新約 第20週
ヨハネ福音書5章30節~8章20節

ニューホープインターナショナルフェローシップ 横浜
アドミニストレーター

大川 浩

2009年10月31日 初版

【日曜】 ヨハネ福音書5章30~47節
「聖書が証しするもの」

 イエス様は、ギアを入れ換えた。
 というのも前節までの箇所では、イエス様は主語を「父・子」として、第三者的な言い方をされていたが、この30節からは、「わたし」とういう一人称をもって、ご自身のことについての証しを始められのだ。

 聖書を読むだけでは、イエス様はどのような口調でユダヤ人たちに語られていたのかはわからない。
 でもちょっと想像していただきたい。前節まで淡々と語っていたイエス様が、「わたし」について突然熱く語り始め、ユダヤ人たちを圧倒していく姿を。
 モーセの律法については、ユダヤ人たちは私たちの想像も及ばないほどの知識を持っていた。常に研究していた。
 しかし、「神の愛」もなく(42節)「互いの栄誉」しか求めず(44節)、とどのつまり肝心の「モーセの書を(さえも)信じない」(47節)ユダヤ人たちに対して、どうして「わたし」のことを信じることができるだろうかと、イエス様は熱く語られたのだ。

 「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです」(39節)
 永遠のいのちを求めて聖書を読む。決して間違ってはいない。むしろ唯一のものを求めて聖書を研究する姿がそこにはある。
 しかし、ユダヤ人たちが決して見いだすことのできなかった答え、それは「わたし」なのだよ、とイエス様は宣言されているのだ。
 つまり、「わたし」が「永遠のいのち」だと「聖書が証言している」のだよ、と。

 この箇所のユダヤ人たちを反面教師としてみるならば、神からの愛と栄誉を求めるなら、聖書のなかに「永遠のいのち」なる「イエス・キリスト」を必ず見いだす。どんなに聖書を読み続けて研究しても、知識としてそれをとらえていくだけでは、神様の熱い思いからは遠く離れているのであろう。
 イエス様を救い主として受け入れている私たちでさえ、謙遜な思いと信じる心を持って、聖書に向かい合っていくべきではないかと身を正す。そこに神様の愛が私たちに向けられていることを期待して、毎日の聖書に向かい合いたい。

【月曜】 ヨハネ福音書6章1~21節
「わたしだ。恐れることはない」

 1~15節までの五千人(以上)に食事を与える奇跡は、規模・質量とも最大級の奇跡といえるだろう。当然、神としての業なくしては行われない、まさに奇跡であった。

 その後弟子たちだけで舟に乗り、湖の向こう岸へ渡ろうとする。暗くなり、折しも吹き始めた強風で荒れ狂う湖の真ん中で恐怖に怯えていた弟子たちに、イエス様が「湖の上を歩いて」(19節)近づいてこられた。マタイ福音書では弟子たちはそれを幽霊だと思ったと書かれているほどだから、さらに恐怖が増したことであろう。そんな弟子たちを安心させ喜ばせたのは、「わたしだ。恐れることはない」(20節)というイエス様の言葉であった。何人かはプロの漁師であった弟子たちが、自分たちの得意なフィールドであるはずの湖の上で経験した、その並々ならぬ恐怖から抜け出せたのは、ただイエス様の一言だったのだ。「わたしだ。恐れることはない」の声を聞いて、彼らは「ああ、イエス様が来てくれたのだ」と安堵に包まれたのだ。

 イエス様が来て嵐が止んだからとか、その後なんとか無事に岸にたどり着いたから、安心して喜んだのではない。
 大切なのは、その言葉を聞き、「信じて受け入れよう」と「決心」したときに、彼らは嵐の湖の恐怖から救われたことではないだろうか。

 さらに21節、新改訳では「イエスを喜んで迎えた」とあるが、新共同訳では「イエスを舟に迎え入れようとした」とあるように、そのとき実際にイエス様が舟に乗り込んだのかどうかはわからないのだが、各訳とも「ほどなく」(新改訳)、「すると間もなく」(新共同訳)、あるいは「immediately(すぐに!)」(NIV)、舟が目的の地に着いたということだ。ガリラヤ湖の大きさと弟子たちが舟を漕ぎだした距離を考えてみると、どの方向に向かったところで、時間的にすぐに岸辺にたどりついたとは考えにくい。つらいとき、恐怖のときは、時間の経つのがひどく遅く感じてしまうかもしれない。しかしイエス様が共にいてくれた旅路は、少なくとも弟子たちにとって「あっという間」と感じてしまうほどの、喜びと安堵の時間であった。

 「わたしだ」というイエス様の言葉は、出エジプト記3章14節で神様がモーセに言われた「わたしは、『わたしはある』という者である」という言葉と同じ意味だそうである。先の五千人に食事を与えた奇跡も然り、イエス・キリストは単なる予言者や人間的な王ではなく(14~15節)、神ご自身であることが、私たちに示されている。
 先の見えない恐れや不安の「嵐」のなかでも、そのイエス様の言葉を聞いて「信じて受け入れよう」と「決心」したときから、喜びと安堵をもって私たちと共に歩んでくださるイエス様がいる。
 「わたしだ。恐れることはない」とのイエス様の言葉は、私たちがその神なる存在を信じるとき、大きな平安へと導いてくださるのだ。

【火曜】 ヨハネ福音書6章22~40節
「神のわざ」

 25節から始まっているイエス様と群衆の問答は、一見噛み合っていないようであるが、よく読むと真理へとたどり着く一連の流れが見えてくる。

 「いつここに来たのですか?」という群衆の問い(25節)に対して、なぜ彼らがイエス様を捜しておられたかという群衆の心理について答えられた。それが重要であったからだ。そこでイエス様は、「(あなたがたが捜して求めている)なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」と答えられている(27節)。
 今度は群衆は「『永遠のいのちに至る食物のために働きなさい』とあなたは言うが、私たちはその神の『わざ(働き)』のために『何をすべきなのか』?」と質問する(28節)。すると今度はイエス様は「何をすべきか」には答えられずに、「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」(29節)と返した。つまり「何をすべきか」を考える前に、目的である「神のわざ」とは何か、彼らに正しい知識を教えられたのだ。
 すると「では、そういうあなたを『信じる』ために、あなたはどんな奇跡を見せてくれるのですか?あなたは何ができるのですか?」と群衆は質問をする(30節)。彼らはつい前日にあれほどの、最大規模の奇跡(五千人への食事)を目の当たりにしたというのに!先祖にはマナが与えられた(31節)、と言う彼らに対して、「マナは天からのパンではありません。まことの神様のパンは世にいのちを与えるものだからです!」とイエス様は答えられた(32~33節)。そこで彼らは「主よ、いつもそのパンを私たちにお与えください」(34節)と、今度は質問ではなく、お願いをした。これは彼らの素直な願いであったのではないだろうか。
 そしてイエス様は、究極の答えを出される。「わたしが(その)いのちのパンです」(35節)。

 29節の「神のわざ」とは「神が遣わした者を信じること」である。そのために何をすべきなのかという群衆の質問は、良い質問であったかもしれない。しかし神様の目から見れば的外れなものであった。求道中の方が「イエス様を信じるために、私はどうしたらいいのでしょうか」と質問しているのと似ている。良い質問でもあり、的外れでもある。救われるために課せられる課題があるわけではない、強いて言えばイエス様を信じること、それ自体であるからだ。
 クリスチャンであっても「神のわざ」のために自分は何をすべきなのだろう、といつの間にか考えてしまっていることはないだろうか。何かうまくいかない、日々の働きや教会奉仕に対して(最善を尽くすことは大切であるが)、自分の力で完成させようとしてしまっていることはないだろうか。信じることによって始まった信仰生活を、「何をすべきか」という自分の力で完結させようとすることはない。やはりイエス様を信じ続けていくことによって、毎日の信仰生活を歩んでいきたい。

【水曜】 ヨハネ福音書6章41~71節
「決心と責任」

 「いのちのパン」のメッセージは続く(~59節)。わたしがいのちのパンであり、わたしを信じる者は永遠のいのちを持つのだ、と繰り返しイエス様は説く。

 しかしここで、「天から下ってきた」とか「わたしの肉を食べその血を飲む」といった言葉に戸惑いを覚え、つまずき、離れ去っていった人々がでてきたと書かれている。しかも「弟子たちのうち」にである(60・66節)。
 特に53~58節のくだりは、今一冊の聖書として読むことのできる私たちにとっては、十字架による苦難を表しているのであり、また聖餐式の大切さを思い起こさせる箇所としてとらえることができる。しかし、言葉そのものしか理解しようとしなかった人々にとっては、これらの言葉がつまずきとなってしまったのだ。あるいは、当時ローマ帝国から解放してくれる「王」を期待していた人々にとっては、いよいよ自分たちの求めていた王の姿とは違うということで、離れていってしまったのかもしれない。

 イエス様と出会い、その救いを受け入れる。信じるか否かは、その人の決断に任されている。こればかりは各自が決めるべきこと、こればかりは人のせいにも神のせいにもできない。イエス様からの救いの言葉を聞きながら、それでも受け入れない、と決めた人々の責任がそこにある。66節で離れていった人々を見送るイエス様の目は悲しみに満ちていたことであろう。一人一人のことを愛しておられていたであろうから。イエス様は振り返り、十二弟子に「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう」(67節)と言われた。
 あなたがたはわたしの言葉を聞いてどう決心するのですか、と私たちにも語られている。68~69節で「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます、私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」とペテロが(素晴らしく)答えたように、毎日の聖書からのメッセージに対して、「主よ、あなたは永遠のいのちのことばをもっておられます!」と、これがわたしのあなたに対する決心です!と、今日も力強く告白していきたいと心から願う。

【木曜】 ヨハネ福音書7章1~24節
「罪を指摘されるとき」

 「(世は)わたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことあかしするからです」(7節)この言葉どおり、ユダヤ人たちはイエス様を憎んだ。
 ユダヤ人たちがイエス様の言葉を理解することができないのは、父なる神様のみこころの本質を求め行なおうとしないからであり、モーセからの律法を研究しながらも本質のところでは決して守ろうとしなかったからである(16~19節)。つづく21節からも具体的な話をされてそれを裏付ける(イエス様はおそらく、安息日に病気の人を癒した5章2~16節のエピソードのことを言われている)。つまりユダヤ人たちの律法の本質をみようとしない「行ないが悪いこと」であることをはっきりと指摘して「あかし」したのである。
 人々から「先生」と呼ばれているようなユダヤ人や律法学者たちにしてみれば、どこからでてきたかわからないような(しかし実力のある)若者に、偽善者呼ばわりされて、しかも言い返せないほどの正論でもって攻められたものだから、イエス様のことはそれはそれは憎かっただろう。彼らにしてみれば「先生」という立場のプライドがさらにそうさせたのかもしれない。途方もない長い時間を律法の研究に費やしてきた彼らの「自信」がそうさせたのかもしれない。

 私たちも罪を指摘されたとき、とっさになんとか自分を正当化しようとし、指摘した人の間違いを見つけて文句を言いたくなることがある。自分のプライドを守ろうとするのだ。何年もの篤き信仰を積み重ねてきたクリスチャンでも、この危険性を否むことはできないのではないか。自分を中心に考えているときには、どんなに努力しても、この危険性から逃れることはむずかしいと思う。
 17節には「神のみこころを行おうと『願う』なら」と書かれている。神のみこころを行なうことができたなら、とは書かれていない。自分のプライドではない、神様はこのとき何を望んでおられるのか、それに従うのだと「決断」ができれば、それにふさわしい者としてイエス様が整えてくださるのだ。謙遜になり、理解する力を与えてくださる。
 「うわべ」(24節)による行ないは自分中心に物事を考えているときのひとつの特徴であろうと思う。しかし謙遜に「神のみこころを行おうと願い」決断したとき、すでにイエス様がともにいて助けてくださることをおぼえていきたい。

【金曜】 ヨハネ福音書7章25~53節
「大声をあげて」

 一連のユダヤ人との問答やイエス様ご自身の語る言葉を聞いて、「この方はキリストではないのか」と信じる者たちが、群衆や祭司に関わる人たちのなかにさえ出始めていた(26・31・40・46節)。
 そこにはいのちをかけて語り続けるイエス様の姿があったからだ。28節には「イエスは、宮で教えておられるとき、大声をあげて言われた」とあり、37節にも「祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた」ともある。大声で、叫んで(cried out)語るイエス様だ。
 弟子たちや身近な人々に対して、静かにじっくりと語られる姿は、心優しいイエス様から容易に想像できるが、人々の前に立ち「大声で」圧倒的なメッセージをするイエス様の姿が、ここにはある。それは語るべきことがあったからだ!わたしはあなたたちに聞いてもらいたいことがある、受け入れてほしいことがある、それは父なる神はあなた方一人一人を愛しており、救いの手を差し伸べておられることだ!とイエス様は、近くの者にも遠くの者にも良く聞こえるように、必死に語りかけているのだ。渇いているならわたしのもとに来て飲みなさい、信じる者は「生ける水の川が流れ出るようになる」(38節)と招いておられるのだ。

 どんなに受け入れられない状況にあっても、みことばを聞き、信じる人々がいる。だから私たちも「大声で」語り続ける必要がある。人々は聞いて耳に入ってこなければ、知りようがないからだ。「大声で」の目的は、できるだけ多くの人に効果的に聞こえるように、だ。現代の私たちにはいろいろな方法が考えられるだろう。大宣教命令に沿って、現代のニーズに応えたユニークかつ大胆な方法をもって福音を宣べ伝えていく工夫が、私たちには必要ではないだろうか。
 一方、矛盾しているようだが、アッシジのフランシスコの言葉も添えておきたい。「いつの時でも福音を宣べ伝えなさい。もし必要ならば、言葉を使いなさい」
 言葉に勝るものも多くあるであろう。普段の私たちから溢れ出るキリストのかおり(第二コリント2章15節)が、身近な人たちに対して何よりも効果的な証しとなることをおぼえて、今日もそれぞれ置かれた場所において花を咲かせていきたい。

【土曜】 ヨハネ福音書8章1~20節
「世の光、いのちの光」

 3~11節において、「イエスを告発する理由を得るため」(6節)に、律法学者たちが姦淫の場で捕えられた一人の女性をイエス様のところにつれてきた出来事が記されている。
 「律法によればこの女は死刑にすべきだと書かれているが、あんたならどうする?」と律法学者たちは聞く。それは、もしイエス様が死刑を認めないで女性を赦すと言えば、それは明らかに律法違反者としてイエス様を捕える口実ができる。あるいは、この女性の死刑を認めるなら、ローマの支配下にあった当時のユダヤには死刑の決定権はなかったそうであるから、ローマに反逆するものとして訴える口実が得られる、との策略であった。いずれにしても、純粋に姦淫の罪に対する憤りからの質問ではなく、イエス様に対する悪意に満ちた質問であった。
 その状況を見抜いておられたイエス様は、怒りか悲しみからか、しばらくはお答えにならなかった(6節)。しかし彼らがしつこく問いつめたので、イエス様は身を起こして「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(7節)と答えられた。ルカ20章20~26節にある、カイザルへの税金が正しいかどうか、やはりイエス様を陥れようとした質問のときと同様、イエス様は「YES」でも「NO」でもない、その本質を見抜いた見事な回答をされたのだ。
 興味深いのは、その答えを聞いて、律法学者、パリサイ人は、「年長者」から一人一人出て行ったことだ。彼らであっても、年長者には年月重ねてきただけの思うところがあったのであろう。

 「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(12節)のみことばは、文字どおり私たちの心を明るく照らしてくれる。それは策略や罪に満ちた薄暗い世のなかを歩き、ときとして周りを見失ってしまう私たちにとって、唯一の指針となる、真実を照らす一条の光である、と。
 同時にマタイ福音書5章にある「あなたがたは、世界の光です」というみことばも真実である。「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5章16節)とあるように、私たちもこの薄暗い世のなかにあって「光」となって輝いてゆけ、とイエス様は語っておられる。
 難しいことはない!とチャレンジしていきたい。私たちは「光」であるイエス様を信じている。そのお方は私たちのうちにいてくださる。そのお方が私たちのうちから輝いてくださるからだ。「私が、自分が」と、はりきっているときには難しいかもしれないが、イエス様を信じ、その姿に似た者になりたいと「決心」したそのときから、私たちは輝き始めることを、今日もぜひおぼえていきたい。