新約 第12週
ルカ福音書1章57節~4章44節

東京基督教大学 准教授
菊池 実

2007年3月19日 初版

【日曜】 ルカ福音書1章57~80節

 割礼は今日にいたるまでユダヤ人男子のすべてが受ける包皮の取り除きの儀式です。イスラエル人は、見えるしるしで他の民族と自分たちが違うことを神さまの前に自覚します。イスラエル人独自の食べ物、安息日、イスラエルの地、そして、身体に刻まれた割礼のしるしです。生後8日目、イスラエル民族に加えられるこの儀式の日には、今も親族が招かれて盛大な祝いをします。そして今もこの日に名前が発表されるのが慣わしです。

 今、老夫婦は誕生した子に、御使いの指示どおりにヨハネとつけました。実際は「ヨハナン」。主はいつくしんでくださる、という意味です。ただ、老夫婦に子が誕生したことだけに「主のいつくしみ」が示されるのでありませんでした。神ご自身によって命名されたところに、将来の神の計画を見なければなりません。キリストを世に紹介するヨハネは、その生まれと名前をもって、そして死をかけて神自身のあわれみ深いことを証ししていくのです。

 この子どもの誕生にあったあわれみと喜び(58節)、驚きと賛美と恐れ(63節以下)、それらは、いつくしみ深い主がやがてキリストをとおして明らかにされていくことを予感させるものです。イエス様はあなたの中に実現した主のいつくしみであることを覚えましょう。イエス様がそのような方であることを、神さまは伝えたくてしょうがなかった、そんなことを感じさせる今日の聖書箇所です。

【月曜】 ルカ福音書2章1~21節

 ルカの描写に注意しましょう。全世界、皇帝、シリヤ、総督、ナザレ、ベツレヘム、労働者夫婦、羊飼い。グーグルアースの地球儀から、一気に粗末な身なりの大工の夫婦と羊飼いへのズームアップです。この羊飼いは有名になり過ぎました。でも本当は、誰も目もくれなかった荒野の移動生活者であり、その後もそうあり続けただけの人たちでした。その彼らが礼拝者第一号であったことは、忘れてはならないでしょう。

 貧しい者への福音、ということだけでなく、やはりこの彼らのうちにしかなかった何かに、神さまは心を留めてくださったのではないでしょうか。 天の軍勢の賛美の後、ただち行動し(15節)、急いで行って捜し出し(16節)、御使いの告知をためらわずに告げて分かち合い(17節)、あがめて賛美する(20節)彼らの心です。律法学者たちの議論の中にない素朴さや主をそのまま見上げる心と感じます。人が地の上の権力を求めるのは21世紀も同じです。また、教会では机上の議論も少なくありません。しかし、羊飼いは天を見上げていました。まず礼拝者としての心の備えを持たせていただきたいと思います。そこに、主の御心である、「神の栄光、地の平和」の実現に至る第一歩があるはずです。

【火曜】 ルカ福音書2章22~52節

 ヨハネに対するのと同様、ヨセフとマリヤもイエスに8日目の割礼を施し、その日に正式に命名しました。名はイエス。それは、「主は救いたもう」を意味するヨシュアの省略形です。名前をとても大事にするユダヤの世界ですが、この方においては名と実体はまさに一つでした。真実なお名前なのです。

 きよめの期間(40日間。レビ12章1~4節)を終えて、ヨセフとマリヤはエルサレムの神殿に向かいました。ルカはその神殿でイエスを迎えた2人の老人を紹介します。シメオンとアンナは魅力的な人たちです。医者のルカは老人福祉に気を遣うのでなく、歩くこともままならないこの2人に秘められていた霊的な力を示します。考えてみてください。この神殿の領域は東京ドームの3倍の面積を持ち、絶えず巡礼者で溢れていました。最初の子をささげる両親も毎日のようにおしかけてきたはずですし、その人々のささげ物の犠牲を扱う祭司も実際何百人もいたのです。

 そんな中で、この2人の老人はイエスを救い主と見抜きました。目や耳の感覚、力は衰えていたでしょう。しかし彼らには聖霊の働きがあったのです。祈りと明け渡す心、そして約束を待ち望む心のうちに聖霊が豊かに働かれました。喧騒の中の霊性を大事にしましょう。忙しくしていることに安心せず、聖霊とともなることに見出されるイエスの姿に喜びを求めましょう。

【水曜】 ルカ福音書3章1~22節

 イエスの誕生から30年あまりが過ぎています。1節の「ヘロデ」とは、イエスを殺そうとしたヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパスです。ユダヤ地方はローマ総督の直轄地で、ガリラヤとペレヤはこのヘロデの支配下、兄のピリポは北の地方の支配者でした。国主とは、王の権力の1/4を示す「四分領太守」と訳される言葉です。

 さて、父なる神の主権の下にあるイエスの宣教の出発点は、ユダヤの荒野でした。だれも自分の領土とは主張したくもない土地です。権力者にとって意味があるとすれば、エルサレムの東側に広がるこの荒野は人を近づけない土地であったがゆえに、エルサレムを守る東側の緩衝地帯であったことくらいです。

 しかし、荒野こそは旧約の時代から神が人に語る所でした。何もなく、命はただ神の御手の中にあることを感じる厳しい場所です。しかし、何もないからこそ、神と向き合い、その言葉が響きわたる所、神をそのまま感じて、また取り扱われる場所でした。

 生活が満たされている中に神の言葉が届きにくいことは経験している私たちでしょう。人生において荒野と思われる試練がある時、そこは神さまと向き合える所と言うことは事実多いものです。モーセ、ダビデ、エリヤ、アモス、エレミヤ、パウロ・・・これらすべてが荒野を出発点としていることは偶然と思えません。

 洗礼者ヨハネが荒野で福音の第一声を上げたこと、それも神の言葉を真に求めてくる人たちへの場所としてのことでしょう。とりわけ、メシヤを迎える心備えがここで言われる大切な事柄です。取税人や兵士たちがあえてここに来るということに、新時代の到来を感じます。「罪人」とされていた人たちの中にも、神への真剣さが(信仰)あれば救いに道が開かれる時代がきたのです(12~14節)。

 人生の荒野での神さまとの出会いを大事にしましょう。ここでの真の悔い改めを大事にしたいとも思います。

【木曜】 ルカ福音書3章23~38節

 冗長とも思えるキリストの系図です。マタイ1章の系図とは異なっていることにすぐ気づきます。マタイは、アブラハムからイエスまで下ってくる系図でした。他方ルカは、ヨセフから遡る書き方です。しかも、この系図は、アダムまでたどるものです。
 さらにマタイと異なっているのは、これが母マリヤの系図であることです。冒頭のヘリというのは、マリヤの父親です。当時の習慣として、それをヨセフの父と呼ぶことはまったく問題ありませんでした。そして、マリヤの先祖にはダビデがおり、本当にイエスは血縁においても、ダビデの子孫ということです。

 さて、この系図で、ダビデの名前を見つけることができるでしょうか(31節)。1000年遡る時代の人物です。島国の話しではありません。ここにさかのぼるまで、ローマ、ギリシャ、ペルシャ、バビロン、アッシリヤ、エジプトの支配があってのことです。その大変な歴史の興亡の中でかつてあった約束を思い出しましょう。
 第二サムエル記7章12~13節(イザヤ11章1~2節)
「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」

 さらに、神の貫かれる言葉を見ましょう。アブラハムの名前を見つけることができるでしょうか(34節)。ダビデからさらに1000年、イエスの時代から2000年遡る時代の人です。
 創世記12章3節
「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」

 さらにアダム(38節)にも約束がありました。実際の年数はもはや不明です。
 創世記3章15節
「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」

 系図で結ばれているのは血筋だけでなく、神の約束です。約束のために、神はそのしるしとしてこの流れを守り、人の不実を忍耐をもって越えて神は計画を遂行するのです。なぜこれだけの時を人は待たなければならなかったか分かりません。少なくとも、これだけの時を経て、イスラエル人が神の前に少しでも成長を遂げて、神に従えるようになり、救い主の痛みを軽減したのかというと、そうではありませんでした。時が経つほどに人の愚かさと恐ろしさは増したのです。ローマ帝国の収奪と、そのための組織的な戦争は完成の領域にあったのです。その頂点とキリストの表れを私たちは重ねるのです。

 38節「このアダムは神の子である」
 人は神によって存在しているのです。人はパンだけで生きるのでない、神の口から出るひとつひとつのものによる。その人間が、神の元に取り戻されていくことがどうしても必要なのです。救いの歴史は、まさに私たちが本来のあり方を取り戻すための神様の計画です。私たちが困ったとか、限界を感じたからという、人が中心の話しの宗教ではありません。この冗長とも見える歴史に、神の忍耐があり、私たちが悟るべき人間の愚かさがあり、約束に忠実な神の真実があることを見出してください。今日のさわぐ心、疲れ、焦り、思いどおりに行かない憤り、妬み、自己卑下、自己憐憫、うらやみから解放されて、私たちのところにおいでになった永遠のイエスを迎えましょう。

【金曜】 ルカ福音書4章1~30節

 聖書の人々は、神に集中するために断食ということを大切なこととしました。イエス自身、人々のために真に神に仕える者となるために、まず神に集中し、全身全霊を神の思いで満たすのです。荒野は神の声の響く所であり、飢えのある所には満たしがある所です。ただ、荒野で40日の断食というのは、命にかかわる時間の長さです。このときの様子、マタイ4章ではイエスが、「悪魔の試みを受けるため御霊に導かれて荒野に上って行かれた」と記されています。最初からそのような目的であるならば、食料も十分準備して、体力気力充実させて行くべき所です。つまり、イエスは、人としてあえて極限の状態に自分を置いて、その中で厳しい試練を味おうとされたということです。
 そんな中で、まずサタンは、3節「石に、パンになれと言いつけなさい」と語ります。怖い言葉ですか?いや、そのようにすれば、イエス自身、飢えはしのげるのです。イエスが犬死するような者でなく、その力があることを示すチャンスです。サタンの一つの「やさしさ」です。
 5節では、幻の内にでしょうか。この世のすべての文明を見せて、権力と栄光を渡すとささやきます。悪魔の手に一時的に渡すことを神が許しているのですから、それは取り返す絶好の機会。救い主として全世界に一気に登場するチャンスであり、悪魔の最大の譲歩ではないですか。
 9節では、エルサレム神殿の頂に立たせて、飛び降りてみろと言います。神殿を囲む城壁の一番高い所は、140mあったことが分かっています。城壁の外側は、そのまま深い谷になっていたのです。落ちれば、死ぬだけの所です。逆に言えば、イエスだけは絶対に死ぬことのない神の御子であることを誇示する絶好のチャンスです。加えて、神殿は常に多くの人が集まっている場所であり、最高の舞台です。それを悪魔が準備してくれているという「配慮と親切」です。
 しかし、イエスはこれらすべての「チャンス」を逃しました。それらが、実はすべてサタンに屈服し、サタンによって得るものであり、サタンの主権の中に身をおいて可能なことを知っていたからです。すべて光に見えて、光でないもの。良きことに見えて、実はたましいを売り渡して、一時の力に酔うだけの姿となってしまうことをご存知でした。

 悪魔という言葉、ギリシャ語では「ディアボロス」、文字通りには「敵対する者」「訴える者」という意味です。それをヘブル語で言えば、サタン。力よりも、人の心を操るたくみさを持つ存在です。そして、神に敵対するということは、三角の尻尾を持って、こうもりの羽を持っておこなうことではありません。聖書では、むしろ天使のフリをしているのが悪魔と言われます。「しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです」。(第二コリント11章14節)
 私たちを立てて、何かを与えて、偽りの慰め喜びで満たし、自信を与えて、自尊心をくすぐるようなことが多いのです。そこに、しかし、いつしか神に敵対する自我をつくろうとする巧みさがあるのです。自分の名誉、利害、欲のために、偽りの言葉に乗らないことです。一回だけ、慰めだから、しょうがない状況だから、誰も理解してくれないのだから、プライドを守るためだ、誤解されないためだ、という一見優しい言葉の中にある力に気をつけましょう。
 人間イエスの武器は、「御言葉」でした。誘惑は、実に内的なものであるからこそ、武器ではなく、たましいに働きかける御言葉なのです。イエスをそこに導いたという御霊が御言葉を力ある物にしてくださるのです。

【土曜】 ルカ福音書4章31~44節

 ナザレを去ったイエスは再びガリラヤ湖のほとりのカペナウムにやってきました。イエスがこの町をあえて選んだ理由は、マタイ4章13節以下に記されています。旧約聖書時代以来、忌まわしい歴史の中にあったこの地方にメシヤが来るということの意味です。日常の喧騒、活気、人々の商業活動。しかし、その表の顔と異なる過去や覆い隠されている本当の痛む所に神が光をもたらすこと、それがイエスがここに来た意味でした。そして、ここの人々の中の、しかも、年老いた人々、苦しみ弱っている人にイエスの目は注がれ続けています。ここには、単なる奇蹟だけではなく、神の恵みの本質があります。
 39節では、「枕もとに来て」とあります。原文では、「その上に」とか、「覆うように」。慈しみの姿です。自分の本当の母親のように慈しむ姿。そして40節では、人々が「病人をみもとに連れてきた」とあります。そして、「イエスは、ひとりひとりに手を置いていやされた」と続きます。原文では、「しかし、イエスはひとりひとりに手をおいた」となっています。つまり、たくさんの人が次々と入って来ても、キリストが接するのは一人一人なのです。
 「いやされた」という言葉は、「セラペウオー」、「セラピー」の語源です。しかし、単に癒すという意味だけではありません。この言葉は、「仕える」「奉仕する」という意味を持ちます(使徒17章25節「仕える」参照)。
 私たちの体を造った方が、弱さを持つ体にご自身が仕えてくださるというのです。触れる愛が満ち溢れるのです。もちろん、そこには「熱をしかりつける」ということに見るような、神の主権と力が示されます。病も死も、個々人が何かしたからということではなく、神さまの前に過ちを持った罪の世の結果、腐敗している世界の一端です。そこに回復を与えることを示すイエスの姿がここにあるのです。

 このイエスのわざを日々支えていたものは一言、それは祈りでした。4章42節、「朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた」。マルコの並行箇所には、「祈るために」と言葉が加えられています。「寂しい所」は、人のいない場所のことであり、その場所に行くイエスとは、祈りの場所に行くイエスの姿のことです。多くの人と接するだけでどれほどのエネルギーを必要とされたことでしょう。ヨハネ4章6節「イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた」 喉も渇き、空腹にもなり、疲れて30歳そこそこのイエスも「どっこいしょ」と座るのです。
 新約聖書の中には、「疲れる」という言葉はわずか4回しか登場しません。その中で、具体的に「この人が疲れた」と書かれているのはただの一回、イエスキリストだけです。全人的といいましたが、体と心とたましいは一つであることはイエスについても違うとはいえないのです。その中で、イエスの癒し、回復、力の源が祈りのうちにあったことを思います。「寂しい所」と訳されたギリシャ語「エレーモス」は、4章1節にあった「荒野」という言葉とまったく同じです。
 寂しい所とは、人の言葉や世の楽しみから離れた所です。そこにある神との交わりという、繰り返し繰り返し聞いても、なかなか、現代人、この文明社会に生きる私たちには、残念ながら遠い言葉のように思います。しかし、人がいて、あるいは世の刺激があって楽しい所、元気がもらえることもあるでしょうが、たましいを持つ存在である自分が、たましいの癒しと力が必要であることを、聖書を通して学びましょう。それを与える方も神だけであること。祈りは「交わり」としてあるのです。