新約 第11週
マルコ福音書14章17節~ルカ福音書1章56節

日本伝道福音教団 三条福音キリスト教会 音楽宣教師
内藤 容子

2007年3月9日 初版

【日曜】 マルコ福音書14章17~42節

 イエスの十字架前夜、最後の晩餐からゲツセマネの園での祈りまで。イエスの人としての生涯のクライマックスに入る。そこでまずイエスが語られたのが弟子の裏切りについてだった。裏切る者はこの言葉を聞いても計画を思い直さなかった。イエスの言葉を聞いた弟子たちは悲しみ、私じゃないですよね?私は大丈夫ですよね?と問う。「あなたがたはみな、つまずきます」(27節)と言われた時もペテロを始め弟子たちは自分はつまずかない、私はあなたを裏切らない、と主張した。しかし、一緒に死ぬこともいとわないと豪語した矢先、一緒に起きて祈ることもできなかった彼ら。

 裏切る者もそれ以外の弟子たちも結局この時、自分のことを考え、自分のために生きていた。自分の計画、自分の利益、自分の潔白、自分の正しさ、自分の眠気・・・。

 この時一番悲しんでいたのは裏切られるイエスだっただろう。そして、その後誰も味わったことのない孤独 ― 神に見捨てられ、徹底的に裁かれること ― に放り込まれる恐れと不安のために自分のことで心がいっぱいになっても一番おかしくない人だった。しかし、この時イエスが見ていたもの、それは自分のことではなく天の父のみこころだった。彼は神なのだから当然と簡単に言いきれるものではなかっただろう。恐れ、悲しみがなかったのではない。それらと父のみこころとの激しいせめぎ合いがイエスのうちにもあった。それと血の汗を流すまで戦われた。そして、イエスは父のみこころに従うという決断をされ、この戦いに勝利された。

 自分に固執する者を憐れんで、ただみこころのゆえにいのちを差し出してくださったイエスの前で私たちはどう生きるか。

【月曜】 マルコ福音書14章43~72節

 裏切り、イエスの逮捕、そしてペテロの否認について。先ほどの食卓でイエスが言った通りに弟子の一人のユダがイエスを裏切った時、周囲は騒然となった。ユダが口づけするやいなや人々はイエスを捕らえ、イエスの側にいた者は剣を抜いた。しかし当のイエスは毅然としてこう言った。「こうなったのは聖書のことばが実現するためです」(49節)。しかし、みなの者はそのイエスを見捨てて逃げた。

 大祭司の所でイエスがご自分をキリストであると認めた時、大祭司は「神をけがすこのことば」(64節)と言った。イエスの言葉を、自分が知っている神の言葉、つまり聖書とは同一視しなかった。かえって神を冒涜する言葉だと言い切った。そしてイエスを死刑に定めた。

 ペテロは一度、イエスを捨てて逃げたものの、その後イエスについて大祭司の庭に入って行った。そこで、イエスに言われていたようにイエスを知らないと3度否定してしまった。鶏が鳴いてからやっとイエスの言葉が真実であったことに気がついた。

 緊張感が溢れ、裏切りや嫉妬、陰謀が渦まく中、人の子は罪人たちの手に渡されるというイエスの「言葉」を弟子たちは覚えていただろうか。また、大祭司は彼の指針たる「聖書」が預言している救い主をしっかり見定めることができていただろうか。逆に、イエスへの嫉妬が強すぎて、真の「言葉」であるイエスをさばいてしまったのではないか。そしてペテロもイエスの「言葉」を真剣に受け取っていたら、イエスを否認することがなかったかもしれない。この人間の罪、弱さのまっただ中で、人となられた「言葉」であるイエスは真理の「言葉」を語りつつ、公然と「御言葉」の成就に向かっていく。

【火曜】 マルコ福音書15章1~21節

 14章後半にはユダヤの議会について書いてあったが、ローマの植民地だったユダヤではローマの裁判にもかけるのが普通だった。夜が明けてユダヤ人はイエスをローマ総督ピラトのもとに連れて行った。

 ここでの罪名はローマに対する一種の反乱、つまりイエスは、どんな属国の王もローマの同意なしに支配してはならないという点に反するものとして罪に問われた。ご自分をユダヤ人の王だと認めてから、他の訴えには一言もお答えにならないイエスを見て、ピラトは驚いた。そしてイエスに罪はないが、ユダヤ人がねたんで、この裁判を起こしていることに気づいていた。ピラトは罪のないイエスをどう扱うか困っていたが、イエスを十字架に、と叫ぶ群衆の機嫌を取るために、とうとう十字架刑の判決を言い渡してしまった。自分の良心を裏切って、人々を恐れて保身に走り真理を曲げてしまった。

 己のかわいさに真理を曲げたピラトと、無理矢理にだったがイエスの十字架という真理を一新に背負ったシモン。どちらのようにも生きることができる。

【水曜】 マルコ福音書15章22~47節

 判決通り十字架刑が執行されてしまった。兵士たちはイエスの着物をくじで分け、道行く人々はイエスをののしった。そして祭司長、律法学者たちはこう言ってあざけった。「他人は救ったが、自分は救えない。」(31節)この言葉こそイエスの使命を的確に表している。他人を救うために、自分は十字架から降りることなく父なる神からさばかれること。これが、イエスがずっと目を離さずにいた「父のみこころ」だった。

 その時、全地が暗くなった。父なる神がイエスをかわいそうに思ったからだろうか。いや、この時神は燃える怒りでイエスを容赦なくさばかれたのだ。イエスが「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた通りである。こうして歴史上のすべての罪人への神の大いなる怒りとさばきは身代わりのイエスの上に徹底的に下り、永遠から永遠まで一つである父と子の関係は一時的に完全に断絶された。

 正確にいうなら「他人は救ったが、自分は救わない」イエス。神であり命や死さえ治めておられる方が、その手中にある死に従われた。間違いなく死に飲まれ墓に入れられた。女たちはそれをしっかりと見ていた。周りが嘲ったように十字架から降りるというパフォーマンスでイエスが自分を救ったら、他人 ― 私たち ― の救いはなかった。

【木曜】 マルコ福音書16章1~20節

 十字架を1日目と数えてから3日目のイエスの復活について書かれている。この章には追加文が2つもついている。マルコではない他の人がその後のことを他の福音書や事実に即してまとめたものだという説があるが、何にしてもこの箇所はイエスの復活とその後のことについて伝えている。

 8節まではイエスのいない墓が強烈な事実として書かれている。「ここにはおられません。」(6節)一度、死に服されたイエスは、その死の力を破りよみがえられた。驚くなと言われても無理な話である。女たちは墓の中から逃げ去った。聞いてすぐに把握し理解するには、この知らせは偉大すぎ、素晴らしすぎた。

 9節からのテーマに信じない心があげられる。イエスの復活を信じなかったのは、イエスと一緒にいた人々だった。イエスの行動を見てイエスの言葉を近くで聞いていた人々だった。マリヤが知らせても、仲間の2人が知らせても彼らは信じなかった。イエスの死という強い悲しみは彼らの心を頑にし、死に打ち勝つ神の力を信じられないようにしていた。しかし、その閉ざされている心の真ん中に復活の主は来てくださった。不信仰を責め、彼らをもう一度立たせてくださった。そして彼らとともに働き、みことばを確かなものとされた。

 旧約聖書に預言されていた救いの神は、人となってみことばの通りに生きられ、死なれ、みことばの通りによみがえられた。そして、今も信じる者とともに生き、みことばを行い、みことばを確かなものとしておられる。

【金曜】 ルカ福音書1章1~23節

 異邦人の医者であるルカによって書かれた。救い主イエスの誕生の前に「主の前ぶれ」であるバプテスマのヨハネの誕生の予告から始める。

 神殿に入って香をたくという務めは祭司にとって、一生に一度あるかないかの栄えあることだった。年老いた祭司ザカリヤはそのくじにあたった。その務めの時に御使いガブリエルが彼の前に現れ、男の子の誕生を予告する。ザカリヤ夫妻にとって念願の子どもというだけでなく、その子が主の前にすぐれた者となり、人々を神に立ち返らせ、主のために民を整える働きをするという点においても老夫婦の喜びとなると告げる。

 御使いが現れたということを見ても、その予告が真実であることのしるしと取れそうだが、実際にその目で御使いを見、その耳で御使いの言葉を聞いても信じられない時は信じられないのである。ザカリヤが子を宿すには年を取り過ぎていたことも理由として数えられるが、自分の常識を超える新しいことに対する不信が誰の心にもあることを覚える。妻のエリサベツもみごもってから5ヶ月してやっと「主は、・・・今、私をこのようにしてくださいました」(25節)と告白した。

 恐れと不安のある者を神は覚えて、憐れんでくださり、ご自身の御業を行われる。神の恵みは受ける資格のない者に一方的に与えられる。

【土曜】 ルカ福音書1章24~56節

 エリサベツの妊娠6ヶ月目に、マリヤに御使いガブリエルが現れた。同じように男の子の誕生を告げるが、今度は年老いた不妊の女ではなく処女がみごもるというのである。当然、本人は驚いたが、聖霊によって神の子が宿ると言われた時、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(38節)と答えた。ここにみことばへの完全な信頼と自分を主のものとして明け渡す従順な姿がある。

 常識を超えることを告げられた時、そんなことはできるはずがないと考えてしまう限りある人間の弱さが彼女のうちには見られなかった。彼女のうちには自分にはできない、という謙遜を装った神への不信仰、侮辱がなかった。その言葉を告げたのは全能の神であることを認めていた。自分がするのではないことも認めていた。自分は神のものに過ぎず、神が望まれることが自分に起こることを幸いなことと受けとめていた。そのことが現実になれば、周りから姦淫の罪を犯したと非難され、石打ちにされる可能性があると予想できただろうに。

 「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人」(45節)から、主によって語られたことをその生涯で実現し完成させる、救い主イエス・キリストが生まれたのである。

参考文献

  • 加藤常昭『マルコによる福音書3(加藤常昭説教全集7)』(教文館、2004年)
  • コール/山口昇:訳『マルコの福音書(ティンデル聖書注解)』(いのちのことば社、2004年)
  • 泉田昭『マルコの福音書(新聖書講解シリーズ2)』(いのちのことば社、1982年)
  • 鈴木英昭『ルカの福音書(新聖書講解シリーズ3)』(いのちのことば社、1983年)
  • 榊原康夫『ルカの福音書』(いのちのことば社、1972年)