新約第20週
【ヨハネ5章30節~8章20節】

BibleStyle.com

2007年5月11日 初版

日曜 【ヨハネ5章30~47節】

 聖書通読をしているのは、なぜですか? (39節参照)
 みことばをあなたのうちにとどめようとするのは? (38節参照)
 それは、永遠のいのちを得る、つまり天国に入るためですよね?
 その聖書が、いのちを得るために指南しているのは、「主イエスのもとに来なさい」でした(40節参照)。

 ここでいう「聖書」(39節)とは、今の旧約聖書を指します(新約聖書はまだ記されていません)。旧約聖書は「律法と預言者」と呼ばれますが(マタイ7章12節など)、ここでは、律法(モーセ五書)として「モーセ」(45~47節)の名が、旧約最後の預言者という位置づけでパプテスマの「ヨハネ」(33~36節)の名が、挙げられていると読むこともできます。主イエスは、いろいろな角度・表現で、ユダヤ人たち(16節)の権威としている旧約聖書に言及し、その旧約聖書がご自身を指し示し、証言している、と語られたのでしょう。

 なのに、なぜユダヤ人たちは主イエスのもとに来ようとしなかったのでしょう? 聖書の一番大切なメッセージを受けとめられなかったのでしょう? 彼らは、聖書を探究し、社会の法の根源に置いて、聖書に生きようとしていたはずでしたが・・・。
 主イエスはその理由を、「神の愛」がないから(42節)、と言います。 (直訳「神の愛」を「神への愛」と解するか「神からの愛」と解するか見解が分かれますが、真の愛は双方向であることを考えると、どちらにも言及しているのでしょう)

 聖書は神様からのラブレターです。「救い主が来るよー!」という約束(旧約)と、「救い主が来たよー!」という喜びの知らせ(新約)のうちに表された、神様からの愛の告白です。神様から離れた人、そのままでは木から離れた枝のように滅びてしまう愛する人を救うため、そしてもう一度愛し合って生きるために、書き送られた手紙です。
 どうぞ、書いた人の想いを、見過ごさないでください。

月曜 【ヨハネ6章1~21節】

 ヨハネによる福音書には、「イエス=キリスト(救い主)」の証拠として「7つのしるし」が記されています。

  1. カナの婚礼のワイン(2章1~12節)
  2. 王室の役人の子の癒し(4章46~54節)
  3. ベテスダの病人の癒し(5章1~9節)
  4. 5,000人の給食(6章1~14節)
  5. 湖上の出来事(6章16~21節)
  6. 目の見えない人の癒し(9章1~7節)
  7. ラザロの復活(11章1~44節)

 今日は、第4・第5の「しるし」を見ます。実はどちらにも共通する点があります。
 一方は、男性だけで5,000人、おそらく女性も子どももいたでしょうから倍以上の群衆(球場やイベント会場を思い浮かべてください)が空腹であるという人的な非常事態。
 他方は、吹きまくる強風という自然の非常事態。
 そのなかで慌てふためく弟子たち。もちろん、弟子たちを笑うことはできません。私たちも同じ状況に置かれたら、いや、実際に日々起こる「非常事態」のなかで、慌てふためいているのではないでしょうか。

 「非常事態」の解決は、どちらも「主イエス」でした。
 ポケットの中のビスケットならいざ知らず、たった5つのパンと小さな魚2匹を、いったいどうやって大勢の人々に配ったのでしょう。配るだけでも時間がかかりそうです。想像もつきません。まったく、人知を遥かに超えた解決です。
 嵐を静めに来られた主イエスも、人知を超え、自然の法則を超えていました。

 これらの「しるし」(奇蹟)は、主イエスがキリスト(救い主)であることの証拠としてなされ、記録されました。
 と同時に、主イエスをキリストとして信じた者(キリスト者)にとっては、たとえどんな状況にあっても、「わたしだ。恐れることはない」(20節)と語られる主イエスが、いつもともにおられることを思い起こさせてくれる記事でもあります。

火曜 【ヨハネ6章22~40節】

 「永遠のいのちに至る食物」(27節)を得るために、何をすべきでしょうか?
 それは、「神が遣わした者を信じること」(29節)、つまり主イエスを信じることでした。

 ユダヤ教の厳しい戒律のなかで生きていた人々にとっては、「たったそれだけ」という感覚だったはずです。今の私たちにも、「信じるだけでよい」というのは、あまりにも簡単すぎて、「もっと働かなくてよいのか?」と思ってしまうほどです。
 しかし、むしろ、「信じる」という単純なことのほうが、難しいのかもしれません。人々はさらに、信じることができるように、「しるし」(奇蹟)を求めました(30節)。かつて、出エジプトのときに与えられたマナのような「しるし」を。

 これに対し主イエスは、「わたしがいのちのパンです」(35節)とお答えになりました。「しるし」としてのパンはわたし自身です、と。それは、別の箇所で語られた「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません」(マタイ12章38~40節)を思い出させます。主イエスの十字架こそ、唯一の「永遠のいのちに至るパン」の「しるし」なのでしょう。

 ・・・と言いつつも、福音書には、信じるための「しるし」が随所に記録されています。まるで、主のあわれみがあふれるように。実際、ここの群衆も、まさに前日(22節参照)、男だけで5,000人を養うという奇蹟のパンを、自分たちで口にしたばかりでした。

 結局、「しるし」を見たいというより、腹を満たしたいというのが、群衆の本音だったのかもしれません。高尚なたましいの救いを言う前に、今日を生きる一切れのパンをよこせ、と。当時の貧困が現代日本人の想像以上にすさまじいものだったことを思うと、人々の「食べたい、生きたい」という願いを、尊重しないわけにはいきません。

 でも他方、「人は何のために生きるのか?」とも思うのです。何のために明日のパンを得ようとするのか。そのパンを得て、生きるのは、なぜか?
 人の生きる目的、それは、造られた目的に生きることだと思います。造られた目的とは、神のかたちに造られた存在(創世記1章27節)として、神のかたちに生きる、「神は愛」(第一ヨハネ4章16節)という神のかたち、永遠の神の愛に生きることです。
 そして、その永遠の神の愛に生きるためには、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4章4節)必要があります。人となられた「ことば」(ヨハネ1章14節)である主イエスが、「いのちのパン」として、人の、人として生きる歩みには必要なのです。「ことば」も、「パン」も、人には必要なのです。(マタイ4章4節とヨハネ1章14節の「ことば」には、それぞれ「レーマ」「ロゴス」と違う単語が使われていますが、同義と解釈しました)

 だから、「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」(27節)、信じなさい(29節)、と主イエスは力説しました。それが父なる神の「みこころ」(40節)であるから。
 それに、みこころを求めて生きる者を、神は決して見捨てない、とも約束されています(マタイ6章33節)。

水曜 【ヨハネ6章41~71節】

 41節以降、主語が、ガリラヤの群衆から「ユダヤ人たち」(ユダヤ教社会の指導者たち。1章19節参照)に代わります。

 「わたしはいのちのパン」(48節)
 「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物」(55節)
 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」(54節・56節)

 そのまま受けとめると、ユダヤ人たちと同じイメージを抱きます(52節・60節)。霊的な理解が求められます(63節)。
 主イエスの真意は、十字架の上で裂かれた肉、流された血潮にあります(マタイ26章26~28節)。それを食し、それを飲むとは、主の十字架の死が自分の罪のためであったことを信じ、十字架の死にあずかることです。そして、主イエスの復活と同様、信じる者もまた、新しい者として生まれ、主イエスにあって生きることを意味します(ガラテヤ2章20節)。
 いみじくも「ひどいことばだ」(60節)と言われますが、十字架はそれほどに残酷なものなのです。そして、私たちの罪は、主イエスを残酷な十字架にかけるほどに恐ろしいものなのです。十字架がなければ、赦され得なかったのです。

 主イエスを信じる者の群れである教会は、以来2000年間、これを記念し、信仰告白として、聖餐式を守ってきました(第一コリント11章23~26節)。主の死を告げ知らせ、永遠のいのちのことば(68節)を宣べ伝えるものとして・・・。

木曜 【ヨハネ7章1~24節】

 「仮庵の祭」(2節)は、「過越の祭」「五旬節」と並んでユダヤ三大祭の1つです。
 毎年、秋の収穫祭の頃(出エジプト23章16節)、出エジプト後の荒野時代の仮小屋生活を1週間体験しながら、荒野の旅を守り導いてくださった主の恵みを思い起こします(レビ23章34~43節)。

 その祭りに行くことを勧めた「イエスの兄弟たち」(3節)、いわば主イエスの最も身近な人たちでさえ、当時は主イエスをキリスト(救い主)と信じてはいませんでした(5節)。主イエスの「わざ」(3節・21節)は、祭りの余興ではなく、イエスをキリストと証しする「しるし」でしたが、兄弟たちはその真意を信仰によって悟り得ませんでした。
 兄弟たちだけではありません。ユダヤ人たち(ユダヤ教社会の指導者たち)も、群衆も、「わざ」を見、知恵に満ちた「教え」(14~15節)を聞きましたが、結局は、示された罪(7節)を悔い改めず、むしろ救い主を殺してしまうのでした。「殺そうとする」と言う主イエスに、群衆は「気が狂っています」(20節の新改訳注*)と答えますが、後に現実のものとなります。

 人々が主イエスを殺そうとする理由に、安息日の癒し(5章2~9節)があったことが示されます(21~23節、参照:5章18節)。確かに、安息日を犯す者は殺されなければならないと律法は定めます(出エジプト31章14節)。しかし、主イエスのなさったことは、本当に安息日を犯すことだったのでしょうか?
 そもそも安息日は、三大祭と同様、主のみわざと恵みを覚える日です(申命5章15節)。割礼を施すことができるのも、祭りをしてよいのも、「主を覚える」という趣旨ゆえです。ならば、人の全身を健やかにして、人々が主のみわざと恵みを覚えることも、安息日の趣旨に合致するものであり、安息日を犯すことにはならないはずです。
 にもかかわらず、ユダヤ人たちはその趣旨よりも、「休む」という行ない(表層)の部分を重視して「何もしてはいけない日」と解釈し、様々な禁止規定を神の定めた律法に付け加えてきました。そして、その解釈規定によって、主イエスをさばいていたのでした(24節)。自分たちの解釈に固執し、むしろ罪のない者を殺してはならないという十戒(神の定めた律法の核心)を破ろうとしていたのでした(19節)。

 ユダヤ人たちは、律法を守ろうとしながら、なぜ律法からずれてしまったのでしょうか。そのヒントが17節にありそうです。「神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、・・・わかります」
 神のみこころを行なおうと願っているか・・・。聖書通読をする私たちにも、問われているような気がします。

金曜 【ヨハネ7章25~53節】

 ユダヤ最高議会の議員も含んだユダヤ人たち(ユダヤ教社会の指導者たち)は、主イエスを逮捕し処刑しようとしますが、「時」(30節・8節)に阻まれます。主イエスは大胆に語り続け、群衆は信じる者・信じない者に割れます(43節)。

 信じない理由の1つに、「語る意味がわからない」(36節)というのがあると思います。確かに、21世紀の私たちにはわかることでも、当時の彼らにとっては未来のことであり、信仰をもって聞かなければ理解できないことでした。実際、主イエスと寝食をともにした十二弟子でさえ、わからなかったほどです(ルカ18章31~34節)。

 もう1つの理由に、思い込みがありました。「キリストが来られるとき、それが、どこからか知っている者はだれもいない」「けれども、私たちはこの人がどこから来たのか知っている」(27節)
 彼らは主イエスがガリラヤ生まれだと思っていました。居住・移転の自由が制限された当時にあっては、たいていの人が生まれた地で生涯を過ごしました。だから、目の前にいるガリラヤ育ちの大工のせがれも、ガリラヤ生まれのガリラヤ育ちに違いない、と思っていました。
 彼らの言う「キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る」というのは間違っていません。けれど、今では教会学校の子どもも知っているクリスマスの出来事(ルカ2章1~20節、マタイ2章1~23節)は、知らなかったのです。

 「律法を知らないこの群衆は、のろわれている」(49節)
 現代の私たちには滑稽にさえ見えます。「知らないのはどっちだか・・・」と。
 「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです」(第一コリント8章2節)というみことばが、思い出されます。

 それにしても、もしすべてを知っていたら、彼らは信じていたでしょうか?
 そうかもしれません。確かに、主の十字架後の使徒の時代以降、キリスト教は爆発的に広がります。
 しかし、もし知りさえすれば福音を信じるというのなら、知識と情報にあふれた現代の人たちは、皆クリスチャンになっているはずです。

 渇きを知り、いや渇きを認め、主イエスのもとに行き、へりくだって飲む者でありたい、と思います。

土曜 【ヨハネ8章1~20節】

 新改訳も、新共同訳も、7章53節~8章11節を括弧の中に入れています。53節の新改訳注*にもあるように、古い写本のほとんどがこの部分を欠き、また、含んでいたとしても、挿入する場所など、それぞれの写本間の相違が大きく、さらに前後の文脈から内容も文体も突出しており、「『聖書』ではないのではないか?」とも言われる箇所です。
 ただ、たとえ初期の頃に加えられた記事だとしても、15節の「わたしはだれをもさばきません」という例証として挿入されたと考えれば「なるほど」とも思いますし、いかにも「イエス様らしい」ので、修道院の写本作業において、中世から連綿と削除されることなく残ったのでしょう。これも、聖書の真の著者である神の導きのうちにあると信じます。

 さて、律法学者やパリサイ人たちの告発は、カイザルへの税金の件(マルコ12章13~17節)と同様、進退両難でした(6節参照)。石打ち刑を肯定すれば、当時のユダヤ地方で死刑執行権を独占していたローマ帝国の統治に反逆する者として訴追されるおそれがあり、他方、女性への同情やローマ当局をはばかって石打ち刑を否定すれば、律法を軽視するものとしてユダヤ社会から訴追されるものでした。
 これに対し主イエスのお答えは、一方に偏ったものではなく、誰も否定できない道義に基づいたものでした。「律法のとおりに、ただし、当然ではあるが、罪のさばきを執行できる者は罪のない者である」と。

 しばらくのとき、主イエスは地面に何を書かれていたのでしょう?ともかく、人々はひとりひとり出て行き、最後に主イエスと姦淫の女が残されました。いつもは義人と自認する傾向にある律法学者やパリサイ人(参照:ルカ18章9節)も、このときは己の罪を示されたのでしょうか。石を投げずに立ち去りました。
 確かに、原罪のうちに生きる人間には、「罪」をさばく権能はありません。しかし、主イエスには、さばく権能が父なる神から与えられていました。けれど、主イエスはさばきませんでした。まるで、「あなたの罪はすべてわたしが身代りになるから、わたしもあなたをさばかない」と言うように。

 6章で「わたしはいのちのパンです」と語った主イエスは、8章12節で「わたしは世の光(いのちの光)です」と語ります。
 その主イエスは、姦淫の女との別れ際、「行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」と告げました。
 主イエスによってさばきを免れ、いのちを得た人です。きっと、次のみことばのとおりに生きたことでしょう。
 「わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(12節)

参考文献

  • R. V. G. タスカー:著/小林高徳:訳『ヨハネの福音書(ティンデル聖書注解)』(いのちのことば社、2006年)
  • 村瀬俊夫「ヨハネの福音書」『新聖書注解・新約1』(いのちのことば社、1973年)
  • 山口昇:監修『新エッセンシャル聖書辞典』(いのちのことば社、2006年)
  • 『ヨハネによる福音書(アレテイア ― 釈義と黙想)』(日本キリスト教団出版局、2004年)
  • R. ブルトマン:著/杉原助:訳『ヨハネの福音書』(日本キリスト教団出版局、2005年)

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