新約 第19週 ヨハネ福音書1章35節~5章29節
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クライストコミュニティ
東神戸リバイバルチャペル 牧師
大竹 哲也
2007年5月4日 初版
【日曜】 ヨハネ福音書1章35~51節
主イエスの最初の弟子『ふたり』(37節)とは、アンデレと本書の記者ヨハネでしょう。2人はバプテスマのヨハネの弟子でした。37節の変り身は、師への裏切りではありません。むしろ師に忠実であった証しです。ヨハネ自身は道備えと心得、イエスをメシヤと示していたからです。
新たな師に近づく2人に、イエスは振り向いて質問しました。「あなたがたは何を求めているのですか」(38節)。この質問に何と答えるでしょう?(今の日本では物質的なもの、あるいは「別に・・・」という答えが返ってきそうです) 2人は「ラビ。今どこにお泊まりですか」(38節)と返しました。2人の求めは物質的なものではなかったのです。2人は人格的な繋がり、神と人との仲介者メシヤを求め、それを確かめたかったのでしょう。人は神のかたちとして創造された故、所詮物質的なもので満たされることなどありません。
イエスに「来なさい」(39節)と言われた2人は、その晩、イエスとひざを交えて話したことでしょう。この日、彼らは霊的な捜しものを手に入れたのです。それが次の行動に現れます。アンデレは兄シモンにニュースを伝えました。おそらくヨハネも兄ヤコブに伝えたでしょう。43節ではピリポが弟子入りしますが、この人もナタナエルに伝えています。
彼らは、イエスに対して、最初は「ラビ」と呼びましたが、「メシヤ」と認めて、家族や友人に紹介しています。イスラエル人にとって、優秀なラビに出会うことは幸いなことだったと思いますが、メシヤはそれ以上、最高点です。
被造物なる私たちは、関係のなかに生きてこそのものです。友や家族、先生、様々な人との出会いは肝心です。でも最高点ではありません。全ての出会いの上にメシヤとの出会いがあります。人々は、イエスを歴史上の偉人程度の理解から、次第に、メシヤと見直していきます。それは幸いなことです。しかし弟子には新しい課題があります。最高点で満足してしまうならば弛んでしまうのです。そうならないために目標と行動が必要です。アンデレやヨハネ、ピリポのように、伝道、あるいは伝道にまつわる働きがあってこそ幸いなのです。強いられてではなく、メシヤと出会った感動、新鮮味があってこそです。
救い主イエスは神でありながら、私たちを迎えるために、大工やラビとなりました。私たちが見えるようなところまで、へりくだられたのです。それなのに物質的生活にあっては、この方を見ることができません。「あなたがたは何を求めているのですか?」この質問を導く現場が必要です。それはまずクリスチャンホームであり、教会ではないでしょうか。
【月曜】 ヨハネ福音書2章1~25節
主イエスの行われたしるしを見て入信した者は大勢いましたが(23節)、今日は最初のしるしに注目しましょう。
ガリラヤ地方のカナで、あるカップルの結婚式が行われました。当時の祝宴は数日間に渡るもの。お祝いムード一色のなか、よもやの事態が起こりました。ぶどう酒がなくなったのです。「ぶどう酒=喜び(詩篇104篇15節)」だとすれば、単に飲むのを我慢すれば済む問題ではありません(今日、たいした準備もせず結婚する男女は少なくないでしょう。式場任せのやり方はカップルの準備の機会を奪っているように見受けます)。祝い客の数が予想以上だったか、飲み助揃いだったのか分りませんが、ぶどう酒の終了は2人の準備不足を露呈します。「このカップルは大丈夫なの?」さあ挽回できるのでしょうか?
「ぶどう酒がありません!」 2人に代わり、マリヤが、イエスに訴えました。この訴えは、この若い男女の窮乏だけでなく、全人類の窮乏をも暗示するかのようです。大丈夫と思ったが・・・万事休す。ぶどう酒ならぬ、生きる喜びがない!面白い話題や趣味、お喋り、それこそお酒を飲めば、人は一時的な喜びを得られるかも知れません。しかし所詮間に合せです。やがてまた空になるのです。
イエスはマリヤの訴えを丁寧に受けました。「何の関係があるのでしょう」(4節)。ちょっと冷たく感じますが、真意は実にあったかい。「あなたは『ない』ということに心を置くが、私は『ある』というところに心を置いています。ですから(そっちにいないで)私に来なさい」 救いの招き言葉なのです。裏付けもあります。「わたしの時」(4節)は自らの受難と関連します。ぶどう酒と暗示された血、喜びのために差し替えられる血を流すのは私だという言葉です。あなたに真の喜びを与えるため、この私が酒ぶねを踏んで血を注ぎましょうという覚悟があるのです。
御言葉は時に冷たく、難しく見えることがあります。しかし神の配慮があるのです。私達がそこに距離を置いてしまうのは得策ではありません。あえて関わる。そうする人が歓喜に導かれる例はここにもあります。水汲みのしもべがそうです。彼はイエスのしるしを目撃したのです。彼は、舞台裏の事情と、表舞台にいる人々の驚喜を同時に見たのです。
イエスは、私たちの表舞台なる祝福現場にも居合わせつつ、舞台裏の困ったところにもご一緒し、手を差し伸べます。『・・・ありません』は私たちに付き物、しかし神は私たちを挽回させることができるのです。うっかり者の私たちの切実な訴えに、身を低くして応じてくださるお方なのです。
【火曜】 ヨハネ福音書3章1~21節
パリサイ人でありサンヘドリン(ユダヤ人議会)のメンバーといえば、誰もが一目を置きました。しかし福音書では、偽善者の象徴のように扱われています。ニコデモは例外ですが、イエスとの対話でトンチンカンな答えをしてしまうあたり、霊的な洞察力の陰りを感じます。それでも、ニコデモのイエス訪問ならびに対話(さらにその後の彼自身の変化)は、やはり大ごとでした。記者ヨハネはこの出来事の解説部(16~21節)に、聖書の中の聖書と呼ばれる16節を記したほどです。
過越祭の間に、イエスはエルサレムでしるしを行われました。大勢が信じる一方、パリサイ人は静観するだけでした。しかしニコデモだけはイエスのもとを訪ねました。神のもとから来たのでなければ、あのようなしるしはなされないと考えたからです。夜訪ねたことに、人目をはばかったのではという説があります。そうであったかも知れません。また実際イエスは夜でなければゆっくり話すこともできなかったでしょう。しかし記者は、ここに全人に関連する意味を含ませています。夜とは、ニコデモの心を支配する闇の状態を映し出しているのだと。ヨハネは、人々はその闇を愛して、光には来ないとも書きました(19・20節)。多くの闇愛好者のなかで、ニコデモは特例です。光に足を向けたのです。イエスを訪ねる道は、真の光を見出そうとする姿なのです。
この晩のニコデモは、対話だけを見れば、面目丸潰れのような様でした。彼の幼稚な質問と無理解を茶化す人もいるかも知れません。しかし、彼の訪問のおかげで、人が神の国を見る奥義が明かされたのです。「人は、新しく生れなければ、神の国を見ることはできません」(3節)。新しく生れるとは、上からの、霊的、超自然的な誕生のことです。闇と関わらせて言い換えれば、神のもとからおろされた灯火を受け取れ!という命令です。これはわがままな命令ではありません。親が子を守ろうとするごとく、命に関わる決死の命令です。この光がイエスです。16節の通り、人が、御子を信じ受け入れるならば、新しく生れるのです!目には分らなくても、感覚では感じなくても、その人は御子を信じることで、聖霊なる神によって、包まれ、洗われ、新たな、神からの誕生に至るのです。
福音書にはっきり書いてはありませんが、ニコデモは御言葉に従い新生した一人と言えるでしょう。後にはイエスの埋葬を手伝い、復活への橋渡しをするほどの成長を見せ、面目躍如を果たしたのです。
【水曜】 ヨハネ福音書3章22節~4章15節
イエス一行はユダヤの地にやって来ました。エルサレムでは、イエスの行うしるしを見て多くの人たちが信じました。ニコデモのような求道者も起こされました。他方、パリサイ人をはじめ何の反応も示さない人も大勢いました。
イエス一行がユダヤで伝道する間、バプテスマのヨハネもアイノンという地で精力的に伝道していました。ヨハネのもとにも人がやって来ました。しかし彼は、自分の役割を最初から最後までわきまえていました。
「私はキリストではなく、その前に遣わされた者」(28節)
「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」(30節)
イエスとヨハネが、同じ場所で協働することはありませんでしたが、両者とも、みこころにある役割を忠実に果たしました。ヨハネの働きの背後で、イエスもまた働かれるとは、何と力強いことでしょう。私たちがみこころのうちに励む働きの背後にも、イエスの働きがあるはずです。
さて、ヨハネの望み通り、イエスの弟子は次第に増え、ついにヨハネよりも抜きん出た頃、それがパリサイ人の耳に届きました。イエスはそれを知ると、静かにユダヤの地を離れました。
ガリラヤへの道中、サマリヤのスカル、井戸の傍で一休みしていると、一人の女性が水を汲みに来ました。ニコデモとの対話も意外でしたが、サマリヤの女性との対話も意外でした。ニコデモは夜でしたが、この女性は真昼(6節の「六時頃」は昼の12時頃)。涼しい朝に、仕事始めに、水を汲むのが普通でしたが、この女性こそ人目を避けていたのです。この女性は深い傷と悲しみを負った女性でした。弟子たちには分らなくてもイエスはご存知でした。
「わたしに水を飲ませてください」(7節)。何の変哲もない申し出ですが、女性は驚きました。ユダヤ人とサマリヤ人とは不仲だったからです。イエスは話し続けます。そして霊的な渇きと、霊的な潤しに気づかせる対話を用意していました。人目を避けて真昼に水を汲みに来なければならない、その異常行動の根本は霊的渇きにある、そのことに読者もまた気づくでしょう。闇には光、渇きには水、両者は同じものを示しています。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(14節)
永遠の命なる水の湧き出し口に女性は立ったのです。そして彼女の人生に湧き出す泉のごとき変化が、ついに起こったのです。
【木曜】 ヨハネ福音書4章16~42節
「刈り入れ」(35節)は穀物の収穫ではありません。人の魂の救いを指しています。ユダヤ人だけでなく、サマリヤ人、全人が対象です。ただここでサマリヤ人が取り上げられたことには意味があります。なぜなら当時ユダヤ人とサマリヤ人は不仲だったからです。どれほどかといえば、ユダヤ人が、ユダヤとガリラヤの地方を行き来する際、サマリヤ地方を通れば最短なのに、わざわざ遠回りするほどでした。「すみませんが通らせてください。ありがとう」と言えばよろしいのに、顔も合わせず、口も利きたくないほどでした。
ところがイエスはサマリヤルートを選んだのです。しかもサマリヤ人女性と対話をします。普通のユダヤ人ならば納得のいかない展開です。イエスの常識は、時に私たちの非常識に当たります。でも、どちらが正しいかは言うまでもないでしょう。イエスはサマリヤ人を(そして全人を)救う青写真を描いていたのです。
ユダヤ人とサマリヤ人は、各々の場所で礼拝していました。礼拝されるお方は唯一です。唯一の神を礼拝しながらも互いにいがみ合うことは異常です。嫌なものを避けることは簡単です。しかしその連続、積み重ねでは、何にも変わらないのです。そのツケが、大きな壁となって両者間に立ちはだかっていました。放ってきた結果、避けてきた結果です。
イエスが35節の御言葉を弟子達に語っている時、遠く向うに、驚くべき光景が映っていたはずです。あの悲しみに暮れた一人の女性が、スカルの大勢を連れて、イエスに近づいてくる。そしてサマリヤの人々が、ユダヤ人である弟子たちを敬遠せず近づいてくる。彼女が礼拝すべき方を知り、永遠の水をいただいたところから始まりました。
「色づいて、刈り入れるばかりになっています」(35節)。この視点は常識を逸しています。私たちには、なかなかそう見えない、それが正直な思いでしょう。イエスがこのように言われたのは、単に信仰という以上のことがあると考えます。ご自分がサマリヤの女と対話をしてみて、彼女に脈、求め、渇きを感じたからではないでしょうか。そして大勢のサマリヤ人が救われました。かつて偶像を拝み、律法を踏みにじり、背信を重ねてきたサマリヤ人、ユダヤ人から卑しく思われていた彼らでさえも救われたのです。
私たちの中に「まだだ」「無理だ」の壁を作ることは簡単です。しかし、それでは何も変りません。イエスの視点、イエスとの対話、常に開かれた心でありたいものです。
【金曜】 ヨハネ福音書4章43節~5章14節
「自分の故郷」(44節)とはエルサレムを指しているのでしょう。イエスはガリラヤのナザレで育ちましたが、メシヤとしてエルサレムに特別な思いを抱いていました。それでもそこでは尊ばれず、かえって、先のサマリヤやガリラヤで熱烈に歓迎されました。
ここにはカナでの第二のしるしが記されています。かつて水をぶどう酒に変えたしるしは、多くの人に伝えられていたでしょう。住民は歓迎しました。なかには遠くカペナウムから来た男もいました。彼は王室の役人でした。王の支配下にありながら、どうにもできない事情を抱えて、イエスに会いに来たのでした。聞けば息子が病気で死にかかっているとのこと。しかしイエスは「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない」(48節)と冷たく言われました。けれども彼はあきらめませんでした。イエスがカペナウムにご一緒してくれるよう願い続けました。死にかかった息子、「もう時間がない・・・」彼のなかの時計は誰よりも早く時を刻んでいたでしょう。しかし、それでも執拗にイエスに従おうとした彼とその家族は幸いでした。
5章は再びエルサレムの場面です。5つの回廊で囲まれたベテスダの池、そこには大勢の病人が伏せっていました。欄外注にもあるように、ベテスダの池の水が動くことに期待を置き、その時を待っていたのです。実際にいやされたこともあったのでしょうか。ただ恩恵に与かれるのはたった1人、それも早い者勝ちです。池の待合人同士はもはや仲間ではなくライバルです。それでも、他に手立てもなく、ぼんやりとそこに佇むしかなかった人がこんなにもいたのです。そのなかに、38年間伏せっていた男がいました。イエスはこの人に焦点を当てます。男は話しかけられて、イエスが自分を池に入れてくれると勘違いし、同情を求めました(7節)。あきらめとも、ひがみともとれる言葉です。また38年経っても治りたい、一途な思いも伝わってきます。5つの回廊をユダヤ教と見立て、そこには救いがないことを暗示しつつ、メシヤの訪問、言葉掛けが、最も底辺にある人にもなされた。御言葉には圧倒的な力があります。人生を180度変えることができるのです。本書第三のしるしは、救いに程遠く見えた人になされました。
現代の私たちは、イエスを肉眼で見ることはできません。しかし御言葉は2000年前と全く変わることなく、約束を果たし、効力を放ちます。私たちがどんな状況にあろうと、生活を大きく展開する力に満ち満ちているのです。
【土曜】 ヨハネ福音書5章15~29節
ところでベテスダの池のいやしがなされたのは安息日でした。このことは律法を遵守するユダヤ人たちに問題視されました。いやされた当人に事情聴取すると、当人は命じられるまま行動しただけで、命じたのはイエスだと話しました。ユダヤ人たちはイエスを違反者としたのです。
イエスはこうなることを分っていたと思います。そうだとすると、安息日に働かれたことには、深い意図がありそうです。イエスは「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです」(17節)と答えました。安息日とは何のためにあるのでしょう?労働を休み肉体的に元気回復する意味も含んでいますが、より大事は、被造物なる人間が創造主である神を覚えて霊的な安息を得ることでしょう。
安息日に、床を取り上げることは当時の規定に反していたかもしれません。しかし、これが人ではなく神によるわざだとすれば、安息日は神のものですから何の問題もないはずです。神を覚える安息日に、神こそが人を顧られたのだとすれば、これほどの祝福はないわけで、驚くしかないと思います。結局、ユダヤ人は、イエスのしるしに神を見ることができなかったということです。可能性すら否定してしまう頑なぶりだったのです。
ユダヤ人たちに、もうひとつ合点のいかないことがありました。イエスが神を父と呼び、ご自分と神とを同等にしたことです。三位一体の教理が確立されていない時代にあって、この無理解はある意味では仕方がないのかもしれません。それぐらいユダヤ人にとって、神は崇高なる存在であった。その点では、私たちの理解はまことに不十分と言えるかもしれません。それはともかく、福音書を普通に読めば、イエスとユダヤ人とどちらが神に近いか、答えは簡単に出ます。一方で、神に選ばれ、みこころに生きようとしながらも、次第に軌道を外してしまうのが人かも知れません。他方、イエスは危険にさらされながらも、また人々の無理解をまざまざと見せられながらも、みこころを真直ぐに歩み通されたのです。
24節以降に、イエスは全人の復活を預言しています。けれども全人は、その目的により、2つに分られるとのこと。一方はいのちを受け、他方はさばきを受けるのです。安息日と知りながらいやしを行える・・・それができる人はこの世にいないでしょう。ただ一人、人となられた神がご自身を力強く現されたのだとすれば、私たちはこのお方のもとで生きる者、将来を心待ちにするものとなるのが幸いではないでしょうか。
参考文献
- 村瀬俊夫「ヨハネの福音書」『新聖書注解・新約1』(いのちのことば社、1973年)
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