新約 第17週
ルカ福音書19章1節~22章38節

キリスト伝道隊 湘南グレースチャペル 牧師
高橋 一樹

2007年4月20日 初版

【日曜】 ルカ福音書19章1~27節

 ザアカイという人物が登場します。彼は、エリコの町で取税人をしていました。エリコの町は交通の要衝で毎日多くの人が行き来し、取税人にとっては荒稼ぎのできる町でした。当時の取税人は、不正な取り立てをし、人々から嫌われ、まして、ザアカイは取税人を束ねる長だったので、誰も相手にしないような存在でした。
 そのザアカイがイエスさまと出会います。誰にも相手にされなかったザアカイが、イエスさまと出会い、人生が180度変わってしまうのです。神さまの救いのご計画は、私たちの思いもよらないところで行われます。

 11節からは、イエスさまのたとえ話が語られています。その内容は、与えられた賜物を生かして用いる生き方についてです。ザアカイのこれまでの歩みは、神さまからも、人々からも喜ばれない生き方でした。けれど、イエスさまと出会い、主の救いを受けた今は、賜物を十分に生かして、主の喜ばれる生活を送ったことでしょう。

 私たちも、神さまの素晴らしいご計画を信じ、期待し、与えられている賜物を生かして、主の喜ばれる生活を送ってまいりましょう。

【月曜】 ルカ福音書19章28~48節

 イエスさまがついにエルサレムに上ってこられました。イエスさまは、これからエルサレムにおいて自分の身に何が起こるかをすべて知っておられたことでしょう。これからイエスさまは、すべての人の罪を赦すために、苦しい十字架での贖いをしなければならなかったのです。

 イエスさまはエルサレムに入城するにあたり、弟子たちにまだ誰も乗ったことのないロバの子がいるからそれを連れてくるように命じられました。そして、そのロバに乗ると群衆たちの賛美、「栄光は、いと高きところに」をバックにエルサレムに入って行かれました。

 私たちの歩みはいかがでしょうか。私たちは、自分の調子がよいとき、祝福されているときには、心から「栄光は、いと高きところに」と賛美できるかも知れませんが、調子の悪いとき、試練の苦しみのとき、心から主に「感謝します!」と賛美することができるでしょうか。艱難の中にいるときは、主を見上げ賛美をすることができないかも知れませんが、そんなときこそ、聖書を読み、自分の心の中を吟味し、祈りを持って主に近づいてまいりましょう。

【火曜】 ルカ福音書20章1~18節

 今日の聖書箇所では、イエスさまと律法学者たちとの論争についてと、イエスさまが話された農夫たちのたとえについて書かれています。

 イエスさまと律法学者たちとの論争については、イエスさまが何の権威によって宮で教えているのか、と彼らはけしかけてきました。この問いに対して、イエスさまは答える前に、バプテスマのヨハネに関する質問を投げかけました。彼らはイエスさまの質問に対して、自分たちの立場が危うくなることを感じ、答えにならない答えをしました。

 私たちはいかがでしょうか。イエスさまの福音を証ししながらも、自分の立場が危うくなると、イエスさまのことを知らないと言ってしまうことがあるのではないでしょうか。私たちの歩みが神さまのみこころにかなった、神さまの喜ばれる歩みとなるように、まず神の国と神の義を求める者となりましょう。

 続いて、イエスさまが話された農夫たちのたとえについてですが、これはイエスさまのこれから起こる受難の予告であります。ユダヤの指導者たちは、イエスさまのことを「見捨てた石」としたのですが、父なる神さまのみこころは、その石が「礎の石」となることでした。

 先日、イエスさまの復活を記念するイースターがもたれましたが、イエスさまが私たちの罪のために十字架にかかり、復活してくださいました。もしかすると、私たちも主人のしもべ、息子を殺した農夫のひとりかもしれませんが、そんな者にも、主はあわれみ、救いの道を開いてくださいました。神さまのご計画を感謝し、主の前に襟を正してまいりましょう。

【水曜】 ルカ福音書20章19~47節

 今日のみことばで注目したいのは38節です。「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです」

 天地万物を創造された父なる神さま、御子イエスさま、御霊なる神さまは、いまも生きて、この世界を支配し、神さまの摂理のなかで統治しておられます。ある注解書には、37節にある、神さまがモーセに柴の個所で言われた、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』が書かれている出エジプト記3章6節のみことばは、過去形(であった)ではなく、現在形(である)で表現され、彼らが復活し、いまも神さまとの温かい交わりの中に生きていることの証しであると書かれていました。

 主は死んだ者の神ではなく、生きている者の神であるのです!そして、主を信じる者はたとえ死んでも生きるのです。これは私たちに与えられた恵みであり、希望であります。私たちの生涯には、つらく苦しいときがありますが、全知全能なる主なる神さまが、いまも生きて、私たちとともにいてくださるのです。このお方が私たちといつもいてくださることを感謝し、主と共に歩んでまいりましょう。

【木曜】 ルカ福音書21章1~28節

 今日の聖書箇所には、終わりの日におこる前兆について書かれています。その内容は、神殿が崩壊する、さまざまな前兆がある、キリスト者が迫害される、エルサレムが崩壊する、そして、人の子が雲に乗って再び来られるということである。
 この話をイエスさまから直接聞いていた弟子たちは、この終わりの日が今すぐにでも起こるのではないかと思っていましたが、そのときがいつかはわからないから、「惑わされないように気をつけなさい」とイエスさまは言われました。

 キリストが天に帰られてから2000年が過ぎようとしていますが、いまの世界の状況を見ると、終わりの日が近いのかなぁと思うようなことが起こっているのではないでしょうか。戦争と戦争の噂に世の中が騒然となり、世界の各地で地震が起こり、飢餓で苦しむ人々が増え、悲しいニュースが飛び交う今日この頃です。いまも終わりの日は近づいています。しかし、その日は誰にもわかりません。惑わされないように気をつけながら、28節にあるように、贖いが近づいていることを思い、からだをまっすぐにし、頭を上に上げて、ただ主だけを見上げて歩もうではありませんか。

【金曜】 ルカ福音書21章29節~22章13節

 イエスさまは、昼には宮で教えを説き、夜にはオリーブ山で祈りの時をもたれました。そして、過越の祭りが近づいてきたころ、イエスさまがユダによって裏切られる というときがせまってきました。
 ユダは、イエスさまの弟子、12弟子のひとりに加えられ、これまでイエスさまと寝食をともにし、イエスさまの教えを目の前で聞いてきました。けれども、ユダのうちに、サタンが入り(3節)、イエスさまを裏切ってしまう出来事が起こるのです。サタンは、イエスさまに荒野で誘惑をかけて後、表舞台からは姿を消していましたが、ここで再び姿を現し、ユダの心の内にスッと入っていったのです。

 私たちの歩みはいかがでしょうか。イエスさまを礼拝し、救い主と信じて歩んでいたのにもかかわらず、あるとき、イエスさまから目を離し、イエスさまを否定するようなことを経験したことがあるのではないでしょうか。
 サタンは私たちの心のスキを見つけ、スッと入ってきます。そして、イエスさまを信じさせないように仕向けるのです。今日、みなさまに忘れないでいてほしいことは、イエスさまからいつも目を離さないでいて、サタンが入ってこないように、スキを与えないように心がけていましょう。

【土曜】 ルカ福音書22章14~38節

 イエスさまは、弟子たちとの最後の晩餐をします。彼らは、過越の小羊を食べ、ぶどう酒を飲み、そして、イエスさまによってパンが裂かれ、食後の杯を食すのでありました。これは、注解書を読むと、旧約の過越の小羊とぶどう酒(15~18節)は新約のパンと杯(19~20節)に対応し、古い契約から新しい契約へと移される。イエスさまの十字架で流される御血潮により、贖いが完成することを意味するのです。

 今日のみことばのなかで注目したいことは、31節と32節のみことばです。これは、ペテロがイエスさまを知らないと否認する予告であります。サタンはユダのみにとどまることなく、ここにいた全員に入るのです。そして、ペテロも、麦のようにふるいにかけられ、信仰が試されるのです。それを見たイエスさまは、ペテロのために、信仰がなくならないようにと祈るのです。

 私たちの周りにも、信仰が試され、揺さぶられ、試練の中にいる兄姉たちがいるかも知れません。もしそのような方を見つけたら、その方のために陰でそっと祈ってあげてください。そして、私たちの信仰がなくならないように、互いに祈りあって歩んでいきましょう。

参考文献

  • 熊谷徹「ルカの福音書」『実用聖書注解』(いのちのことば社、1995年)
  • 『新キリスト教辞典』(いのちのことば社、1991年)