新約 第16週 ルカ福音書14章12節~18章43節
BibleStyle.com
日本同盟基督教団
北総大地キリスト教会 教会員
斉藤 満
2007年4月13日 初版
【日曜】 ルカ福音書14章12~35節
イエスは今日の箇所、12~14節において、パリサイ人、律法学者たちの自己中心性と、他の階層の者たちに対して持っていた、無関心、差別意識を指摘された。お返しが出来る人々、あるいは招いて当たり前の人々を招くのではなく、お返しの出来ない人々、招かれるはずのない人々を招きなさいと言われたのは、パリサイ人、律法学者たちのそうした背景があるからである。彼らは自分たちの利益だけを求め、同じイスラエル人のなかの弱い立場にいる人々に対し、偽善こそすれ、本当の愛は示さなかった。それにもかかわらず、彼らは我こそは神の国の民だと信じていたのである。パリサイ人、律法学者の自己義認は15節によく現れている。この反応は、前のイエスの教えに対する答えとしては、ちぐはぐな感じがする。しかし16節以降のイエスの寓話を考えれば、これは霊的に盲目な彼らの姿を、いみじくも言い表す一言であろう。客の一人が「何と幸いなことでしょう」と言ったのは、彼が自分を神の国で食事をする者(義人の復活のときお返しを受ける者)とみなしていたからである。
これを聞いてイエスは16節から「盛大な宴会の例え」を話される。古代オリエントにおいて正式な招待は二度に分けてなされた。一度目の招待を受けておきながら、二度目の招待を断ることは無礼極まりないことであった。例えのなかで、招待客は理由にならないような理由で二度目の招きを断る。彼らは招待のことよりも、自分自身の興味に心血を注いでいる。
21節、怒った主人は他の人々を招いて宴会を満席にする。24節に鍵がある。冒頭「言っておくが・・・」は直訳すると「あなたがたに言う」である。つまり24節は、例えのなかの主人の言葉ではなく、例えを聞いていたパリサイ人、律法学者たちに向けてイエスが言われた一言と考えられる。24節におけるイエスの言い変えを見逃してはならない。「私の食事」とは15節における、「神の国の食事」であり、暗に自分が神の国の主人であることを示している。イスラエルの指導的立場にあり、神の国の民と自負していたパリサイ人、律法学者たちは招かれた客であった。にもかかわらず、主人であるイエスの二度目の招きに答えようとしなかった。結果、彼らがイエスの食卓(神の国の食事)にあずかることはないのである。
25節から場面が変わる。今度はイエスと共に、イエスの弟子として歩いていた群衆に対して語られた。前段との関係はこうである。「イエスの食事」に招かれていたはずの人々が、締め出される結果になり、他の人々にもその門が開かれた。しかし、イエスの弟子になるということは簡単なことではない。ここからは「イエスの食事」にあずかりたい者に対する言葉なのである。一見すると、なにやら尋常ではない。「憎む」とは聖書らしからぬ言葉に思える。この場合の「憎む」とは相対的な関係を意味する言葉であり、なんの理由もなく父母、兄弟、自分を憎めといっているのではない。イエスに対する愛が最優先であるならば、必然的に他への愛は最優先ではなくなる。これが「憎む」という言葉に訳される原語の意味である。
28節から33節の例話は、弟子になるためにはまずそのための計算、予定、そしてやり遂げる覚悟が必要であるという意味である。
最後に弟子を「塩」に例える。塩には3つの効用がある。
1) 防腐剤として。弟子たちはこの世の腐敗を防ぐ防腐剤である。
2) 調味料として。弟子たちはこの世に新しい風を吹かせるための調味料である。
3) 肥料として。弟子たちは良いものを育てる肥料である。
このように述べると同時に、もし塩が塩気をなくせば何の役にも立たず、外に捨てられるという厳しい警告もなされている。
【月曜】 ルカ福音書15章1~32節
今日の箇所は多くの方に親しまれている箇所のひとつである。収税人、罪人たちは当時、パリサイ人、律法学者から嫌われ、汚れたものとして扱われ、交流がなかった。自分たちを義人とし、神の国の民だと信じるパリサイ人、律法学者たちにとって彼らは滅ぶべき罪人であったのだ。その収税人、罪人たちとイエス・キリストの間に交流があったのだから、パリサイ人、律法学者たちの驚きと蔑みは容易に想像できるところである。「そこでイエスは彼らにこのようなたとえ話をされた・・・」というのが今日の本題の始まりである。
【4~7節】 いなくなった羊の例え
旧約聖書の時代から、神と神の民の関係は、羊と羊飼いに例えられてきた。詩篇23篇、イザヤ53章6節などが代表的であろう。そして良き羊飼いのモチーフは、イスラエル人が待望していた、救世主の象徴として用いられた。エゼキエル34章などがそれである。羊のモチーフは当時のイスラエル人にとってありふれた自然なものであった。
この例話、なぜ99匹もまだ残っているのに、自分の命を賭してまで1匹を探すのか、なんだか腑に落ちないものを感じる。近年、イラクで人質になった日本人に対する国内の世論に「自己責任論」なるものが持ち上がる日本人にとって、これはまことに不可思議この上ない。「自分で迷い出たんなら、野たれ死んでもしょうがない。なんでそんな勝手な奴のために他のものが犠牲を払わなきゃならないのか・・・」なんて声が聞こえてきそうである。そしてこの声こそが当時のパリサイ人、律法学者の声なのである。1匹を見つけたときの羊飼いとその友人たちの喜びの場に彼らの姿はない。自らを神の民と称していた彼らの実態と、迷える羊を命を賭して探し求める神の計り知れない愛が対照的である。
【8~10節】 失われた銀貨のたとえ
銀貨1枚といえば当時の貧しい労働者の1日分の賃金である。その銀貨を1枚無くしたとて、どうと言うこともないか・・・という視点では理解できない。先にも書いたがこの例話もまた「父なる神の愛」の大きさを表すものである。この例えのなかの女は恐らく貧しい。彼女が一家の生活費のために持っているのは、たった10日分の日雇い労働者の賃金である。よって、もしその1枚を失くしたならば、とうぜん家中を探し回るのである。
ここで聖書が注目させたいのはその女の境遇ではなく、他人には大げさにさえ思えるほどの女の熱心と喜びに例えられるほどに、失われたものを探し求めておられる神の御姿である。
【11~32節】 2人の息子対する父の愛の物語
御存知、この例話は「放蕩息子の例え」として知られる有名な物語である。しかし内容からするとその題名は必ずしもふさわしいとは言えない。一読するとあたかも弟息子が話の中心に見えるがそうではない。この例話の中心は2人の息子を持つ父の計り知れない愛である。
それほどわかりにくい例話ではないのでポイントだけに抑えたい。
12節、当時、父親の存命中に財産を分与してやることはないことではなかったが、それはあくまで父親の都合上であろう。自分から財産をよこせという自己中心な弟息子の心に冷酷さを見る。ここですでに父の偉大な愛が示され、父親は彼の要求どおりに分けてやるのである。
15節、彼は豚の世話をするほどに堕落するが、これは単に汚い仕事にしかありつけないほどに落ちぶれた、ということではない。イスラエルの律法に「豚を飼う者は呪われる」というものがある。当時、豚は汚れた動物としてイスラエル人に忌み嫌われていたのである。その豚の世話をしていた彼には、その豚の餌さえも与えられなかった。まさに落ちるところまで落ちたのである。
ここで彼は悔い改め、父の元へと帰っていくのである。その彼を迎えた父の歓迎はまさに彼自身とは不釣合いなほどの歓迎であった。汚い彼に口付けし、着物(栄誉を表す)を着せ、指輪(相続者としての権威を表す)をはめ、靴(奴隷ではないことを表す)を履かせ、祝宴を催したのである。
一方、兄は正しかったのか。否。彼もまた「失われた息子」の一人であった。彼は弟が帰ってきたことを喜ぶどころか、怒って家に入ろうともしない。見かねた父親がなだめようと出くると、自分が正しい根拠を並べ立てた。また彼の言葉の裏には、心の奥底では弟のしたことを羨む兄の姿が浮かぶ。
30節、父親にむかって、自分の弟を「あなたの息子」と呼ぶほどに彼の心は冷え切っていた。ここに自分を義人としながらも、その実「失われた息子」である、パリサイ人、律法学者の姿が重なる。しかし、ここでもまた父親はその計り知れない愛をこの兄息子に注ぐのである。物語にはその後、この兄息子がどのようにその愛に答えたのか、書かれていない。
この3つの例話のテーマは「父なる神の計り知れない愛」である。イエスが示したこれらの神像はイスラエル人にとって画期的な神像であった。彼らにとっての一般的な神のイメージとは畏怖の対象であった。イエスは「神は愛なり」と示すと同時に、自ら失われたものを探し救うためにこの世の生涯を歩まれたのである。
【火曜】 ルカ福音書16章1~18節
【1~8節】 “弟子たちにも”語られた不正な管理人の例え
一見するとイエスは、この不正な管理人を是認しているかのように取れる。しかしそうではない。イエスは不正な管理人、つまり「この世の子ら」(ノンクリスチャン)が、この世での生き方、またこの世の将来に対して、「光の子ら」(クリスチャン)よりもはるかに熱心であり、徹底しているといっているのだ。その裏には、光の子らはこの世での生き方ではなく、自分の魂について、永遠の命についてなおさら熱心であれ、という思いがある。
【9~13節】 富についての勧め
9節には「光の子ら」つまり神の前に正しい管理人とは、どうあるべきかが書かれている。まず注意したいのは「不正な富」という言葉。ここで使われている「不正な」という言葉は「この世の」とほぼ同義の言葉である。よって「不正な富」とは、すなわち「この世の富」のことであるのだ。光の子らは「この世の富」、つまりこの世で自分に与えられているものを用いて、友をつくりなさい。その目的は、「富がなくなったとき」、つまり人が死ぬ時、彼らがあなたを「永遠の住まい」に迎える、つまり神の国に迎えるといっているのだ。
ここで問題になってくるのは「友を作る」とはどう解釈するべきかという問題である。これは単純に人に親切にしたりおごったりすることによって、友人をたくさん作れということではない。また、その対象が貧しい人か、親族であるのか、クリスチャンか、はたまた天使、あるいは神であるのかわからない。見方を変えてみる必要がある。9節後半に、「彼らがあなたがたを、永遠の住まいに迎える」とある。そのまま読むならば、「この世の富」で作った友があなたを神の国に迎えると解してしまいそうであるが、そうではない。この「彼ら」は神の名の直接的な表現を避けるユダヤの表現である。そしてこの「迎える」という動詞は三人称複数形という形で、それは神の摂理を表すときに用いられる。すなわち、「友」を作ることによって、その「友」が光の子らを永遠の住まいに迎えるのではなく、その行いを喜ばれた神ご自身が迎えてくださるのである。よって「友」を限定された対象として捉えるのではなく、「友をつくる」という表現のなかで「神の御心にかなった使い方をする」と受け取るほうがいいであろう。
少し整理してみる。正しい管理人は、不正な管理人とは違い、この世の富を神の国に入るために用いるべきだ。それはすなわち、この世の富を神の御心にかなったことに用いる、ということである。そうすれば、神は永遠の住まいに迎えてくださる。続く10~12節は同じテーマが繰り返される。10節、「忠実」であるというのは人格的な問題であり、それにはことの大小はない。11節、「不正(この世)の富」に忠実でなければ、「まことの富(天の富)」は任せられない。12節、「他人のもの」とは死ねば何も持って行くことが出来ない「この世の富」を表し、「あなた方のもの」とはすなわち「天のもの」を表す。
【14~18節】 一部始終を聞いて嘲笑っていたパリサイ人たちと、イエスの問答
後半14節からは、イエスとパリサイ人たちの問答が挙げられている。16節、この「ヨハネまで」とはバプテストのヨハネのことであり、イエス以前を表す。そして「だれもかれも・・・はいろうとしています」とは多くの収税人、罪人たちが殺到していることを指している。しかしそれは律法が廃棄され、誰も彼もが入れるようになったということではないことを17節は告げる。そしてその律法の一例として離婚に関する律法を挙げられた。それは当時、結婚の絆は完全に形骸化し、女はモノとして扱われ、離婚は男性の権利と考えられ、神の意図されたものから外れていたからである。イエスは神の国が到来した今も、この律法が生きていることを示す。それは暗にそれらを形骸化させている指導者たちに対する警告である。
【水曜】 ルカ福音書16章19節~17章10節
16章19~31節は、前回の続きでもあり、つながりは明白である。この世の富を、自分のために用いる不正な管理者は、今日の箇所に出てくる金持ちに重なり、富を義人の象徴だと捉えていた律法学者の眼前で語られたのである。
この例えの要は、富む者と、富まない者の立場が、死後に逆転する点にある。そこにはルカ12章21節にある「神の前に富まない者」の姿がある。
19節、金持ちの着ていた「紫の衣」は高価な上着、「細布」はエジプト亜麻の下着であり、いずれも贅沢品。彼は毎日遊び暮らしていたとある。一方、その金持ちの家の門前にいた貧乏人は乞食であり、何らかの病気を患い、衰弱していた様子が窺える。
21節に「犬もやってきては、彼のおできをなめていた」とあるが、犬は当時、けがれたものとされていたので普通は追い払う。が、彼にはその気力さえなかったようである。その貧乏人の名は、ラザロであるが、この名の意味は「神は我が助け」である。やがて両者は死に、金持ちはハデスへ、ラザロは名前が表すとおり神の国へ携え挙げられる。
この背景には前回の15節がある。人間の間で崇められる者とは誰か。それは金持ち、有名人、権力者などこの世で成功した者たちである。しかし彼らが、その成功を神から与えられた恵みとは捉えず、神の御心にかなう富の運用をしないのであれば、神の前では憎まれ、嫌われるのである。金持ちはラザロに酷なことをしたわけではない。門前から追い払ったり、物乞いを拒否したり、暴力を振るったりしたわけではない。この金持ちの罪は、彼の眼前で飢え、苦しんでいたラザロに、何もしなかったことである。彼は苦しむ隣人に無関心であり、他人に対する想像力が欠けていた。それと同時に任された富を正しく用いることをしなかったのである。
27~31節の問答は、一見無慈悲に思えるが、人間の本質を考えるならば至極当然といわざるを得ない。御言葉に耳をかさず、目の前の貧困や苦しみに対して何も感じない人は、たとえ誰かが超常的なしるしをもって警告に来たところで耳を貸すはずがない。今日の日本を思う。
17章1~10節は打って変わって弟子に向けた教訓である。いわばクリスチャンになった人への教訓と言えよう。
1節、「つまずき」とは「罪の誘惑」とも訳される。つまり信仰者を悪へと誘惑する者は忌まわしい者であり、2節の恐ろしい刑罰よりも悲惨な結果が待っているということである。
3節・4節は訓戒と赦しの教えである。4節「7度」は文字通り7回ということではなく、際限なくということである。このような基準の高い教えは実行不可能であることは、私たち自身がよく知っている。それは神への信仰なしには出来ないことである。
5節、使徒(弟子)たちは主(イエス)に「私たちの信仰を増してください」と懇願する。彼らは自分の信仰が薄いためにそうした教えを実行することが出来ないと考えたからである。しかしこれに対しイエスは信仰を「からし種」という米粒よりもさらに小さい種に例え、信仰の薄い・篤いではなく、本質に眼を向けるように説いている。本当に生きた信仰に不可能はないのである。
7~10節、神への奉仕とは当然の義務であることを教える。私たちクリスチャンのうちには「奉仕」をするうちに、段々と「してやっているんだ」という傲慢な心が芽生える。しかしそれは神の前に負っていた罪の負債と、その赦しの恵みを忘れた理不尽な考えである。私たちがいかに徳の高いことをしたとしても、その行いによって私たちが義人になることはないのである。
【木曜】 ルカ福音書17章11~37節
【11~19節】 10人のツァラアト患者の癒し
ツァラアトとはいかなる病気であるのか、その詳細はわかっていない。しかしそれに罹った者の処遇は旧約聖書のレビ記13章・14章に書かれている。もし人がツァラアトにかかった場合、その人は汚れた者とみなされ、社会から隔離される。彼等は同じ病気の者同士、寄り添って生きた。また、その患者は病気が癒された場合、まず祭司に見せ、その病の癒しを宣言してもらわなければ社会に復帰できなかった。この記事で注目したいことは、10人の患者はイエスの言葉を信じ、それぞれ病気が癒されるほど信仰を持っていた。にもかかわらず、祭司のところに行く途中、癒されたことに気づいてイエスの元に帰ってきたのはたった1人だけであったということである。しかもこの患者は当時イスラエル人と犬猿の仲であったサマリヤ人であった。この記事は、やがて福音が異邦人(外国人)にも伝わり、救われる者が出る予表となっている。
【20~21節】 神の国の到来についての問答
20節・21節はイエスとパリサイ人の問答が記されている。当時ローマの圧制に苦しんでいたイスラエルの人々は、やがて救世主が出現し、「神の国」が建国されることを待ち望んでいた。しかし、イエスは21節に於いて、「神の国」とは可視的に、そして地上の国としてくるのではないと明言する。
21節後半の「神の国は、あなたがたのただ中にある」という言葉の解釈はいくつかあって定かではないが、いずれにせよイエスの出現により、「神の国」はすでに到来しているのである。
【22~37節】 イエスの再臨
22~37節は「イエスの再臨」について述べられ、「神の国の到来」とは区別される。「人の子の日」、「人の子の現れる日」と書かれているのは「イエスの再臨」のことである。その訪れは「天の端から天の端へと輝くように」すべての人に表され、ノアの箱舟、ロトの時代と同じように突然人々の日常に訪れるのである。
【金曜】 ルカ福音書18章1~17節
祈りとは信仰の行為である。神を信じない者にとって、祈りとは全く無意味なものである。1節にある「いつでも祈るべきであり・・・」というのは当時の「絶えざる祈りで神を煩わせるな」というイスラエル人の常識からは外れている画期的な勧めである。
話に出てくる「人を人とも思わない裁判官」はイスラエル人の裁判官ではない。イスラエル人同志の揉め事は大抵、長老のところに持ち込まれた。もし調停がなされる場合でも、普通3人裁判官が立てられることになっていた。当時の裁判では、賄賂などによって正しい裁きが曲げられることがしばしばあったようだ。この裁判官もそうした不正な裁判官の1人であろう。
神は、このような酷い裁判官のように、人々が何度も訴えるまで、裁きをつけてくださらない方ではない。むしろ神を愛するものに、いつも耳を傾けておられる方である。
8節、イエスが「地上に見られるだろうか」と懸念しておられるのは、そうした神の公正な裁きを信じる信仰、また失望せずに絶えず祈り続ける信仰のことである。
9節からは自己義認をしていた人々に対してイエスが話された例えである。ここに出てくるパリサイ人は、他人を裁き、行いによって自分は義人であると神の前に自己義認をしている。彼には自分の本当の姿が見えていないのである。一方、パリサイ人の祈りに出てくる、ゆする者、不正なものの代表である収税人は自分の本当の姿を見つめ、神の前にあわれみを請う。
14節、結果は逆転する。何が2人を分けたのか。それは自分を正しいとする高慢な心と、神のあわれみを求めるへりくだった心である。
15節からはイエスと幼子についての記事である。17節の「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません」とは子どもじみた態度を取れということではない。そうではなく子どものように平然と恵みを受け取れる素直な態度を持つということである。
【土曜】 ルカ福音書18章18~43節
【18~30節】 金持ちの役人とイエスの問答
最初の役人とイエスの問答は、一見すると、金持ちが神の国に入ることはできないとか、財産を捨てなければ救われないという意味にとってしまいそうである。しかしそうではない。注意深く役人の言動を探る時にイエスが彼のなかに何を見ていたのかが見えてくる。彼の目的は神に従うこと、神の御前に正しく生きることではなく、永遠の命であった。彼はその手立てを知っているであろうイエスに対し、当時でも普通は使われない「尊い」というおべっかを使う。彼のなかに利己心が見え隠れする。また彼はイエスが挙げた戒めについても自分は守っていると言い切る。彼は自分は正しい人だと信じて疑わない。
これを聞いてイエスは彼の欠けている点を指摘する。イエスは全ての財産を捨て、貧しい人に施さなければ救われないという意味で言われたのか。確かにこの世の富は、人の救いに大きな障害となる。しかしここで考えるべきは、自分は律法を守っていると信じて疑わないこの役人が「隣人をあなた自身のように愛せよ」という律法の根幹を守っていない点である。以前にも書いたが、この世の富は蓄え、自分のために用いるものではなく、神の御心のために用いられるべき物なのである。
25節、イエスは金持ちが神の国に入る困難を告げる。それに対して人々は「それでは、だれが救われることができるでしょう」と問いかける。彼らは金持ちが神の国に入るのがそれほど困難であるならば、一般の民衆はなおさら入れないと考えていたのであろうか。恐らくそれよりも、まだ何か人の側にある善行や努力で神の国に入れると考えていたのであろう。イエスは救いの根本的な理解を明らかにする。「人にはできないことが、神にはできるのです」
28節、ペテロは自分たちは全て捨てて従って来たと主張する。これに対し、イエスはこの世でも、神の国においても報いがあることを保証する。見逃してはならないのは29節に「神の国のために」とイエスが言及している点である。
【31~34節】 十字架の予告
31~33節、イエスがこれから自分が十字架にかけられ、復活することを明言する。しかし弟子たちは未だ目の前にある現実と、自分たちがイエスの上に勝手に抱いている願望とのずれを受け入れようとはしなかった。彼らは相変わらず、イエスが革命を起こし、ローマの圧政からイスラエルを救い、神の国を建国するという類の期待を抱いていたのである。イエスの言葉を無視し、聖書の預言を理解しない彼らは、まさに盲目であったのである。
【35~43節】 盲人の癒し
35~43節にかけて盲人の癒しが語られる。一読すればイエスが盲人を癒された奇蹟の記事である。この記事に、この福音書の著書であるルカが込めた意図はなんであるのか。金持ちの役人はパリサイ人、律法学者のように自己義認し、自分の本当の姿が見えていなかった。霊的な盲目であったのだ。弟子たちもまたイエスの行く道が見えていなかった。「見えるようになる」というのはルカが好んで使う神学的主題である。この盲人の記事は明らかにこの神学的主題を意識している。
38節でイエスに希望をかけた盲人は叫びだす。人々がたしなめたがその叫び声はますます大きくなった。39節の「叫ぶ」という言葉は、38節の「叫ぶ」とは異なる単語が使われている。38節の「叫ぶ」はいわば普通の大声で呼ばわっているという意味である。しかし39節の「叫ぶ」はカラスの叫び声から作られた擬声語で、本能的な叫び、意味のわからない動物的な叫びを意味する。イエスは彼を呼び、彼に尋ねる「わたしに何をしてほしいのか」「主よ。目が見えるようになることです」
盲人の目は開かれ、彼はイエスについて行った。この盲人のしたことはなんであろう。彼は必死にイエスを求めたのである。この悲痛とも言える叫び声は彼の信仰の叫び声であった。そして彼は見えるようになったのである。この魂から搾り出されるような真剣な叫びは、あの金持ちの役人にも、十二弟子たちにも見られないものである。
参考文献
- バークレー/柳生望:訳『ルカの福音書(聖書注解シリーズ4)』(ヨルダン社、1970年)
- 熊谷徹「ルカの福音書」『実用聖書注解』(いのちのことば社、1995年)
- 榊原康夫「ルカの福音書」『新聖書注解・新約1』(いのちのことば社、1973年)
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