新約 第14週
ルカ福音書8章4節~10章42節

日本同盟基督教団 松本中央教会 牧師
原山 伊作

2007年3月30日 初版

【日曜】 ルカ福音書8章4~21節

 普段忙しくしてなかなか聖書を読むことができなかったり、また読んでいてもただ無意識に読んでしまいがちな面もあると思いますが、みことばを注意深く読むこと、また「主よ、お語りください」という祈りと共なるみことばに「聞き入る」姿勢がまた大切なのではないでしょうか。

 主は、主の母・兄弟というのは「神のことばを聞いて行なう人たちです」(21節)ということを言われましたが、これは、別に実の母親のマリヤや兄弟たちに対してあまりにも冷たい、ということではなくて、みことばをよく聞いて、それを実行する人々こそ主の家族・兄弟姉妹であるということだと思いますが、先ずよく聞くことが大切、「聞き方に注意しなさい」(18節)とも主は言われました。

 有名な、「種が蒔かれた地面のたとえ」の箇所ですが、なぜ群集に対して主が「たとえ」を用いて話されたのかといいますと、別に群集心理ではないのですが、群集の「興味本位だけであまりよく聞いていない態度」こそがまた問題なのではないでしょうか。とにかくたとえで話されるのは、「彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです」(10節)と主は言われました。

 クリスチャンになっても、みことばの蓄えが少ないまま、あるいは長い信仰生活の経験があっても聖書を読むことを怠っていると、今回の有名な「たとえ」で主が言われているように、信仰が様々な試練や人間的弱さや誘惑の中で「踏みつけられ」(5節)たり、「枯れて」しまったり(6節)、「押しふさ」がれてしまう(7節)という経験は誰にでもあることだと思いますが、「正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです」(15節)と主は言われました。
 是非、「正しい、良い心でみことばを聞いて」主なる神様のご命令・教え・語りかけをいただき、それを行っていく、「みことばの実を結ぶ者」へと更に導かれますように。

【月曜】 ルカ福音書8章22~56節

 有名な「あらしを静める」奇蹟、また「ゲラサでの悪霊につかれた人をいやす、豚の群れの騒動」の奇蹟、また「ヤイロの娘を生かし、長血の女をいやす」奇蹟の箇所です。
 昔ある人から「お前は聖書の奇蹟を信じるのか?」と聞かれたことがありました。その時は何も答えられなかったのですが、今なら「イエス様は神様だから信じるよ」と答えます。主イエス様は、はじめから神とともにおられたお方であり、「すべてのものは、この方によって造られた」(ヨハネ1章3節)、人となられた子なる神様です。

 この主の御名によって、神様の最善の導きを祈り続けることがまた大切ではないでしょうか。祈り続けていると、いつの間にか教会の会堂建設用の信じられないような良い条件の土地が与えられたり、また新来者の方々が送られてきたり、またある方々の術後の回復が予想以上に早かったりということが最近でもありましたけれども、信じて主の最善の導きを祈り続けることの大切さであります。

 主は今回「あなたがたの信仰はどこにあるのです」(25節)と言われ、また「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです」(48節)と言われ、また「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります」(50節)と言われましたけれども、主なる神様の最善の導きを信じ祈り続けていくことができますように。そして「神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか」(39節)を証しさせていただくことができますように。

【火曜】 ルカ福音書9章1~22節

 「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」(20節)と主は弟子たちに問われました。「ナザレのイエスあるいはイエス・キリストをどう捉えるか」ということは世界中誰にでも向けられるべき問いであると思います。ある人は「クレイジー」だとか、またある人は「最悪のペテン師」とか言われているのを耳にしたり目にしたことがありますが、ペテロは「神のキリストです」と主に対して答えました。

 イエス・キリストをどのように答えるか、これは人生の中で最も大切な質問であるともよく言われます。主イエスは「神の救い主・キリスト」であり、永遠のはじめから神とともにおられたお方ですが、今回「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです」(22節)と教えられたように、私たちの罪と死の身代わりの救いである十字架の死と復活を成し遂げられた人となられた子なる神・神の御子であり、また弟子たちに「悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威をお授けになった」(1節)お方であり、さらに「五千人に食物を与えられた」(10~17節)お方です。信じる者たちと今もともにいてくださることを約束しておられ、またやがて御心のときに救いと裁きのためにこの世に再臨されることを約束しておられる主イエス・キリストです。

 主は弟子たちに力と権威を授けて彼らを宣教に遣わされましたが、私たちも同じ主のみことばを宣べ伝えていく働きに、それぞれの場で遣わされています。イエス・キリストを「神のキリストです」と証しすることができますように。

【水曜】 ルカ福音書9章23~43節

 「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう」(41節)と主は嘆かれました。私たちも今の変わらないような曲がった世に対して、同じ嘆きを叫んでしまいたくなるときはあると思いますし、また疲労落胆があると思います。しかし大きな励ましであるのは、今回の「主の変貌の場面」の記事ではないでしょうか。

 主はご自身の「苦難と死とよみがえりの予告」(22節)という、弟子たちのよくわからない(45節)、ある意味ショッキングなことを教えられた後、今度は弱い弟子たちへの励ましのためにも、ご自身の本来の神とともにおられたときの栄光のお姿を少しの間でも弟子たちに垣間見させてくださったのだ、とも言われております。主の本来のご威光というものは、今回のように「御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた」(29節)ような偉大なお姿なのです。また、「雲がわき起こって・・・包まれ」て(34節)、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」(35節)という声が聞こえました。

 主に従うということは「日々自分の十字架を負う」(23節)というある意味困難な、信仰のこの世の旅路ではありますが、しかし私たちの主の本来の偉大な栄光に輝くそのお姿を忘れることなく、また「自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来」られる(26節)主の再臨を祈り願うものでありたいと思わされます。「主と主のことばとを恥」と思うことのない(26節)みことばの証し人・伝達者とさせていただけますように。

【木曜】 ルカ福音書9章37~62節

 実に厳しいみことばです。主はご自身に従ってこようとする者が先ず自分の父を葬ることを主に願ったのに対して、「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい」(60節)と言われました。また別の人、一度家の者にいとまごいをしに帰ることを主に願った人に対しても、「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません」(62節)と言われました。

 有名な「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」(58節)のみことばの箇所です。私たちも様々な課題に取り組んでいく、また教会に仕えていく、また宣教の働きのをしていくうえで、「いまに人々の手に渡される」(44節)ためにエルサレムに向けて「御顔をまっすぐ向けられ」ていた(51節・53節)主のお姿を覚え、また倣って、それぞれの直面している働きや課題に対して甘えることなくまっすぐに取り組んでいく覚悟・気構え・信仰の姿勢が必要です。
 「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません」(62節)
 「あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい」(60節)

【金曜】 ルカ福音書10章1~20節

 狼の中に送り出された子羊のよう(3節)な厳しい状況のなかで証しや伝道をする機会もあります。いろんなことを話したり、また主のみことばを精一杯伝えるものですが、しかしバカにされたり全く相手にされなかったりということはあると思います。

 「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者であり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒む者です」(16節)との主のみことばがありますので、聞かない人やひどいことを言う人々がいても恐れずに次のことを言うことができるのではないでしょうか。「私たちは足についたこの町のちりも、あなたがたにぬぐい捨てて行きます。しかし、神の国が近づいたことは承知していなさい」(11節)

 ひるまずに主のみことばを語ることができますように。また、伝道する際に次のみことばも覚えましょう。
 「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」(2節)
 「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」(20節)

【土曜】 ルカ福音書10章21~42節

 「あわれみ」というものは、やはり人間関係の中に必要なものであり、またすばらしいものであると思います。今回は、もはや説明の必要ないほどに有名な「よきサマリヤ人」のたとえです。私たちも、困っている人の隣人となり、そのような機会があれば、祭司やレビ人のように見て見ぬふりをするのではなくて、困っている人にあわれみをかけて愛していくことを実行することができますように。

 主は今日の箇所で「・・・実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」(28節)と言われ、「あなたも行って同じようにしなさい」(37節)と、「実行すること」の大切さを言われています。精一杯に主なる神を愛し、また隣人を愛することを実行していくためにも、先ず聖書のみことばの教え・ご命令を確認していくことが大切だと思います。そのためにも先ずマリヤのように「みことばに聞き入る」(39節)幼子(21節)のような信仰の姿勢が大切であり、それこそが「どうしても必要なわずかなこと、一つだけのこと」(42節)なのではないでしょうか。聖書のみことばに聞き入り、またそれを実行することができますように。