新約 第18週 ルカ福音書22章39節~ヨハネ福音書1章34節
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日本聖約キリスト教団
笹沖聖約キリスト教会 牧師
大村 智康
2007年4月27日 初版
【日曜】 ルカ福音書22章39~71節 「逮捕と裁判開始」
【39~46節】 イエス様の祈り
最後の晩餐を終えられたイエス様は「いつものように」(39節)「いつもの場所で」(40節)祈りをささげられました。間もなく十字架といばらの道を歩もうとされたイエス様の行動は、いつものように、いつもの場所で、祈ることでした。
「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(42節)とのイエス様の祈りと、ご自分を捨て、十字架の死にまで従われたイエス様の御姿は、贖われた私たちが日々の生活のなかで祈り、模範として、選択すべきことです。
【47~53節】 逮捕
イエス様の十字架といばらの道の始まりは、3年間寝食をともにした、弟子のイスカリオテ・ユダの裏切りからです。イエス様はこの裏切りにも、また「暗闇の力」(53節)に対しても、逆らわれませんでした。これは、ただの成り行き任せや、イエス様の力不足ではなく、イエス様は罪の贖いというご自分の使命と、十字架の道を歩むという神のみこころを優先されたゆえです。
私たちもキリストとともに、十字架の道を歩むことを選択することを、祈りのうちに備えなければなりません。
【54~62節】 ペテロの裏切り
イエス様が逮捕されて、大祭司の家に連れて行かれたとき、弟子のペテロはイエス様の成り行きを見るために、イエス様の後を追います。イエス様が裁判にかけられている間、彼は3度、イエス様との関係を否定します。この彼を、イエス様は「ペテロを見つめられ」(61節)ました。
人は誰もがこのペテロのような弱さを持っています。私たちが弱さのなかにいたり、罪を犯した後、神は裁きの準備をされているのではと、怯えていないでしょうか。否、主は私たちを助けたいと思っておられるのです。主がペテロをご覧になったように、私たちにも主のまなざしが向けられているのです。
【63~71節】 裁判
この裁判では、イエス様に罪があるかどうかを審議するものではありませんでした。「イエスをからかい、むちでたた」(63節)き、「目隠しして、『言い当ててみろ。今たたいたのはだれか』」(64節)と、あざけりと暴力に満ちたものでした。66節以降の裁判では、すでに死刑が求刑されていました。人の心とは、攻撃的になると、真実を見ることができません。いかなる事実も攻撃対象となります。裁判に関わった人々も、イエス様の証言を受け入れることができませんでした。
ここに見る人の罪深さは、私たちのうちにも見られるもので、このためにイエス様は十字架の道を歩まれたのです。
【月曜】 ルカ福音書23章1~25節 「ピラトのもとで」
【1~7節】 イエス様と総督ピラト
サンヘドリン(ユダヤの議会)は、死刑判決を下して、イエス様を総督ピラトの元に連れて行きます。それは当時、総督ピラトの許可なしには、刑を執行できなかったからです。彼らが死刑を決定したのはイエス様が神の子であるという証言からでした。しかし、いつの間にか「カイザルに税金を納めることを禁じ」(2節)と記されているところに、サンヘドリンの何が何でもという汚い意気込みを感じます。彼らにとって、罪の事実はどうでも良く、死刑という結果だけを望むものでした。しかし、ピラトの元では罪が認められませんでした。
【8~12節】 イエス様とヘロデ
嫌なことは誰でも自分が引き受けたくはないものです。ピラトも冤罪はローマ帝国の権威を汚し、自分の築き上げてきた地位を脅かしかねないものでもあり、「敵対していた」(12節)ヘロデのもとへと送ります。このヘロデのもとでは、祭司長と律法学者たちが激しく訴え、ヘロデ自身も兵士とともに、侮辱と嘲弄をイエス様に浴びせます。ヘロデにとっては、イエス様は様々な奇蹟やわざを起こしたという噂だけを耳にしていた興味の対象に過ぎませんでした。
この日以来、ヘロデとピラトが仲良くなったというのは、細かい部分では意見が合わなくても、それ以上の攻撃対象を見つけ、団結する、人間の罪深さの現れで、私たちの間にも見られるものです。
【13~25節】 群衆のデモクラシー
ピラトのもとでイエス様に死刑判決が下されます。この判決がもたらされたのは、ピラトの意思ではなく、祭司長や長老たちに煽られた群衆のデモクラシーの結果でした。しかし、ピラトもまた自己保身のために、自ら判決を下すのではなく、群衆にこの責任を押しつけたのです。またこの時、殺人罪で捕われていたバラバが祭りの慣習に従って(参照:マルコ15章6節)、恩赦によって解放されます。イエス様の十字架刑の決定によって、罪から解放されたのはバラバでした。
これは私たちが神の御前で罪人であっても赦されるひな型で、私たちにも見立てることができるものです。
【火曜】 ルカ福音書23章26~43節 「十字架」
【26~31節】 強いられた十字架
いよいよイエス様の十字架刑が執行されようとしています。伝統的に死刑囚は処刑場まで、十字架を背負うことになっていたようですが、徹夜での裁判、執拗な暴行のゆえに、イエス様の体力は限界に達していました。そこでクレネ人シモンがイエス様の代役者として選ばれます。「クレネ人をつかまえ」(26節)と記されているところに、シモンに背負わされた十字架が強いられたものであったことがわかります。しかしこれがシモンにとっては恵みの第一歩となったことが使徒13章1節に記されています。
十字架を背負うこと、これはイエス様が私たちに語られたことであり、またキリスト者にとっては必ず恵みになることを思わされます。
【32~38節】 十字架の周りで
いよいよこの箇所において、イエス様は十字架にかけられます。イエス様の十字架の周りには、十字架をながめる人、あざ笑う人、あざける人々がいました。十字架の周りにいた人々というのは、ルカの記述だけでは、こういった人々だけでした。この十字架であざ笑う人々の姿こそ、自分の罪を認めず、わがままに生きる私たちの姿でもあります。そのような人々に対してイエス様は、「父よ。彼らをお赦しください」(34節)と祈られました。この約2000年前の祈りが、あなたの耳に聞こえてきますか。
私たちが十字架を前に立つ時に、本来ならイエス様ではなく、私がいるはずだったことを思い出し、イエス様が身代わりとなってくださったことを覚えるのが信仰者の原点です。
【39~43節】 十字架の上で
イエス様の十字架の両脇には、2人の強盗が同じ刑に処せられていました。2人は十字架上でイエス様に助けを求めました。しかしこの2人が求めた違いとは、1人は自己中心的な思いから助けを求めています(39節)。そしてもう1人は、自分の罪を認め、イエス様に罪がないことを告白していることです(41~42節)。主は自分の罪を認めた人をお救いになり、パラダイスでの再会を約束されました。
散々悪さをして、死ぬ間際で赦しを請う人など都合が良すぎる、イエス様もお人よしだと考える人もいるでしょう。しかし、そのような人をもイエス様はお救いになられるのです。
【水曜】 ルカ福音書23章44節~24章12節 「埋葬と復活」
【23章44~49節】 イエス様の死
イエス様が十字架上で息を引き取られる直前に、全地は暗闇に覆われ、あたかもこの地上が罪という闇に覆われているかを思わせます。この時「神殿の幕は真二つに裂けた」(45節)と記されているのは、イエス様が十字架にかかられたことによって、贖いが完成されたことを意味します。
人は祭司を介していけにえを携えて神の御前に出ましたが、イエス様が祭司となり、またいけにえとなってくださったのです。ですから私たちはイエス様を信じる信仰によって、罪赦され、義と認められ、神の御前に大胆に出られるようになったのです。
そして、このイエス様の死に様を目の当たりにし、百人隊長は神を崇め、群衆も心を痛め、悲しみながら帰途につきます。
【23章50~56節前段】 埋葬
イエス様が息を引き取られた後、議員であったアリマタヤのヨセフという人が、イエス様の埋葬を申し出ます。彼は議会の決議に反対し、イエス様を愛している人でした。聖書はこのことを「りっぱな、正しい人」(50節)と評価しています。日が暮れかかり、日没になると安息日が始まるので、埋葬作業は律法違反となり、この時には、慌しく埋葬作業が進められました。
神はヨセフに埋葬作業を委ねられるという計画があったように、私たちもクリスチャンとしてこの世の流れに同意できないこともありますが、私たちの意に反することがあっても神のご支配があること、また私たちも必ず神の御心を行なう時が備えられているのです。
【23章56節後段~24章12節】 復活
安息日が明けた早朝、すなわち日曜日の夜が明けるとともに、希望の朝がやってきました。イエス様が死人の中から復活されたのです。イエス様の埋葬をやり直そうと墓を訪れた女性たちは、イエス様の体がないことで途方に暮れますが、御使いが復活の事実を告げ知らせます。この知らせを耳にした女性たちは、「イエスのみことばを思い出した」(24章8節)のです。彼女たちは、この事実を使徒たちに伝えに行きます。しかし、使徒たちには信じられるものではありませんでした。
ここに、語られたみことばが心に残り、それを思い出した人の信仰と、みことばが心にとどまらず不信仰に陥ったままの人の姿が明らかにされています。
【木曜】 ルカ福音書24章13~53節 「弟子たちとの再会」
【13~35節】 エマオ途上で
「ちょうどこの日」(13節)とは、イエス様が死人の中から復活され、驚きと恐れにエルサレム中が包まれた日でした。2人の弟子はイエス様とはわからずに、十字架の死と復活について議論しながら、数時間を共に過ごします。彼らがイエス様と共にいたのだと気づいたのは、宿泊場所でイエス様がパンを祝福され、裂かれた時でした。
私たちが臨在の主を疑い、気づかないのは、私たちの関心事が、主ご自身とそのみことばの約束以外に向けられているからです。私たちがすべてのことから目を離し、主を仰ぐ時にこそ、私たちの心のうちは燃やされ、希望をもって歩むことができるのです。
【36~43節】 復活の証拠に
イエス様に出会った人々の反応とは、驚きと恐れにおいては共通していますが、その検証方法は様々です。この箇所では、イエス様が弟子たちの間に現れますが、イエス様と出会った驚きと疑いと喜びが入り混じるなか、ご自身が十字架上で負わされた手足の釘の跡をお見せになります。それでも信じない弟子たちに対して、イエス様は焼いた魚を一切れ召し上がりました。これらはイエス様のみからだが、霊ではなく、その肉体をもって復活されたことを意味しています。
【44~53節】 イエス様のご命令と昇天
イエス様は復活された後、多くの人に出会われます。その最後に弟子たちに対して、十字架の死と復活を、そして罪の赦しを得させる悔い改めの福音を宣べ伝えることを託されます。このことにあたり、イエス様は弟子たちの力と可能性にかけたのではなく、「わたしの父の約束してくださったもの(聖霊)」(49節)によるものであることを教えられました。今日の私たちにおいても宣教と教会形成の原動力は聖霊です。
イエス様が語られた後、天に昇られますが、その後弟子たちは、復活の主と出会ったことの喜びをもって、エルサレムに戻ります。彼らの心にはしっかりと主のみことばがとどまっていました。なぜでしょうか。それは彼らが主のみことばとおりに都に、しかも復活騒動のなかにあるエルサレムに恐れずに戻ったからです。この大きな喜びは、後に続く使徒の働き、教会の誕生、福音宣教の拡大の原動力となり、引き継がれていきます。
【金曜】 ヨハネ福音書1章1~18節 「永遠の存在としてキリスト」
【1~5節】 キリストはいのち
今日からヨハネの福音書へ入ります。ヨハネの福音書とは、すべての人に向けて記された書物であり、十二弟子の1人、ヨハネが記したものです。彼の福音書の書き出しは共観(マタイ・マルコ・ルカ)福音書とは異なっています。イエス様の誕生からの書き出しではなく、イエス様は、すでに永遠に存在されていた神の御子、天地万物の創造に関与された造り主、いのちであり光として、描かれています。
「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって、万物を保っておられ」(ヘブル1章3節)るイエス様の御前でひざまずくとき、私たちのうちで、イエス様がいのちとなり、光となってくださるのです。
【6~8節】 ヨハネの役割
6節で登場するヨハネは、この書名のヨハネとは別人です。彼の生い立ちについては、ルカ1章5~25・56~80節に記されています。このヨハネは通称「バプテスマのヨハネ」と呼ばれる人であり、彼の役割が7~8節で繰り返し「光についてあかしするため」であったことが記されています。
私たちもヨハネ同様、光そのものではありませんが、光に照らされたものとして、光を証しする役割が与えられています。光であるお方を仰ぎつつ、光を証しすることが、主によって生かされ、光に照らされているものの喜びなのです。
【9~13節】 キリストはまことの光
9節では、キリストの到来が告知されています。しかし、10~11節においては、キリストの到来を無視し、あるいは拒絶するこの世の姿が記されています。これはイザヤ53章の受難のキリストを思わせるものです。しかし、ここで旧新両約聖書で救い主の貧しさと到来が描かれているというのは、実に私たち罪ある人間のためであります。暗闇の罪の世界にとどまり、自力では抜け出せずにいる私たちのもとに、キリストは、天の栄光を捨ててまで、私たちの暗闇の中に来てくださり、ご自身も貧しさを味わってくださったのです。
また12節では、私たちクリスチャンが何者であるか、という問いに明確な答えが記されています。「私たちは神の子とされている」というのが、私たちのアイデンティティであります。天に私たちの名が書き記されていることを喜びましょう!
【14~18節】 キリストは恵みとまことに満ちている
キリストが恵みとまことに満ちているとは、どういうことでしょうか。それはキリストの神のご性質をあらわすものであり、またキリストが語られ、行なわれるすべてが、神の御心をあらわし、神ご自身をあらわしておられるということです。目に見えないお方が、人となってこの地上に来られ、ご自身をあらわしてくださったことは、「満ち満ちた豊かさ」(16節)の最高の顕現であり、目に見えないものをなかなか信じることができない、弱い人間に対する神の深いご配慮なのです。
【土曜】 ヨハネ福音書1章19~34節 「ヨハネの証言」
【19~28節】 ヨハネのバプテスマ
ヨハネのもとに、パリサイ人から遣わされた人々がやって来て、ヨハネの身元証明を行ないます。この背景には、28節で「ヨハネはそこでバプテスマを授けていた」ということが、発端となっています。なぜバプテスマを授けただけで、パリサイ人はヨハネのもとに人を遣わしたのでしょうか。それは、ヨハネのもとには、「エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々が」バプテスマを受けに集まっていたからです(参照:マタイ3章5~6節)。パリサイ人は長い歴史の中で自分たちの指導者としての地位を築いてきましたから、突然現れたヨハネに対する警戒と嫉妬心が、パリサイ人のうちにあったのです。
彼は自分自身の使命を「『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です」(23節)と伝えています。彼は救い主の到来を待ち望みつつ、自らの使命を果たしていたのです。
また、ヨハネが授けていたバプテスマは悔い改めのバプテスマであり、もう間もなく来られる救い主をお迎えするために、古い生き方を捨て、罪を悔い改め、新しい心で救い主をお迎えするよう導くことが、ヨハネの使命であり意味でした。
【29~34節】 イエス様との出会い
ヨハネの証言は、イエス様との出会いによって明確にされます。ヨハネはイエス様を目の前にし、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(29節)と告白します。このことばのなかにヨハネは、イエス様が神の御子、救い主であり、贖い主であることを明確に関連付けています。
また32~34節においては、イエス様にバプテスマを授けたときの様子をヨハネは語っています。ヨハネは自分の使命を明確に持っていました(23節)。ですから彼は、自分の使命として、救い主のことを証言しましたし、なによりも待ち望んでいた救い主との出会いに、心が踊り、抑えられない感情が込みあげていたのではないかと思います。
私たちもキリストを宣べ伝えるときには、心から湧き上がる喜びをもって伝えなければ、ことばに詰まり、人の冷たい、あるいは無関心な態度を見て行き詰まり、挫折してしまうでしょう。心から湧き上がる喜びの供給、それは、私たちの救い主であり復活の主であるイエス様と日々お会いすることのなかにあるのです。
参考文献
- 榊原康夫「ルカの福音書」『新聖書注解・新約1』(いのちのことば社、1973年)
- 村瀬俊夫「ヨハネの福音書」『新聖書注解・新約1』(いのちのことば社、1973年)
- H. C. ミアーズ『新約聖書の概説』(いのちのことば社、1978年)
- メリル・テニイ『ヨハネによる福音書』(聖書図書刊行会、1958年)
- 『新キリスト教辞典』(いのちのことば社、1991年)
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