新約 第15週
ルカ福音書11章1節~14章11節

日本同盟基督教団 長野福音教会 牧師
高橋 宣広

2007年4月13日 初版

【日曜】 ルカ福音書11章1~28節

【1~13節】 祈りの教科書

 弟子たちはイエス様が祈る姿を見ていました。そして、このイエス様の祈りに倣いたいと真剣に願いました。私たちは、祈りがマンネリ化・形式化しやすい存在です。どう祈ったら良いのか分からなくなる時もあります。祈れない、いや祈りたくないこともあるでしょう。
 しかし神様は、私たちに祈るようにと求めておられます。祈りは、神様との親密な交わりであり、私たちが生きていくために必要欠くべからざるものだからです。私たちも弟子たちと同じように、「主よ・・・祈りを教えてください」(1節)と、願い求めていきましょう。

 弟子たちの願い求めに対して、イエス様は次の3つのことを教えておられます。

  1. 祈りの具体的な内容としての主の祈り(2~4節)
    私たちは、主から与えられた主の祈りをさらに深く理解し、この祈りを日々の祈りとしていきたいと願わされます。
  2. 祈る私たちの姿勢(5~10節)
    信仰をもって、主に期待して積極的に祈っていきましょう。このたとえでは、旅をしてきた友人のために、「パン(=愛)を貸してくれ」としつこく願い求めています。私たちの内側には友人・隣人に食べさせてあげるパン(=愛)が無いかもしれません。だからこそ、それを与えてくださる神様に願い求めにいくのです。
  3. 祈りに答えてくださる神様の愛(11~13節)
    私たちの祈りに応えてくださる神様は、父なるお方です。私たちを神の子とし、大いなる愛をもって、絶えず私たちに最善をなしてくださいます。この父なる神様に、私たちは祈り願うことが許されています。

【14~28節】 心を神の言葉で満たしていただく

 イエス様が悪霊を追い出されるのを目撃した群集は、様々な反応をしました。大部分は、驚きの反応でしたが、イエス様の業に対して、疑いをもって否定的な反応を示す人たちもいました。「悪霊のかしらベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのだろう」(15節)と難癖をつける人たち、または、本当に神の子なら、「天から来たという証拠の奇蹟を見せてみろ」(14節)という人たちまでいました。イエス様は、このような敵対感情むき出しの者たちの心を見抜き、彼らの議論を封じられます。そして、彼らのことを「わたしの味方でない者、わたしに逆らう者、わたしとともに集めない者、散らす者」(23節)と呼ばれます。
 それから、ひとつのたとえ(24~26節)を通して、人の心は、常に神様から与えられる良きもので満たされていないと、すぐに悪しき者に支配されてしまうと警告なさったのです。神様から与えられる良きものとは、13節に語られています「祈りを通して与えられる、私たちの助け手であり、導き手である聖霊」と、28節に語られています「神のことば」でありましょう。
 今日も祈り、御霊と御言葉に導かれながら歩んでまいりましょう。

【月曜】 ルカ福音書11章29~54節

 押し寄せてきた群衆に向かって、イエス様は「この時代は悪い時代です」(29節)と語られます。それは、多くの人々の心の目が曇り、光なるキリストを正しく、澄んだ目で見ることができないからです。心の目が曇った人々は、キリストに対して興味本位の、あるいは批判的な対応をします。彼らは、目に見えるしるしを要求するのです。しかし、イエス様は、「ヨナが3日3晩、魚の腹にいた後、外に吐き出されたように、私も死に、そして3日目によみがえる」、これだけが、あなた方に与えられる「しるし」なのだと語ります。
 イエス様は、「ここにソロモンの知恵よりもまさった知恵を持つ者がいる、またニネベを悔い改めへと導いたヨナよりもまさった者がいる、それなのに、なぜあなた方は、この私の知恵、この私の力に気づかないのか」と嘆いておられます。「南の女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たではないか!またニネベの人々はヨナの説教を聞いて、悔い改めたではないか!それなのになぜ、あなた方は心の目を曇らせ、心をかたくなにしているのか」と責められるのです。

 その後、当時の宗教指導者であったパリサイ人と律法の専門家が、イエス様のもとにやって来ます。イエス様の失言・失態をあばき出し、イエス様をおとしめるためでした。パリサイ人や律法の専門家は、十戒や律法を研究していく中で、たくさんの戒めを作っていました。そして、それらを人々にも教えていました。食事の前のきよめの洗いも、その典型例でした。彼らは、そうした戒めを守ることができない人々を、「罪人だ!地の民だ!」と見下していました。地の民とは、天国に行くことができない者という意味です。
 イエス様は、こうした宗教家たちに偽善があることを見抜かれ、彼らを厳しく非難されます。外側(形式)は立派に見せることができても、内側(心)は強奪と邪悪でいっぱいだと言われます。彼らは、「公義と神への愛」(42節)をなおざりにしていたのです。
 イエス様は立て続けに、彼らを痛烈に非難していますが、それは、パリサイ人・律法学者の目が暗い状態にあり、神様の真理を全く悟っていないからです。そして彼らの父祖たちが、神様から遣わされた預言者たちを殺してきたように、彼らもまことの預言者であるキリストをやがて殺すからです。しかし、彼らは「自分たちだけが神の知識のかぎを握っている」と自負していました。その傲慢さに対して、主イエスは怒り、嘆いておられるのです。

【火曜】 ルカ福音書12章1~21節

【1~3節】 偽善者を警戒せよ

 イエス様は弟子たちに対して、「パリサイ人のパン種」すなわち彼らの偽善に気をつけなさいと語られます。「あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか」(第一コリント5章6節)とありますように、偽善の悪の感染力は非常に強いからです。
 この「偽善」という言葉、ギリシャ語では元々「演技をする」という意味があります。舞台では他の人を装って、観客を相手にして振る舞います。パリサイ人は、そのような者たちでした。会堂で、人からよく見える上席を好んだり、人の集まる市場で、あいさつされることを好みました。つまり、彼らは神様を信じていたのではなく、人を相手にして生きていたのです。これが偽善です。
 しかし、どんなに巧妙に隠されている偽善であったとしても、神様の御前では、すべてが明らかにされます。だから弟子たちに対して、パリサイ人の偽善に倣ってはならない、裏表のない者であれと語られます。

【4~12節】 人を恐れるな

 偽善者は人を恐れ、神様に対する恐れがありませんが、イエス様は弟子たちに、それとは正反対であれと教えられます。人がいかにキリスト者を迫害しようとも、からだを殺す以上のことはできませんが、神様は罪人をゲヘナに投げ込む権威を持っておられます。だから神様を恐れなさいと言うのです。
 しかし、この権威ある神様はまた慈悲深い父であられます。5羽でわずか2アサリオン(1デナリを1万円とすると・・・2アサリオン=1,250円)のすずめ1羽であっても、お忘れになることはありません。愛されている私たち(=神の子)については、なおさらです。私たちの頭の毛さえも、みな数えられています。このようなねんごろな神様のみ守りがあるのだから、私たちは大胆に信仰を言い表すことができ、誰の前にあったとしても信仰の証しをすることができるのです。

【13~21節】 貪欲を警戒せよ

 偽善と人を恐れることへの警告に続いて、貪欲についての警告が語られます。貪欲は金銭や物質から幸福を得ようとして、必要以上に金銭や物質に執着し、それらを追及する生き方です。金銭や物質にしか目が行きませんので、神様をも隣人をも省みない自己中心な生き方になります。「その人のいのちは財産にあるのではないからです」(15節)。この真理を忘れてしまう時、私たちは貪欲に陥ってしまうのです。
 遺産の分配の方法に不平を抱いて、イエス様に訴えに来た人は、金銭と物質以上のことに心が行かなかったため、兄弟げんかをしなければなりませんでした。彼は、「自分のためにたくわえる者」(21節)であり、このたとえの中の金持ちのように愚かな者でした。この世でどんなに蓄えたとしても、死んでしまった後では、その富は何の意味もたらしません。自らが死すべき存在であることをいつも覚え、富ではなく、神に目を向けていきなさい、イエス様はそのように教えておられます。

【水曜】 ルカ福音書12章22~40節

【22~34節】 心配してはいけない

 子どもが、愛情あふれる裕福な親のもとにあって、「ぼくは今日、食事にありつけるだろうか?」などと心配しないように、神の子たちも、すべてを神様に任せて、安心して歩んでいくことができるのだと語られています。私たちは、自らの衣食住や将来のことを心配してしまいます。必要以上に心配し、思い煩ってしまいます。これは、神様が私たちに最善をなしてくださる、私たちの必要を満たしてくださると、神様を100%、信頼しきれないからです。私たちには御国が与えられると約束されています(32節)。御国とは、神様のご支配です。神様は私たちを確かに支配し、支え、守り、導いてくださっています。富を頼みとせずに、神様だけを頼みとする歩みをしていきましょう。

【35~40節】 目をさまして主を待つこと

 イエス様は再び、私たちの地に来られます。それが再臨です。再臨には2つの目的があります。「救いの完成」と「裁きの完成」です。キリストによる救いにあずかっている者にとっては、再臨は救いの完成です。私たちは、「いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが」(第一ペテロ1章6節)、「イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります」(第一ペテロ1章7節)と約束されています。
 この箇所には2つのたとえ話が記されていますが、どちらも再臨における救いと裁きの完成を語っています。1つ目は、婚礼に出かけた主人の帰りを待つしもべの話、2つ目は、強盗の侵入を防ぐ家の主人の話です。私たちは、このたとえから、主の再臨のために備えをしておかなければならいことを教えられます。「目をさましていなさい」と語られています。備えていない者にとっては、主の再臨は盗人のように思いがけない時に来るものであり、滅びにつながるものなのです。
 しかし備えをしている者、主を信じ、主の再臨を待ち望んでいる者にとっては、再臨は救いであり、喜びです。聖書には、「帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます」(37節)と約束されています。主イエス様ご自身が、自ら、私たちに給仕してくださるというのです。驚くべき事実です。最後の晩餐で主が、弟子たちにパンとぶどう酒を分け与えてくださったように、私たちも天国で、主の晩餐にあずかることが約束されています。この再臨の希望、再臨の約束に堅く立って、歩んでまいりましょう。

【木曜】 ルカ福音書12章41~59節

【41~48節】 忠実に奉仕して主を待つこと

 この3つ目のたとえも、昨日の2つのたとえと同様に、主の再臨における救いと滅びの完成を語っています。特にこの3つ目のたとえは、ペテロの問いに対しての答えですので、主の弟子が主をどのように待つべきかが明らかにされています。
 それは弟子としての生き方です。絶えず主にのみ仕え、主のために奉仕をして、主を待つことです。このたとえの悪いしもべは、主人が帰って来ることを頭では知っていましたが、主人に対する恐れが全くありませんでしたので、「主人の帰りはまだだ」とたかをくくり、その結果、任された下男・下女に対して愛の無い行為をします。また自分に対しては甘く、自制を欠く不道徳な行為をしています。私たちも、主の再臨を待つ思いが希薄になったり、主への恐れがなくなる時に、この悪いしもべのような生き方をしてしまうのではないでしょうか?

【49~59節】 地に火を投げ込むために来た

 この箇所は2つの内容に分けられます。前半(49~53節)には弟子たちに対する言葉、後半(54~59節)には群集を含めた人間全体に向けての教えです。
 前半の弟子たちに対する教えには、厳しい言葉が語られています。火は聖書では裁きや訓練を表す象徴として用いられてきました。イエス様は、この神の裁きを私たちに代わって負ってくださいました。このメッセージ(=福音)を弟子たちは語り続けていかなければなりません。もちろんキリスト者は、自らの家族が主にあって祝され、愛と信頼でつながれることを祈り求めます。しかし、主の救いを宣べ伝えることにおいては、たとえ家族が分裂してしまうことがあったとしても、そのメッセージを歪めてはいけないし、この福音から足を踏み外してはいけないのです。
 最後に裁判のたとえが語られています。ある人が裁判にかけられて、役人のところに連れて行かれます。彼を待ち受けているのは有罪判決です。ひとたび判決が下されたら、もう手遅れになります。
 イエス様のメッセージは「罪人を何とかして救いたい」との願いです。しかし、それを聞いていたにもかかわらず、その人が無視したとしたら、主の救いはその人には及びません。神様が与えてくださる救いを今、感謝して受け取っていきましょう。

【金曜】 ルカ福音書13章1~21節

 「エルサレム巡礼の祭りに乗じて不穏な行動に走り、総督ピラトの怒りを買って虐殺されたガリラヤ人がいましたよ!」
 そうイエス様に報告する人たちがいました。彼らは、これを神の裁きだと考えました。彼らは自分たちよりもはるかに罪深い。だから、このような目に遭ったのだと。
 イエス様は、この報告者たちの誤りを指摘するため、昨今起こった別の事件を取り上げます。シロアムの塔が崩壊した事件です。「その時、犠牲になった18人は、誰よりも罪深かったから、押しつぶされてしまったのではない。あなた方も含めて、すべての人が神様の前では罪深いのだ。だから悔い改めなければ、自分は義人だと傲慢になっているあなた方は、必ず滅ぼされますよ!」 そうイエス様は、警告を発しておられるのではないでしょうか?

 そして、一つのたとえ話を語られます。ぶどう園に植えられたいちじくの木の話です。ぶどう園にいちじくの木が植えられることは、当時、珍しいことではありませんでした。この園の所有者である主人は、いちじくの収穫の時期にやって来ますが、実を得られないまま3年経ったので、この木を切り倒そうと考えます。聖書では「3」は完全数とされていますから、3年待ったというのは、充分な時を経たことを意味しています。
 いちじくの木は根を張るので、主人は、園の番人に「これを切り倒してしまいなさい」と迫ります。イスラエルには、耕地となる土地は限られていましたので、実も付けないいちじくを放置しておくことは無駄なことだったからです。

 私たちは、まさにこのいちじくの木のようです。悔い改めて、悔い改めにふさわしい実を結びたい。御霊に導かれて、御霊の実を結ぶ者へと変えられていきたい。そう願いつつも、依然として古い自分が存在していること、つまり自分自身が相変わらず罪の支配下に置かれていることに気づかされるのではないでしょうか?

 ところが園の番人は、もう1年の猶予を乞い、実がなるように努力してみますからと答えています。神様は、「切り倒してしまいなさい」と命じる厳しさを持っています。罪を罪として処罰されるお方です。私たち人間に、悔い改めを迫り、終わりの日に審判があることをお告げになっています。
 しかし同時に、神様は限りない愛のゆえに、赦しを持っていてくださるお方でもあります。忍耐し続けてくださる神様なのです。キリストは、「どうか、ことし1年そのままにしてやってください」と、私たち(=実を実らせない木)を愛し、憐れみ、忍耐を持って神様にとりなしてくださっています。

このキリストにどう応えて歩んでいくのか? 私たちは問われているのです。

【土曜】 ルカ福音書13章22節~14章11節

 「主よ。救われるものは少ないのですか?」(23節)とイエス様に問いかける人がいました。しかしこれは、主の目には無益な問いだと映りました。この問いを発した人の心の中には、おそらく「自分は救われるだろう!しかし、他の大多数の人たちは救われないに違いない」との傲慢さがあったと思われるからです。イエス様は、この問いに対して「努力して狭い門から入りなさい」と告げられます。

 私たちは、いつも他人のことをうわさの種にして、あれやこれやと語りたがります。けれども福音=主の救いの知らせは、いつも、「あなたはどうなのか」と問いかけてくるのです。
 私たちは主の憐れみによって、重い罪責から救い出されました。けれども私たちは利己的な思い、物欲、世間的名声、名誉欲などを背負ったままでは狭い門をくぐり抜けることができません。この世のもの=肉のもたらすものを、大切に握り締め、さらに、それらにより頼もうとしているのなら、深い意味での救いにはあずかりえないのです。

 誤解しないでいただきたいのですが、信仰によって義と認められること、神様からの一方的な恵みによって救われることは絶対的な真理です。しかし、その救いを受け取った後、私たちは何もせずに、安穏としていてはいけないということです。主の救いは、それを受けた人を懸命に努力させ、精進させるものなのです。神様は、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(申命記6章5節)と私たちに求めておられます。私たちの精一杯の生き方を、一生懸命な歩みを期待しておられるのです。また御言葉に、「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、 敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい」(第二ペテロ1章5~7節)と勧めています。

参考文献

  • 加藤常昭『加藤常昭説教全集9・ルカによる福音書2』(教文館、2004年)
  • 瀬尾要造『ルカの福音書を語る』(福音文書刊行会、2002年)
  • 松木祐三『主に従う者に与えられる祝福の道・ルカの福音書講解説教』(いのちのことば社、2006年)
  • 米田豊『新約聖書講解』(いのちのことば社、1963年)
  • 熊谷徹「ルカの福音書」『実用聖書注解』(いのちのことば社、1995年)
  • 船本弘毅『生きる道しるべ イエスの譬話』(河出書房新社、2001年)
  • F. B. マイヤー:原著/小畑進:編著『きょうの力』(いのちのことば社、1970年)