23節)。このような栄光はイエス様の死と密接に関係するものです(24節・32~33節)。麦の種のように、豊かな実を結ぶためなのです。豊かな実とはイエス様を信じることによって救いの恵みを預かる私たちのことです。その栄光の概念は私たちにも適用されます(25節)。罪人である私たちは悔い改めたら、罪の赦しと永遠の命が与えられ、イエス様に倣う者になります(26節)。イエス様のように他人のために惜しみなく身を捧げる人になろうではありませんか。

 イエス様は人間となられた神であり、普通の人間と同様に心が騒ぐことがあります(27節)。そのようななかでイエス様は自己中心に陥らず、父なる神様の栄光を現れることを願ってやみません(27~28節)。これが父なる神様に喜ばれることです(28~29節)。

 イエス様は多くの奇蹟をなさいましたが、ユダヤ人たちはイエス様を信じませんでした(37節)。これを反面教師に、頑固な人にならないで、素直にイエス様を信じましょう。人間はイエス様を信じないでいることはできますが、それは決して神様の知識と力が足りないからではありません(38)。ヨハネは神様の視点でものを捉えるように勧めます。そうすれば問題・悩みは直面しやすくなります。

 ユダヤ人たちは信じることができなかった(39~40節)と、ヨハネはさらに説明します。ずっと信じようとしなかったので、彼らは、してはならないことをするようになりました(参照:ローマ1章18~32節)。イエス様を信じるチャンスが与えられたら、拒み続けることがないようにしましょう。ユダヤ人の指導者たちのなかで、イエス様を信じる人がいました(42節)が、会堂から追放されない(9章22節・16章2節参照)、すなわち村八分にされないように、信仰告白はしませんでした。神からの栄誉よりも人の栄誉を愛したからです(43節)。神からの栄誉を最優先にする人生を送りたいものです。

【水曜】 ヨハネ福音書12章44節~13章17節

 12章の終わりの部分はイエス様の群衆への奉仕を扱う2~12章全体の締め括りでもあります。ポイントは「わたしを信じる」かどうかです(44節)。信じることによって、多くのことが伴います。

  1. イエス様を遣わしたお方を信じることになります(44~45節)
  2. 闇の中にとどまりません(46節)
    科学や技術が発展したとは言え、自分がどこから来たか、何のために存在しているか、どこに向かっているか、これらのことについては、相変わらず闇の中にとどまっていると言えましょう。イエス様を信じればこの闇から開放されます。
  3. 救われます(47~48節)
    罪が赦され、その罰則も免れます。イエス様は裁くためではなく、救うためなのです。救いと裁きは光と影の関係に似ていて、光を妨げられるとその障害物に影がつくことになります。

 イエス様は、父なる神様に遣わされ、命じられたこと、言われたことを実行し、語っていたのです(49~50節)。私たちを贖うために、父なる神と同等であるイエス様が身を低くし、そこまで犠牲を払ってくださいました。神様の命令などは人間の自由を邪魔すると捉えがちです。しかし、パラシュート(落下傘)のように、縛ることによって逆に命を守ってくれるものなのです。これが「神様の命令が永遠」の意味です。神様の命令を感謝し、守り行いましょう。

 13章の洗足の場面は、過越の祭りの前の、夕食を食べている間でした(1~2節)。そのとき、万物は父なる神様から自分に渡されたとイエス様は知っておられました(3節)。この世の中に悪魔が居り、また活動しています(2節)が、イエス様の知識や権力を越えることはありません(1~3節・10~11節・18節)。足を洗う(4~5節)ことは、異邦人の奴隷にしか命令できないほど卑しい仕事なのです。万物を渡されたということは最高の地位にあることを意味しますが、それでも最低の仕事を惜しみなくなさったのです。なんとすばらしいことでしょう。私たちはその模範に倣うべきです(12~17節)。つまり、プライドを捨て、身を低くし、仕え合うことです。

【木曜】 ヨハネ福音書13章18~38節

 前述のように、イエス様の栄光は十字架で死ぬことを指します。十字架を通してイエス様は神の大きな愛をあらわし、神の御心への完全な従順をもあらわして、神に栄光をもたらします。そのため神はイエス様に栄光を与えられます(32節)。人間には他人に認められ、尊敬されるというニーズがあり、そのために高学歴、多い収入、誇れる結婚相手を探し求めます。これらの営みはしてもいいのですが、神からの栄光を受けなければ、そのニーズを完全に満たすことはできないでしょう。

 イエス様は弟子たちから離れる(33節)ので、彼らに愛し合うことを命じました(34節)。これはイエス様の弟子の印しです(35節)。残念なことにクリスチャンたちは正反対のことを行っていると言っても過言ではありません。

 ペテロはイエス様の行方を聞き(36節)、命を捨てるまで従うと断言しました(37節)。しかし、ペテロは「イエスを知らない」と言うと、イエス様は預言されました。ペテロはある意味ではユダに似ています(参照:21~30節)。前もって計画を立てるという点では異なります(マタイ26章14~16節)。イエス様は、その計画を知った上でユダとともに食事をし、またその足を洗いました(ヨハネ13章1~20節)。イエス様はなんと寛大なお方でしょう。霊の激動を感じた(21節)とは、失望や悲しみによる精神的動揺と言えます。にもかかわらず、イエス様は21節のことばを通してユダに悔い改めのチャンスを与えました。

 誰が裏切るか、弟子たちにはわかりません(22節)。ペテロはイエス様の隣にいる弟子(ヨハネ)に質問するように合図しました(23~24節)。ヨハネは自分のことをイエスが愛しておられた者と自称します。イエス様は不平等に愛するからではなく、ヨハネは愛されていると心から感謝し、また自分がその愛を受けるのに相応しくない者だという自覚なのです。

 ヨハネはイエス様に質問しました(25節)。イエス様は26~27節に書いてあることばと行動をもって答えられました。他の弟子たちに理解されない(28~29節)ことから、26節のことばはヨハネにだけ話されたと考えられます。27節にあるイエス様の言葉によってユダはその場を退きました(30節)。指導者たちは早くても祭りの終わった後にイエス様を殺そうとしました(マタイ26章3~5節)。しかし人間の計画ではなくイエス様の預言(マタイ26章1~2節)の方が実現されます。これはいわゆる神様の主権なのです。この主権を握る神様にもっと信頼し、生きる力と慰めをいただきましょう。

【金曜】 ヨハネ福音書14章1~21節

 様々な悲しいことを聞いた弟子たちは不安になるでしょう。そこでイエス様は「心を騒がしてはなりません」と慰められ、神様とイエス様を信じるように勧められました(1節)。私たちがもし今不安や心配のなかにいるのなら、この心強いおことばを実践したいと思います。父の家(天国)に住まいがある(2節)ことを覚え、感謝と希望を持ちましょう。

 トマスは他の弟子たちを代表して知らないことを告白しました(5節)。そして、イエス様はご自分こそが道であることを宣言されました(6節)。つまり、イエス様は人間と創造主なる神様とを結ぶ道なのです。イエス様のところに行けば、神様のもとに行けるのです(7節)。イエス様は真理であり、いのちであります(6節)。つまり信頼に値するお方であり、永遠のいのちを授けることができるお方です。

 ピリポは「父を見せてください」とイエス様に願いました(8節)。イエス様はご自分が正にその神様の顕現であることを宣言されました(9節・1章18節)。イエス様は父なる神との一体性を持っており、また遣わされた者として遣わした方の言ったとおりに行動するので、この意味でイエス様を見た者は父なる神様を見たのです。

 イエス様を信じる者はイエス様のわざよりもさらに大きなわざを行います(12節)。「わざ」とは福音を告げ知らせることであり、「大きな」とは地理的範囲を指すのでしょう。つまり、パレスチナの地域を超えて、福音を宣べ伝えることです。イエス様のことを宣べ伝えることは私たちに任された使命なので、より熱心に全うしたいと思います。そのためにイエス様の名によって求めればイエス様はそれをしてくださる(13~14節)という心強い約束を与えてくださいます。古代世界では名にその持ち主の本質を表すので、イエスの名によって祈るとはイエス様が喜ぶようなことを願うことを指します。

 イエス様の戒めは難しい、できないに決まっていると主張するクリスチャンがいます。しかし「わたしを愛するならわたしの戒めを守るはず」とイエス様は言われました(15節)。イエス様を愛すれば不可能ことではないことがわかります。イエス様の戒めを守ろうとする時、私たちは孤児のようにされることはありません。三位一体の神様が責任をもってともにいてくださいます(16~23節)。

【土曜】 ヨハネ福音書14章22節~15章10節

 22~31節から5つのことが読み取れます。

  1. イエス様の後継者(25~26節)
    イエス様の教えを私たちに教え、また思い起こしてくださる助け主なる聖霊様が遣わされます。
  2. イエス様の賜物(27節)
    イエス様が私たちに問題があっても、また悩みの中にも揺るがないでいることができる平安を賜ります。
  3. イエス様の行き先(28節)
    派遣者なる父のもとへ行きます。
  4. イエス様の勝利(30節)
    この世の支配者なるサタンは、ユダと指導者たち、兵士たちなどを用いて、イエス様を滅ぼそうとしていますが、勝つことが全くできません。
  5. イエス様のライフワーク(31節)
    イエス様が逮捕され十字架につけられたのは、負けたからではなく、父を愛し、その戒めを行うと決心したからです。

 15章では、父なる神様がぶどうの農夫(1節)、ぶどうの木はイエス様で、枝は人間と譬えられます(5節)。ユダヤ人にとって、ぶどうの木は神の選民としての象徴でもあります(詩篇80篇8節参照)。しかし皮肉にもユダヤ人たちは神様に背きました(エレミヤ2章21節、ホセア10章1節)。それに対して、イエス様はまことのぶどうの木であると自己宣言されました。人種や国籍は霊的な保証ではありません。保証はただ一つであり、そのまことのぶどうの木であるイエス様のみです。イエス様にしっかりとどまりたいものです。

 実とはキリストにある人生(生活)のことです。聖書は数多くの実について語りますが、悔い改めの実(マタイ3章8~12節)はその例の1つです。実を結ばないなら取り除かれます(2節・6節)。結ぶなら刈り込まれます。刈り込みは痛いことですが、それによってさらに実を結ぶことになります。刈り込みの手段はイエス様のみことばです(3節)。多くの実を結ぶためにはイエス様にとどまることが重要です(4~6節)。それによって願い事はすべえ叶えられ(7節)、父なる神が栄光をお受けになります(8節)。みことばを読み、お祈りをすることに励みましょう。

 9~10節では2つの秩序を見ることができます。

  1. 愛の秩序(9節)
    父なる神→イエス様→弟子たち(信じる人たち)
  2. 従順の秩序(10節)
    弟子たち→イエス様→父なる神( 1. の逆)

 愛と従順はコインの両面のように密接に関係しています。愛は従順を生み出し、従順は(さらなる)愛を生み出します。この関係は夫婦関係(エペソ5章21~33節)、親子関係(エペソ6章1~4節)にも言えるでしょう。イエス様の愛にとどまるとは、イエス様が父なる神様の戒めを守るように、イエス様の戒めを守ることなのです。それによって、イエス様の愛をより体験します。そして、イエス様の戒めを守ろうとさらに思うようになります。

参考文献

  • 山下正雄「ヨハネ福音書」『実用聖書注解』(いのちのことば社、1995年)
  • George R. Beasley-Murray, John, Word Biblical Commentary (Word, 1987)
  • Leon Morris, The Gospel of John, New International Commentary New Testament (Eerdmans, 1971)
  • William Barclay, The Gospel of John Vol. II, Daily Bible Study (Saint Andrew, 1975)