新約 第13週
ルカ福音書5章1節~8章3節

イムマヌエル綜合伝道団 宇都宮キリスト教会 教会員
山田 謙嗣

2009年11月2日 初版

【日曜】 ルカ福音書5章1~26節

【1~11節】

 イエス様の伝える「神のことば」に群集の関心は傾いていきました。マラキの時代以来、途絶えていた「神のことば」に人々は熱狂し、ゲネサレ湖へとイエス様に押し寄せてきます。ペテロが漁夫をしていた湖はガリラヤ湖と呼ばれることが一般的ですが、ここではゲネサレ湖と紹介されています。
 ペテロは4章38節から弟子入りしていると考えられるので、なじみの「先生」のお願いを快く承諾したことでしょう。そして、みことばの恵みをイエス様のすぐそばであずかっていたことと思います。しかし、「先生」はペテロにだけに、さらにみとこばへの応答を求められました。求められたのは、さらに深みに漕ぎ出すことでした。ペテロは培ってきた漁師としての経験があるにもかかわらず、そのことばに従いました。人の手の業である誇りや経験、人の努力の先にある主の御心があります。
 主への献身、みことばへの応答は、何度もくり返され、献身も日々新しくされます。そして、今も信仰の深みへと漕ぎ出すように命じられています。

【12~15節】

 らい病人が求めたものは、「きよさ」でした。罪や汚れを感じている人であればこそ、内省的にきよくなりたい、と思うものでしょう。遠慮がちにひれ伏し、「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます」と申し出たのでした。そんな病める人へ、イエス様はわざわざ手を差し伸べて彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われて直ちに癒されました。
 イエス様のきよさに対して気おくれするような汚れのなかにあったとしても、あわれみをしめして手を差し伸べてくださるお方です。そして、イエス様の心は私たちに伝染するように拡がります。

【16~26節】

 情熱をもった人々が、大ぜいの人をかき分けて屋根の瓦をはがし、友人を寝床ごとイエス様の前につり降ろしました。イエス様はその信仰をみてよしとされ、そしてまず罪の赦しをお与えになりました。これを聞いた律法学者とパリサイ人たちが、罪の赦しの権威について不満をいだくのです。
 イエス様は彼らに問いました。「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと、どちらがやさしいか。言うだけならば、「罪が赦された」というほうが簡単です。罪の赦しは目に見えませんから。しかし、イエス様の目は、目に見えない、連れてきた友人たちの信仰、中風の人の内面にある罪、律法学者やパリサイ人たちの心の中を見ておられました。神様の目からみれば罪の赦しがどんなにたいへんなことであったでしょうか。
 みことばは、目には見えない私たちの心のなかを照らします。目に見える証しに急くことなく、まずは日々みことばに耳を傾け、悔い改めの結実を自分のものとし、それがゆえに証人として用いられますように。

【月曜】 ルカ福音書5章27節~6章5節

【27~32節】

 収税所のレビは、マタイです。後に十二弟子の一人となる弟子マタイが召命を受けました。レビは、召しを受けた後に自分でお別れパーティーを開いています。「わたしについてきなさい」との召命に従ったレビは、収税という仕事では得られなかった満たしのために転職しました。レビの招きに集まった友人や仲間は、どうやら飲み食いをしてあたたかく送り出そうとしています。こうした生活の延長にある伝道をイエス様は受け入れられました。
 彼らを受け入れられなかったのはパリサイ人や律法学者たちです。取税人や罪人たちといっしょに飲み食いをしなかった彼らは、汚れると考えていました。よもや、彼らの交わりのなかで神様が証しされているとは思いもしなかったのです。
 私たちが必要としているのは、日々の生活のなかで生きたみことばです。証しや伝道は、そのために特別なことをしなくてはいけないというものではありません。生活に接している、職場の人々、家族の一人、友人の語らいのなかこそ、証しする機会です。みことばを必要としている同僚、家族、友人を覚えて、交わりのなかでイエス様を証できるよう、整えられたいですね。

【33~39節】

 律法学者やパリサイ人の不満が募るにつれて、イエス様はご自分がどのようなかたちで死ぬか、ということをすこしづつ語り始められました。レビの家でなされたパーティーにおいて、断食というわかりやすい宗教的敬虔を持ち出して、ヨハネの弟子たちと比較して不敬虔さを暗に指摘するのです。
 これに対してイエス様は、形骸化していた宗教の様式から新しい喜びの生活様式を強調されました。宗教の儀式や伝統はイエス様が共におられる喜びが中心とならなければ意味がありません。このときは彼らに、「やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します」と、イエス様が十字架にかけられたとき、弟子たちが断食することを諭されました。
 パリサイ人の断食は、目に見える敬虔さを積むことでした。それは、もはや喜びや感謝から来るものではなく、形骸化されているものだったようです。しかしイエス様は、ご自分が共にいることの喜びが中心であることを教えられました。
 こうした新しい教えを入れるためには、心に「新しい皮袋」が必要であることを教えられます。形式的になりがちなデボーションや祈りを、「新しい皮袋」を用意して、祈り、感謝をささげたいです。

【6章1~5節】

 ユダヤでは収穫のとき、そのいくらかを旅人や貧民のために残しておくべき律法があり、穂を摘んで食べることは許されていました。しかし、パリサイ人たちは律法を自己流に解釈して煩雑な規則を設け、穂を摘むことは収穫と同じだから安息日を犯すことだとして咎めました。
 それに対してイエス様は、旧約聖書の民族的英雄であるダビデの生涯からわかりやすく説明します。安息日の律法に縛られるのではなく、いのちの大切さを忘れないように、と教えられました。
 もっともらしい話や教えが、私たちの周りにはたくさんあります。しかし、何が神様のみこころなのかをしっかりと捉えて歩ませていただきたく思わされます。

【火曜】 ルカ福音書6章6~26節

【6~11節】

 「論語読みの論語知らず」であってはいけません。文字だけを読み、憐れみの心を示さなかった律法学者たちに、イエス様は逆に、常識的な質問をされました。「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか」
 律法学者たちは初めからイエス様を訴える口実を見つけるためにイエス様をじっと見ていたのでした。みことばに聞くとき、また見るときに、固執する自我の目であたってはみことばの本質が見えなくなります。「文字は殺し、御霊は生かす」(第二コリント3章6節)のです。
 主のことばには力があります。「手を伸ばしなさい」という命令を信じた者には力ある働きがなされるのです。不平や不満を持つ人には力が与えられません。
 心の内側を照らしていただきましょう。

【12~16節】

 イエス様に従った人々は3グループに分けられます。大勢の人、多くの弟子たちの群れ、12人の使徒の3つです。
 そして、12人の使徒を任命するには夜どおしの祈りが必要だったようです。特に、この弟子のなかでいずれ裏切るであろうイスカリオテのユダの任命は試練であったことでしょう。しかし、イエス様はここでも神のみこころを遂行するために、祈りのなかで勝利されたのでした。
 祈り、示されるみこころは、自分にとって決して嬉しいものとは限りません。むしろ、嫌な決定をしなくてはいけないかもしれません。しかし、祈り、平安をいただけるまで祈りぬく姿をイエス様にみます。祈りぬける信仰をいただきたいものです。

【17~26節】

 イエス様のもとには大勢の人々が集まってきました。その人々へ語られる内容に注目してみます。「幸い」な人と「哀れ」な人についてお話されています。貧しい人や飢えている人が幸いであったり、富んでいる人や食べ飽きている人が哀れであったり、と逆説的なことを教えられました。イエス様は、この世の富に幸福を求めず、神の国に喜びを見出しなさい、と教えられました。
 神の国について、ルカは来世のこととしていません。「いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」(17章21節)。自分の内面が神に支配されていることを認めたとき、物質的に貧しく、肉体的に飢え、悲しみに泣いているときにでも幸いを見出します。
 みことばから得られる恵みをいただかなければ、物質的なものへと流れてしまいがちです。みことばからの源泉をくみ出せる者として整えられていきましょう。

【水曜】 ルカ福音書6章27~49節

【27~36節】

 「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい」との教えに対して、私たちは戸惑いを隠せません。私たちの価値観は、自分の味方であるか、それとも敵であるか、ということにおいて判断していると思うからです。処世術においては、自分の味方が、たとえ不利な状況になったとしても見捨てるべきではないとしても、決して、自分の敵に対して有利になるようなことを推奨する教えはありません。しかし、このときイエス様は、この教えを説いたのです。
 キリストの愛とは、自分の益、不利益さえも貫いて、神様の御栄光を求めるものでした。はたして、私たちにその覚悟があるのか、どうかが問われていると思わされます。しかし、これは敵を愛されたキリストの愛の模範を知るときに、聖霊によってなすことができます。
 積極的に人を愛することへと、私たちは導かれます。

【木曜】 ルカ福音書7章1~17節

【1~10節】

 百人隊長とは、ローマから遣わされた仕官でした。当時ユダヤはローマの属国で、ユダヤ人はローマ人を嫌い、ローマ人はユダヤ人を軽んじていましたが、この百人隊長はユダヤ人を愛し、そして会堂まで建てたりして、ユダヤ人から慕われていたようです。
 長老は、この人は「そうしていただく資格のある人」としますが、百人隊長自身は「その資格のない者です」と謙りました。イエス様はかつて、郷里の人々の不信仰に驚かれましたが(マルコ6章6節)、ここでは逆に異邦人の信仰に「驚かれ」ました。
 イエス様は、信頼をよせる者には距離を超越して御業をなさることのできるお方です。いまも、私たちの謙遜と信頼を待っておられることでしょう。

【11~17節】

 この奇跡を見て思い出すのは、同様の奇跡を行ったエリヤとエリシャでしょう。「大預言者」(16節)とのうわさが地方一帯に広まったのも、当然のことと言えるでしょう。
 ナインの女性になされたように、主は「かわいそうに」思い、近づいてこられる方でもあります。

【金曜】 ルカ福音書7章18~35節

【18~23節】

 獄中生活は、かくも苦しいものなのでしょう。バプテスマのヨハネは、弟子を遣わしてイエス様に「おいでになるはずの方」を確認しようとしました。どちらかというと、ヨハネは一般のユダヤ人のように、政治的メシヤを求めていたのでしょう。

【24~28節】

 イエス様の回答は、慰めに満ちたものでした。イエス様は、遣わされたヨハネの2人の弟子に、ただ「見たり聞いたりしたことを」報告するように語りました。
 イエス様はヨハネが質問したことを、おだやかに叱られたように思えます。しかし、すぐに「女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません」とほめ始められました。最高の栄誉を与えられたヨハネでしたが、驚くべきことに、神の国で一番小さいものでも彼よりもすぐれています。と結ばれるのです。
 すなわち、ヨハネまでは旧約に属するものであり、新約の恵みにあずかり、神の国に属するものとなった人の幸福や特権には及ばないものでした。
 キリストにより、神の子とされた恵みを覚えたいものです。

【29~35節】

 ヨハネの教えを聞いた民を見ていると、市場で婚礼ごっこや弔いごっこをして遊んでいた子どもたちを思い出したのでしょう。少女たちは少年たちと喧嘩をしていて、ヨハネの悔い改めの説教を好まず、彼を禁欲主義とよび、他の人々はイエス様を食道楽とののしりあっているように見えたのでした。

【土曜】 ルカ福音書7章36節~8章3節

 この物語は、われわれが自己満足にひたり、他の人々を等級に分けて非難しやすい誤りをただすものではないでしょうか。シモンにとってのこの女の等級は「罪人」でした。しかし、イエス様は、個々の人々をその状況と罪において見られます。つまり、イエス様はその人が何者であるか、という「人格」に関心を寄せたのです。
 イエス様のように、罪人であるけれど、救われ、贖われた神の子となりうる「人格」として人々を見、そして接していきたいと思います。

参考文献

  • 榊原康夫「ルカの福音書」『新聖書注解 新約1』いのちのことば社、1973年
  • 『ウェスレアン聖書注解 新約篇 第1巻』イムマヌエル綜合伝道団、1984年
  • 米田豊『新約聖書講解』いのちのことば社、1963年
  • ハンター/吉田信夫:訳『イエスの譬えの意味』新教出版社、1982年
  • ハンター/高柳伊三郎:訳/川島貞雄:訳『イエスの譬・その解釈』日本基督教団出版局、1962年
  • 西田价宏『ルカの福音書』イムマヌエル綜合伝道団出版局、2000年