新約 第21週
ヨハネ福音書8章21節~11章27節

日本長老教会 志賀キリスト教会 牧師
青木 稔

2007年5月18日 初版

【日曜】 ヨハネ福音書8章21~38節

【1】 イエス様は、どのようなお方か

 今日の聖書箇所では、ユダヤ人とのやりとりが描かれています。イエス様は「わたしが来たのは上からです」と語られました。上から来て、私たち人間をその罪から救う贖いの業を成し遂げようとしておられました。そして、「わたしはこの世の者ではありません」と続けられます。しかし、ユダヤ人たちは、「あなたはだれですか」と問い返すのでした。

 聖書には「聞く耳のある者は、聞きなさい」とあります。私たちは、日々、聖書を読みますが、読み終わった後、何が書いてあったか、ということをすぐに忘れることがあります。恥ずかしいですが、私も同じようなときがあります。

 イエス様を信じて、信仰生活を歩んできますと、イエス様のことを頭では理解していても、心において、あるいは、実際の生活のなかで意識し、信じ、信頼することを忘れがちです。いや、忘れないにしても、事実、自分だけの考えや思いに支配されやすいのです。お互いに気をつけたいと思います。
 私たちの、イエス様は、どのようなお方でしょうか。もう一度、それぞれの心に覚えたいと思います。

【2】 私たちは何者か

 ユダヤ人たちは、イエス様に対して「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません」と主張します。言い換えれば、自分たちは神に選ばれし民族という誇りとでも言いましょうか、そのような高慢があったことは否めません。彼らがもし、自由を与えてくださるお方、それも、自分ではなし得ない罪の奴隷からの解放、弟子とされる恵みに、そしてイエス・キリストご自身に目を向けていれば、このような主張にはならなかったのではないかと思います。

 私たちは何者でしょうか。イエス様の前に、何も誇ることなどできないのではないでしょうか。かつては、罪の奴隷となり、神様に背を向けて人生を歩んでいた者です。しかし、イエス・キリストは、私たちを罪から救うために、父なる神様に遣わされて「上から来て」くださいました。そして、私たちに自由を与え、弟子としてくださる恵みを与えてくださったのです。

 今日、私にとって、あなたにとって、イエス様とは、どのようなお方でしょうか。そして、私は、あなたは何者でしょうか。今一度、自分自身に問いかけてみてはいかがでしょうか。
 みことばを聞く者、心にとどめる者とならせていただきましょう。

 「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です」(31節)

【月曜】 ヨハネ福音書8章39~59節

【1】 主のことばに耳を傾けよ

 「相手の話が聞けない」ということは、本当の意味で「交わり」ができないことだと思います。相手の話を聞くには、自分の主張を止めなくてはなりません。ユダヤ人たちは、イエス様のことばに耳を傾けることをしませんでした。そればかりでなく、自らの主張を止めませんでした。ここに、大きな問題があります。

 ユダヤ人たちは、「私たちの父はアブラハムです」と主張します。それを聞いてイエス様は答えられました。ユダヤ人のことばにイエス様は耳を傾けておられたのです。しかし、彼らはどうだったでしょうか。43節にありますように「あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです」と記されています。

 私たちも、神様に対して同じようなことをしていることがあります。自分の願い事だけを祈り、自分の主張だけをして、神様のことばを聞くということが、なかなかできないことがあるのではないでしょうか。今日、主は私たちに何を求めておられるのでしょう。御言葉と祈りのなかで、神様と交わりの時を持たせていただきましょう。「待ち望む」という姿勢を、主に祈り求めたいと思います。

【2】 誰を信じ、信頼して生きるのか

 ユダヤ人にとって、アブラハムは特別な存在であったことは言うまでもありません。ですから53節にありますように「 あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。そのアブラハムは死んだのです。預言者たちもまた死にました。あなたは、自分自身をだれだと言うのですか」という問いかけがイエス様になされました。

 イエス様は彼らに対して58節にありますように、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです」と言われました。そして、アブラハムでさえ、56節にありますように「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました」と答えられます。この事実は、神様がアブラハムを召された時、神様がアブラハムに与えられた約束に基づいたことばです(参照:創世記12章1~3節)。

 私たちは、誰を信じるのでしょうか。誰に信頼して生きていくのでしょうか。死んだアブラハムですか。それとも、十字架で私たちの罪のために死んで下さり、3日目によみがえられて贖いを完成して下さったお方である、イエス・キリストですか。今日、主の語られることばに耳を傾けましょう。

 「神から出た者は、神のことばに聞き従います」(47節)

【火曜】 ヨハネ福音書9章1~23節

【1】 世の光であるイエス

 今日の聖書箇所に登場します、盲人は、生まれつき盲目というハンディを背負っていた人でした。8節には、物乞いして生活していたことが窺えます。生まれつき盲人である上に、物乞いをしなければならない状況を考えますと、その辛さ、貧しさ、惨めさ、悲しみなどというものを感じていたんだろうなぁ・・・と想像します。その盲人に、世の光であるイエス様のスポットライトが当てられるのです。

 一方で、この盲人を見て弟子たちはイエス様に尋ねます。2節に「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」という質問です。この質問は、弟子たちだけでなく、私たちの考え方、人生の見方でもあるのではないでしょうか。病気になるとか、事故に合うとか、そういうことは、罪となにか因果関係がある、そういうふうにだけ考えてしまいがちです。

 私たちは何か悪いことが起こると、「何か悪いことをしたんじゃない?その罰が当たった」というセリフを言います。特に、親が小さな子どもによく言うのを聞きます。そうすると、大人になっても、「因果応報」ということが、どこかで自分の考えの中にこびりついてしまうのです。日本人に限らず、弟子たちも同じであったようです。しかし、3節でイエス様は答えられます。

 「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」

 ここに世の光である、イエス様の答えがあります。私たちの意識の改革、価値観の転換、様々な考え、見方の転換を覚える、とても大切な主のことばです。

【2】 信じる者と信じない者

 盲人の目に泥を塗って、イエス様は言われます。「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい」(7節)と。彼は、イエス様のことばを信じて、信頼して、自分で池に向かったのです。そして、言われたように実行しました。すると、盲人は癒され、目が見えるようになりました。
 盲人は、イエス様のことばを信じて、従ったのです。

 一方で、その癒された盲人を見ても疑う人々がいました。彼らは、盲人であった彼のことばを聞いても信じようとしませんでした。疑う余地などないはずなのに、彼らは疑いました。ここに、信じる者と信じない者の違いを教えられます。私たちも今日、主のことばを信じましょう。そして、神様を信頼して生かされていきたいと思います。
 私たちは、信じない者にならないで、信じる者にならせていただきましょう。

【水曜】 ヨハネ福音書9章24~41節

【1】 盲目な心 ― 教えられることの恵み ―

 私たちは、時々、自分という者を過大評価しすぎることがないでしょうか。肩書きや名誉など、それ自体は、悪いものではありませんが、そのことで、教えられる心をなくして、盲目な心になってしまうことがあります。今日の聖書箇所を読みますと、霊的指導者を自認していたパリサイ人たちは、まさにそのようでした。生まれつき盲人であった人が癒されたという奇蹟は、実際に起こったことでした。しかし、それを認めることがパリサイ人たちにはできませんでした。そして、彼の話を聞くには聞きますが、どうしても納得できずにいたのです。その姿を見て、癒された(盲人であった人)人は、皮肉を込めてパリサイ人に言います。「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか」(27節)

 今日、私たちの心は、心の目は開かれているでしょうか。教えられやすい心を持っているでしょうか。
 聖書のことばに注目しましょう。

 「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです」(41節)

 神様の恵みをいただく秘訣がここにあります。
 「あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける」(箴言3章34節)

【2】 主イエスを礼拝する心

 生まれつき盲目であったが、今は癒され目が見えるようになった人を、パリサイ人たちは会堂から追放します。そのことを聞いたイエス様は彼を見つけ出して、ご自分が誰であるかを語られました。彼は主のおことばを聞き、「主よ。私は信じます」(38節)と言って、イエス様を礼拝しました。

 私たちのささげる主への礼拝の姿がここにあります。礼拝とは、神様の方が、私たちを見つけ出してくださり、私たちを招いておられる恵みの祝宴なのです。私たちに何か特別な資格があるからではありません。この癒された人のように「主よ。私は信じます」と言って、心から主に礼拝をささげましょう。

 私たちの礼拝の姿勢はどうでしょうか。礼拝が、義務になってはいないでしょうか。「行かないと牧師先生に叱られるし、奉仕もあるし、仕方ないから・・・」と私たちの心が主への感謝がなくなってしまっているなら、もう一度、主が私たちに成してくださった「恵み」を覚えましょう。

 わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、
 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。
 (詩篇103篇1~5節)

【木曜】 ヨハネ福音書10章1~21節

【1】 イエス様の門から入ること

 9章のパリサイ人たちに対するイエス様のことばを受けて、10章が続きます。ここで、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です」と言われています。自称「霊的指導者」であった、パリサイ人を、盗人で強盗だとイエス様はたとえました。彼らの間違いは「羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る」ことにありました。言い換えれば、教会の指導者たちが群れを牧するためには、イエス様という「門」をとおらなければならない、ということです。自分に、能力があり、知識や社会的地位があったとしても、イエス様という「門」から入ることがなければ本当の意味で上に立つことはできないのです。でないと、盗人や強盗のように、その羊の群れを悲しませ、傷を負わせることになってしまうからです。

 大切なことは、すべての人が、イエス様の「門」から入ることです。

【2】 良い羊飼いと羊

 イエス様は、私たちの良い羊飼いです。その大きな理由のひとつは、11節にありますように、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」ということでしょう。私たちのために、十字架でいのちを捨てて下さったことによって、「羊がいのちを得、またそれを豊かに持つ」ことができるのです。

 この「良い羊飼い」に従って行くなら、私たちは「迷える羊」にならなくてよいのです。さて、日々の生活において、羊が気をつけるべきことは、何でしょうか。今日の聖書箇所をまとめてみました。

  1. 「良い羊飼い」の声を聞き分けること(ひとりひとりの名を呼んで下さる)。
  2. 「羊の門」から出入りすること。
  3. 先頭に立つ「良い羊飼い」を見続けること。
  4. 「良い羊飼い」について行くこと。

 更に、良い羊飼いである、イエス様はこのように言われます。16節にありますように、「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです」

 「良い羊飼い」は、全世界に散らされている羊たちを導くことを願っておられます。今日も、「羊」のために主は働きを止めません。私たちも主に贖われた者として、愛されている「羊」として、福音の種まきをさせていただきましょう。「良い羊飼い」は私たち「羊」とともにいてくださいます。

【金曜】 ヨハネ福音書10章22~42節

【1】 「馬の耳に念仏」なユダヤ人たち

 宮きよめという祭り(内容については聖書注解書等参照)の時、イエス様は宮の中におられました。ソロモンの廊を歩いていると、ユダヤ人たちに取り囲まれます。彼らは、「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください」と質問します。

 イエス様は、彼らの「不信仰」を指摘されます。不信仰は、私たちに神のことばを何の力もない、味けのないものとします。今日、私たちの心はどうでしょうか。「馬の耳に念仏」という言葉がありますが、もし、私たちが、聖書を読んでも、礼拝でメッセージを聞いても、何も感じなくなっているとすれば、心を点検してみましょう。私たちの心に、「不信仰」という蜘蛛の巣が張りめぐらされているかも知れません。

 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。
 (詩篇139篇23~24節)

【2】 イエス様に石を取り上げますか

 「わたしと父とは一つです」とイエス様は、語られました。それを聞いた不信仰なユダヤ人たちは、イエス様を石打ちにしようと取り上げます。それも、「また」とあります。8章でも同じことが記されています。いつまでも、心を堅くし、イエス様に背を向けていると、私たちは石を取り上げてしまうのです。「また」です。何度も、何度もです。不信仰から出る、弱さ・醜さがここにあります。

 ユダヤ人たちは、聖書(旧約聖書)を読み、理解し、その教えを大切にしていました。にもかかわらず、石を取り上げました。もし、イエス様が、悪いことをしていたなら、石を取り上げられても仕方のないことかも知れません。しかし、イエス様は、「父から出た多くの良いわざ」を示し、行ってきたのです。「ことば」と「行い」において、「わたしと父とは一つです」の、ことばを証されたのです。

 私たちは、イエス様に石を取り上げますか。神様に対して、不信仰・つぶやき・怒り・憎しみという石を取り上げますか。それとも、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた地方の人たちのように、「『ヨハネは何一つしるしを行なわなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった。』と言った。 そして、その地方で多くの人々がイエスを信じた」とありますように、信仰の手を取り上げますか。

 ご一緒に「石」を捨てて、「信仰」の手を挙げましょう。主の祝福が私たちに豊かに注がれます。

【土曜】 ヨハネ福音書11章1~27節

【1】 神の時

 イエス様の愛していた兄弟たちがベタニヤの村にいました。マルタとマリヤ、そしてラザロでした。そのラザロが病気でした。その知らせを受けたイエス様の行動は、理解不能のような気がしてしまいます。6節に「そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた」のです。「そのようなわけ」とはどのような「わけ」でしょうか。4節のイエス様のことばにあります。

 「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。
 神の子がそれによって栄光を受けるためです」

 私たちは、「神の時」を覚えなくてはなりません。それは、時に、私たちの考えるような時と違うこともあり得るのです。しかし、神様の愛する者に対する時は、私たちに「幸い」を成し続けて下さいます。私たちも神様に愛されている者であることを覚えましょう。

 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。
 しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
 (伝道者の書3章11節)

【2】 愛するゆえに・・・

 もう一度、ユダヤ(ベタニヤ)に行こうとすることを聞いて、弟子たちは恐れました。8節には「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか」とイエス様に言います。先にありました(10章参照)ことを思いますと、弟子たちの言い分は、うなずけることかも知れません。しかし、イエス様はラザロをよみがえらせるために向かいます。

 「愛は地球を救う」というキャッチフレーズでテレビがチャリティーをしているのを見たことがあります。私は「神の愛は人を救い、世界を変える」と信じます。イエス様の動機は「愛」です。愛するゆえに、石打ちにされるかもしれないユダヤへ向かいました。いのちがけです。この愛ゆえに、ラザロはよみがえります。悲しみに暮れていた、マルタとマリヤは、この出来事を通して、更に、イエス様を愛し、礼拝したことでしょう。

 今日も、イエス・キリストは生きておられます。このお方にあって「希望」が私たちに与えられています。主イエスは、私たちにも、いのちをかけて愛してくださったのですから。

 「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」

参考文献

  • タスカー/小林高徳:訳『ヨハネの福音書(ティンデル聖書注解)』(いのちのことば社、2006年)
  • 村瀬俊夫「ヨハネの福音書」『新聖書注解・新約1』(いのちのことば社、1973年)