新約第13週 【ルカ5章1節~8章3節】
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2007年3月23日 初版
日曜 【ルカ5章1~26節】
夜通し働いて徒労感のうちにあるだろう漁師たちに向かって、大工(マルコ6章3節)が口を出しました。「網をおろして魚をとりなさい」(4節)。血の気の多いのが漁師・・・と思いきや、「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」(5節)と素直に従います。そして・・・。
プロフェッショナルは、自分たちの仕事の流儀に関しては、何が人の業で、何がそれを超えた神業か、わかります。ペテロたちは知りました。主イエスの教え(3節)は、神のことば(1節)だったと!
「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」(8節)
ツァラアト病患者は来ました。当時のユダヤ社会で、ふれることすら汚れるとされていた彼らは、「私のような者から離れてください」(8節)どころか、「離れていけ」と宗教指導者たちに言われ続けた人でした。分をわきまえ、ひっそり息をひそめて生きるべき人が、「先生」と言われる人の前に出るには、どれほど躊躇したことでしょう。それでも、主イエスにお会いすることに人生のすべてをかけて、踏み出しました。そして、苦しくなるほどの心のうちから、しぼり出すように一言。
「私はけがれています、でも主よ、お心ひとつで・・・」
中風患者も来ました。彼にはよい友がいましたが、友たちはとんでもないことをしでかしました。屋根を壊した責任もさることながら、説教中の乱入者に、もし主イエスが気を害されたら、癒していただくどころでなかったでしょうに。それでも彼らは必死にお会いしようとして、行動に出ました。
「主は必ず癒してくださる」と信じて・・・。
彼らは主の前に伏しました。ペテロも(8節)、ツァラアト病患者も(12節)、中風患者も(25節)。心のうちには同じ思いを抱いて。「主よ。・・・私は、罪深い人間です」(8節)
そんな彼らに、主イエスはおっしゃいました。「友よ。あなたの罪は赦されました」(20節)
月曜 【ルカ5章27節~6章5節】
「レビ」(5章27節)は、マタイによる福音書の著者、十二弟子のマタイです(マタイ9章9~13節)。こうしてみると、ペテロをはじめ、主イエスの召し出された十二弟子は、罪人の集まりでした。医者を必要とするのは病人であるように、何もかも捨てて(5章28節・11節)主イエスについていくのは、赦された恵みに感謝せずにはおれない罪人たちでした。
パリサイ人・律法学者など宗教指導者たちは、自分たちが「医者」になっていました。断食や祈り、安息日などの戒律(※)を遵守することで、自分たちは義人である、少なくとも「罪人ども」(5章30節)ではない、と思っていました。そして、「医者」として他人を「診断」していたのです(5章30節・33節、6章2節)。
※ 穂を摘み手でもみ出すこと(6章1節)は労働とみなされ、安息日には禁じられていました。
しかし、人は「医者」ではありません。義と認めるのも、罪を裁くのも、神のみです。自分の行い(自分の基準)で義になろうとすることも、善行に生きていない(自分の義の基準に適さない)隣人を裁くことも、実は自分を神とすることです。罪の本質です(創世記3章5節)。
人はみな罪人です。神の聖さの前に立たされる時(その究極は最後の審判の時)、善行で罪を中和することなどできないことがはっきりわかります。そのように考えていくと、罪があるのが問題というより、罪を赦していただくために主イエスのところに来ないことこそ問題と言えます。
火曜 【ルカ6章6~26節】
17節~49節は「平地の説教」と言われます(17節に「山を下り」とあるので)。ただ内容は、マタイ5章~7章の「山上の説教」とよく似ています。主イエスの教えの核心は一貫して同じことから、似たような説教をいろいろなところでなさっていたのかもしれません。そのメッセージは、国を越え時代を超えて、今の私たちにも同じく語りかけます。
山上の説教の「八福の教え」(マタイ5章3~12節)に似た、4つの幸いと4つの哀れで、始まります。
- (a) 貧しい者(20節)、 (b) 富んでいるあなたがた(24節)
- (a) 飢えている者(21節)、 (b) 食べ飽きているあなたがた(25節)
- (a) 泣いている者(21節)、 (b) 笑っているあなたがた(25節)
- (a) あしざまにけなすとき(22節)、 (b) ほめられるとき(26節)
前者(a)と後者(b)は表裏です。両者が入れ替わることを恐れるから、後のために今、貧しく泣き悲しんで歩むべきなのでしょうか?なんだかそれでは、安息日には何もしてはならないとするパリサイ人たちの生き方(1~11節)に似てきませんか?違反しない“自分”を守ることに必死で、なぜ律法を守るのか(神を愛するため)という真意を見失う生き方に・・・。
聖書では、富や喜びは、神の祝福のあらわれとして随所に言及されています。でも、たとえ今貧しくても、「神が必ず祝福してくださる」と、聖書の約束を信じて、へりくだって待ち望む者に、神の慰めは必ずあることもまた、真理です。逆に、神の祝福を受けていても、富や力におごり、神の前にへりくだる(自分を神とせず、神を神とする)ことを忘れるとき、たちまち哀れな者となることを、主イエスは警告されたのだと思います。
富んでいても、貧しくても、どのようなときにも、心の王座を神に明け渡し、神のご支配にへりくだる人に、神の国は開かれています。
水曜 【ルカ6章27~49節】
「敵を愛しなさい」(27節・35節)
「私の敵とは誰ですか?」(10章29節参照)とか、「みんな味方だったら愛さなくてもよいですか?」と問うてみたりすることは、もちろんないと思います。「天の父」(36節)があわれみ深いように、敵味方という区別をせず、同じ唯一の神のかたちに造られた(創世記1章27節)、唯一の存在として、すべての一人一人を愛しなさい(※)、と語られます。
※ 神のかたちに造られたゆえに、一人一人高価で尊い(イザヤ43章4節)のです。米国独立宣言の精神を受け継いだ「個人の尊重」(日本国憲法13条)の源泉がここにあります。
その他にも、呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈り(28節)、さばくことなく(人を罪に定めることなく)、むしろ赦しなさい(37節)、と語られます。自分自身に罪があるのに(41~42節)、そもそも罪を裁く権威は神にしかないのに、人を裁こうとすることは、自分を神とすることに等しい。そのように思います。
さて、今日の箇所のことばは、どれも一つ一つ重たいです。にもかかわらず主イエスは、「わたしのことばを聞き、それを行なう人」(47節)になりなさい、それが確かな土台の上に人生を築くことだから、とおっしゃいます。人生のしめくくり、清算(最後の審判)の時に、立っていられるように。
「無理です」と、ことばの重さを知れば知るほど思うでしょう。当然です。これらはどれも、人によって結べる「実」(43~44節)ではないからです。しかし、主イエスを信じる者(主の十字架は自分の罪のためと信じ、罪赦された者)には、聖霊が与えられます。そして、その聖霊が結ばせてくださるから(ガラテヤ5章22~23節)、キリスト者は主イエスのことばに生きる者として歩めるのです。
木曜 【ルカ7章1~17節】
百人隊長とは、当時ユダヤを支配していたローマ帝国において栄誉ある職務(キャリア官僚)でした。しかもこの人は、神の民に善を施し、神の恵みを受ける「資格のある人です」(4節)と、長老たちも推す人でした。
けれど、百人隊長自身は、主イエスを家にお迎えする「資格」すら自分にはない(6節)と述べました。そこには、イエスを主と認める百人隊長の信仰がありました。確かに、家(城)にしもべを呼びつけるのは主人(王)であって、しもべが主人を家に呼びつける資格はありません。イエスを主と認めていたからこそ、彼にとっては家にお出でいただくなど、恐れ多いことだったのです。
と同時に、おことばさえいただければ、必ず癒される(成就する)とも信じていました。主イエスのことばが、すべて成就する神のことばであると信じる信仰。この世界が神のことばで造られたことを悟り(ヘブル11章3節、創世記1章)、主イエスのことばが、その天地創造の神のことばと同じであると信じる信仰だったのだと思います。
そのように考えると、百人隊長は、主イエスの権威を、ただ単に「偉大な主人」というのではなく、明確に「生ける神の御子キリスト(救い主)」として認め、その権威の下に恐れ、へりくだっていたとも考えられます。十二使徒の告白の前、主イエスの宣言の前にもかかわらず(マタイ16章15~21節)。だからこそ主イエスも驚かれたのかもしれません(9節)。
神のかたちに造られた人間(創世記1章27節)は、神と同じくことばを用います。しかし、人のことばは氾濫し、天地を震わす力もありません。エデンの「罪」とともに、神のようにことばを用いることも、できなくなってしまったのかもしれません。
しかし、主イエスのことばは、百人隊長の信じたとおりでした(10節)。人にいのちをあたえるものでした(13~15節)。福音書に描かれた癒しの奇蹟の真髄は、「ことば」にこそあると知ります。
金曜 【ルカ7章18~35節】
「神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています」(28節)とは、どういう意味でしょう。
「女から生まれた者」(28節)ということばで思い出されるのは、ヨハネ3章です。ニコデモという宗教指導者が、神の国(天国)に入る者について、主イエスと対話する箇所です。そこで主イエスが「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハネ3章3節)とおっしゃったのに対し、ニコデモは普通に誰もが考えるように「どのようにして?もう一度胎内に入るのですか?」と答えます。
「もう一度胎内に」とは、「女から生まれた者」の延長線上、つまりその「中」(28節)で語るものです。しかし主イエスは、パラダイム・シフト、すなわち「目を天に転じて考えてごらん」とおっしゃったのだと思います。
人は天国に入ろうと、一生懸命善行をします。少なくともパリサイ人など当時の宗教指導者たちはそうでした。しかし、真に、天の神を仰ぎ見、その聖さを知るとき、神から離れ反逆する己の罪があぶりだされます。どんなに善行を積んでも、それで罪が帳消しになるなど、ありえないことに気づきます。もし人が義と認められて、天国に入れられることがあるとするならば、それは罪と不可分の古い肉の自分が死に、まったく新しい人として生かされなければならないと気づきます。
「女から生まれた者」、つまり生まれながらに罪のうちにある古い肉の人のままでは、天国に入ることはできません。たとえパプテスマのヨハネほどに善い行いに生きる人でも、「女から生まれた」ままであれば。だから、神の国に入れられる者であれば、どんなに小さい者でも、「彼」よりすぐれていると言えるのです(なお、「彼」とは「女から生まれた者」の代表と解し、ヨハネ自身が天国に入れたか否かは私たちの判断すべきところではないと考えます)。
人には様々なすぐれた面があります。財をなしたり、人を助ける政治をしたり、発明・発見をしたり、人を感化したり・・・。しかし、他のものと本質的に次元の異なるほど人にとって大切なのは、天国に行くことだと思います。もし、「今晩死にますよ」と言われ、周りのものがすべて振るい落とされ、最後に残るものを考えてみると、そう思います。
そして、天国に行くには、救い主イエスによる罪のあがないと赦しを信じて新しく生まれる他にありません。
だから、主イエスにつまずかない者でありたいのです(23節)。律法を、自分の正しさを証明する道具とするパリサイ人・律法の専門家(30節)ではなく、律法により罪示されて悔い改める取税人(29節)でありたいと思うのです。
土曜 【ルカ7章36節~8章3節】
ひとりの女が主イエスの食卓に現れます。彼女は町でもよく知られた罪深い女でした(37節の直訳)。遊女だったのかもしれません。町中の人々が、パリサイ人シモンと同じように彼女を見ていました。
ところが、主イエスだけは、彼女のなかに全く違う姿を見出していました。主イエスは、忍耐深い無条件の愛で、彼女を見つめていました。恵みのレンズをとおして、神の似姿に造られた“本当の彼女”を見ていました。たとえその姿が、彼女の罪と、町中の人々に貼られたレッテルとで、どれだけわかりにくくなっていたとしても・・・。
彼女はこれまで、神を神とも思わず、人を人とも思わず、罪に罪を重ねていたのでしょう。町の人々の評価が、彼女の人生を物語っています。けれど、彼女は主イエスに出会ったとき、自分がこれまでどれだけ神の一方的な無条件の愛を踏みにじってきたか、人の厚意を裏切ってきたかを、はたと示されたのだと思います。
そして、彼女のこれまでの罪にもかかわらず、なおも注がれる主イエスの愛、父なる神の愛に、涙せずに、何かせずにはおれなかったのでしょう(自分の罪を赦すため、全く新しく生まれるために、いのちまでも投げ出してくださった・・・。十字架の後に、彼女はその愛の計り知れないことを、さらに知ることになります)。
彼女は生まれ変わったのです!罪を赦す権威をお持ちの主イエス(49節参照)が、「あなたの罪は赦されています」(48節)とおっしゃいましたから。たとい周囲はまだ彼女にレッテルを貼り続けようとも、主イエスはおっしゃいます。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい」(50節)
50デナリも500デナリも、2人とも返済できずに免除が必要であったことには変わりありません(41~42節)。そうであるなら、隣人の“借金”を揶揄する者ではなく、赦された恵みに浴する者でありたい、と思うのです。
参考文献
- 榊原康夫「ルカの福音書」『新聖書注解・新約1』(いのちのことば社、1973年)
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