新約 第10週
マルコ福音書10章35節~14章16節

日本同盟基督教団 新潟福音教会 伝道師
木村 愛

2009年10月31日 初版
2009年11月28日 第2版

【日曜】 マルコ福音書10章35~52節

 自分のほうが優位でいたい、そんな思いが私のうちにあることを感じます。
 でも、イエス様は、主のしもべに教えてくださいました。ホラわたしをごらん。と、人の子の姿を示されました。ふりかえれば、イエス様の手はいつも人の必要のため、人をいやすために働いていました。イエス様の足は、苦しむ人を訪ね、その人に仕えるために動いていました。イエス様の目は、自分を喜ばせることを見つけるためではなく、人々の痛みや必要を見つけるために開いていました。イエス様は自分のすべてを、人に仕えるため、しかも罪人に仕えるために用いてくださいました。
 そしてこの後、イエス様は、罪人のために、私を救うために、ご自分のいのちを捨てて仕えてくださいました。このイエス様に救われた私たちも、今までと同じ価値観から変革される必要があります。

 考えてみれば、弟子たちであっても、イエス様の恵みを受けて弟子としていただいたので、なにも偉くありません。むしろここで、人としてふさわしくイエス様に向き合ったのは、盲人の物乞いバルテマイでした。彼から、信仰の姿を学ぶことができます。
 1つめに、彼は、自分がイエスさまにあわれんでいただくほかない存在だと知っていました。
 2つめに、彼は、まわりにたしなめられても、あきらめない信仰をもちました。
 3つめに、彼は、イエス様に、自分のできるかぎりの敬意を示したのです。
 バルテマイは、イエス様の御前に、自分が何者なのかをわきまえていました。そして、イエス様はこの信仰を認めてくださり、彼の目をいやし、彼の闇に光を照らしてくださいました。彼の人生はイエス様についていく人生に変わったのです。

 私たちは今もう一度、イエスさまの仕える姿――罪人である私に仕えてくださった――その姿をおぼえたいとおもいます。またバルテマイの信仰を学びましょう。イエス様は、この時とかわらず、今日も私たちの生活を、私たちの心を、私たちの家庭を、闇から光に回復させてくださるお方です。

【月曜】 マルコ福音書11章1~25節

 当時、まだだれも乗ったことのない動物は、きよい目的のために用いられました。真の王であるイエス様は、何千年も前からずっと計画されていた救いのみわざをなされるべく、「ホサナ」(どうぞ救ってください)との叫びを受けつつ、いよいよエルサレムに入ってこられました。

 しかし、エルサレムの町でみたものは、見せかけだらけの信仰の姿でした。神さまの宮は、神さまを礼拝するにふさわしく扱われていませんでした。目に見える「神さまの宮に対する態度」は、目に見えない「神様への信仰の状態」をわかりやすくあらわしています。このときの様子からわかるのは、形式的には神様を崇めていても、実際は神様を利用している彼らの姿でした。しかも、彼らが商売をしていたのは、異邦人が礼拝をささげる場所でした。彼らは自分たちの利益しか考えないで、異邦人の礼拝の場所を奪っていたのです。

 「いちじく」(13節)は神様の民を象徴しているといわれます。このいちじくの木は遠くから見ると、もしかしたら何かあるかもしれない、そう期待できるほどりっぱに葉が茂っていましたが、そばに近づくと実が1つもありませんでした。そのように、このエルサレムの町も、外から見ると活気があってすばらしいのに、その実態はそうではなく、神の民の信仰は形式的で、霊的には沈んでおり、神の民の歩みは自分中心でした。

 でも、そんなひどい町でも、またこの世の信仰がどんなに堕落していても、望みがあります。そのような場所に、イエス様は猛然と正義をあらわしてくださり、神の宮のふさわしい姿への回復の第一歩を踏み出してくださったのです。そして、この「正義にあふれる全能の神さま」を信じて祈るところに、私たちが生きるこの神を汚す罪の世が、変えられていく希望があります。また、このイエス様によって、今までは見せかけだらけで堕落していたこの私の信仰をもきよめていただける、変わっていけるのだという希望があります。

【火曜】 マルコ福音書11章27節~12章12節

 「だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか」
 「これらのこと」とは直接には11章15~17節のことです。祭司長たちがこの質問をしたのは、「どのようにイエスを殺そうかと相談」していたすぐ後のことでした。
 祭司長たちが群衆を恐れていたことが何度も記されています。彼らは自分たちの地位を守ることがなにより大切で、それを守るためなら人も殺すほどでした。だから、自分の地位をゆるがす存在をなによりも恐れていたのです。そんな彼らの質問にイエス様はお答えにはならず、たとえを話されました。

 このたとえにはスケールの大きい、イエス様が来られるまでの歴史が描かれています。ぶどう園を造った「ある人」とは神様であり、ぶどう園を託された農夫たちとは指導者たち、季節になって遣わされた「しもべ」とは、預言者たちを示します。
 神様は今まで多くの預言者たちを遣わして、悔い改めて神様に立ち返るようにと、ずっとずっとユダヤの人びとに語り続けたのに、ユダヤ人たちは神様に立ち返らずに自分勝手に生き、かえって彼らを迫害し続けてきました。それが旧約時代の歴史です。
 そして遂に、時至って、父なる神様は、御子イエス様を送られたのです。
 しかし、ホラ、神から遣わされた神の子イエスを、今ユダヤ人の指導者であるあなたがたは、殺そうとしているではないか。というのです。その通りに、まもなく後に、イエス様は祭司長たちによって捕えられ、十字架にかけられ、殺されます。

 でも、なんと、この殺されたイエス様が、罪人の私たちをも救いに入れてくださる御国の土台となられるのです。それはイエス様が殺されたのは「私たちの罪を代わりに負って」死なれたからです。このイエス様の十字架の死が、神の国の四隅をしっかりとおさえる土台です。私たちが救われ、天の国に入れる根拠は、私たちの功績によるのではありません。努力によるのでもありません。私たちが救われる根拠はイエス様にあります。
 この世に見捨てられ十字架刑となったイエス様が、私たちの救いの約束を四隅から支えてくださるのです。

【水曜】 マルコ福音書12章13~34節

 今日の箇所から、イエス様のもとにやってきた3種類の人と出会うことができます。

 まず、パリサイ人とヘロデ党の人です。彼らは税金を納めることについて質問しましたが、「パリサイ人」は税金を納めることについては反対者(なぜなら税金をローマ政府に納めることはローマに服従することのように思われたから)、「ヘロデ党の者」は支持者でした。だから、イエスがどちらに答えても反論する準備が整っていたのです。
 しかし彼らの思いを見抜いていたイエス様は、神によって認められた制度での納税はすべきだが、そのカイザルをも神様から一部の国を治める働きを委ねられただけにすぎず、絶対的支配者である神様の前にはひざまずくべき存在であることを示されます。
 さて、ここでイエス様の言われる「神のもの」とは何でしょうか。すべてのものです。地上でこの上ない権威を持っているように見えるカイザルも、ましてや私の持っている財産、肉体、精神、魂、人生、能力までもすべては神様のものです。

 続いてはサドカイ人です。彼らは、貴族階級で、裕福な人びとです。世の中でも有力者で、彼らのなかから大祭司が選ばれました。このサドカイ人の質問は明らかに、復活の思想をばかにした質問でした。
 それに対してイエス様は、出エジプト記の御言葉を引用して語られました。神様はモーセに、アブラハム・イサク・ヤコブはすでに死んだはずなのに、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とおっしゃったときのことが記されています。神様は、死んだ主のしもべを今も生きている者として語られたのです。これは、彼らが御使いのように霊的な存在として復活し、今も神様とのあたたかい交わりのなかに生きていることをあかししているのです。
 これはすばらしい福音です。私たちもイエス様から救いを受けるとき、たとえ死んでも、霊的な存在として復活し、神様との温かい交わりに入れられるのです。
 どんなに聖書の知識だけあっても、神の力を小さくしか信じないサドカイ人は、イエス様からすれば「聖書も神の力も知らない」者でした。私たちは、聖書の示す目に見えない霊的な世界を信じ、また死者の復活を信じ、聖書と神の力を知ることができますように願います。

 さらに、イエス様のお言葉に感心した律法学者が訪れます。問答の末、イエス様は彼に「あなたは神の国から遠くない」そういっていただいたのです。「先生。そのとおりです」(32節)とイエス様のお言葉をそのとおり受け入れる者となりたいと思います。

【木曜】 マルコ福音書12章35節~13章13節

 約束の救い主は「ダビデの子孫として生まれる」と預言されていたとおり、イエス様はダビデの子孫ヨセフの妻マリアから生まれました。しかし系図の上ではそうであっても、マリアは処女のとき「聖霊によって」身ごもってイエス様を産みました。だから、イエス様は単なるダビデの子孫ではありません。それ以上のお方です。聖霊によってこの世に来られた神の子であられます。

 さてイエス様は律法学者と、金持ち、ひとりの貧しいやもめに目を向けられました。想像すると律法学者たちは、会堂でどんなにか幅をきかせて歩いていたに違いありません。皆からどんなにか敬われていたでしょう。また金持ちたちは献金するときもガランガランとたいそうな音を立ててたくさんの献金をしていたのでしょう。
 しかし一方、貧しいやもめはどうでしょうか。彼女が献金を投げ入れたとき、だれが聞いても最小単位のレプタ銅貨だとわかるような小さな軽い音が鳴ったでしょう。なんだ、これっぽっち。周りからそんな目で見られて逃げるようにして去っていくやもめの彼女の姿が眼に浮かぶように思います。
 しかし、イエス様は、この貧しいやもめのささげものを誰よりも誉められました。

 このように、神様の目は、私たちの心や信仰の真実をごらんになります。人間はうわべの金額の大きさ、立派さなどで人を計りますが、神様はそうではありません。
 続く13章1節の「宮」とは、ヘロデ大王によって着工され46年かかってもまだ完成しないほど入念に造られたものです。回廊の柱は、1つが4メートルもある石でできており、全体は格別な美しさでした。
 しかし、この上なくみごとな石も、すばらしい建物も、立派ないでたちも、この世の地位も、名誉も、いつか主の前に出るとき、それはくずされます。今まで私たちを覆い、取りつくろっていたすべてのものが取り払われて、神様の目の前にただ裸の自分が立つこととなります。
 それは「終わりの日」です。13章で終わりの日の前兆が教えられます。にせ教師の惑わし、戦争、地震やききん、また主を信じる人びとは迫害を受けます。
 これは、今日に至る歴史のなかでも、何度も教会を大きな波となって襲ってきたものであり、終わりの日の近い、今から先に起こることでもあります。しかし、最後まで耐え忍んでイエス様への信仰を持ち続けるなら、神様の前にひとりで立つこととなるその時にも、恥じることはないでしょう。

 イエス様の御前に立つ日が近い今、いよいよ私たちのうちに、うわべを飾るのではなく、また見せかけの信仰を誇るのでもなく、貧しいやもめのように真実に歩む心を養いたいと願います。

【金曜】 マルコ福音書13章14~37節

 13章は、いよいよこれから死なれるイエス様のなさった、告別の説教と受けとめることができます。そしてこれは、イエス様が再び来られる終わりの日に向けて生きている、私たちにも語られています。
 9~23節から「キリスト 対 反キリスト」という対立における終わりの日の構造がわかります。
 「世からの迫害」(9~11節)
 「家族やあらゆる人びとからの迫害」(12~13節)
 「大患難の時代」(14~20節)
 そして、大患難を命からがらかろうじてくぐりぬけた信者を、しるしや不思議をもって惑わす「にせキリスト、にせ預言者たちによる最後の誘惑」(22~23節)

 このように、家族や国家権力からひどい迫害を受けるとき、迫害に屈して罪を犯してしまう(たとえばやむなく偶像を礼拝してしまう、信仰を捨ててしまう、そのほか十戒に反する罪を犯してしまう)とき、そのままイエス様が来られたら、天国に入ることができません。また、迫害が過ぎ去ったなら、悔い改めなければ教会から除名されます。
 でも、聖霊を受けた真のクリスチャンは、この迫害を最後まで耐え忍び、彼らに対してあかしをします。こうしてキリスト対反キリストの全面戦争が展開します。総力を結集した悪魔の猛攻撃に対抗して、聖霊様は、クリスチャンを強め、最後まで、死に至るまで耐え忍ばせ、敵に向かって勇敢にあかしをさせてくださるのです。そうして福音が宣教されていきます。
 「あかし」という言葉は、後に「殉教」を意味するようになりました。すなわち、クリスチャンたちは、単に言葉でキリストをあかしするのみならず、自らの血をもってキリストを証言します。そして殉教者の血が新しいクリスチャンを生み出す種子となり、流されれば流されるほど多くの回心者を生み、「あかし」は悪魔のあらゆる激しい弾圧に打ち勝って、遂には福音があらゆる民族に宣べ伝えられていくのです(10節)。
 これは、イエス様がこの御言葉を語られた後ずっと、くり返されてきた歴史です。先達のクリスチャンが迫害のなかで流した血が重なって、こうして今、全世界の果てである日本の私たちのもとにも福音が届きました。

 イエス様が再び来られる日がいつなのかは、天の父なる神様のみが知っておられます。それは、いつかわからないのです。でも、今が終わりの日を待つ、「終わりの時代」であることは確かなのです。だから、「主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないように」私たちも今日、信仰の目を覚ましてイエス様に従って歩めるよう心から願います。
 「わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい」(37節)

【土曜】 マルコ福音書14章1~16節

 イエス様は、宮のあるエルサレムから東へ3kmのベタニヤの地に来られました。
 十字架の時が迫っているなかで、イエス様はシモンの家で皆とともに食卓についておられました。ヨハネの福音書によると、3節の「ひとりの女」とはマリヤのことです。
 ナルドの香油は、インドのヒマラヤ山中で採れる甘松香(かんしょうこう)という香料で作ったものです。インドの香辛料は黒いダイヤと呼ばれ、ヨーロッパでは大変高価なものでした。そのインドの、しかもヒマラヤ山中で採れる特別な植物です。それはどんなに高価なものだったでしょう。彼女はそれをイエス様の頭に注ぎました。
 弟子たちは「この香油なら300デナリ以上に売れる」と値踏みしました(当時ローマ兵卒の年俸が300デナリ)。この香油は彼女のずっと貯めていた結婚資金だったと思われます。これをささげてしまっては、今までずっと彼女の夢見ていた結婚はどうなってしまうのでしょう。彼女の未来も、将来も、人生も、どうなってしまうのでしょう。
 でも、彼女はそうは考えませんでした。それは、イエス様からもっとすばらしいものをいただいたからです。それは、永遠のいのちです。復活のいのちです。実は、ヨハネの記すところによると、この出来事のあった直前に、イエスは死んだ彼女の兄弟ラザロを生き返らせてくださったのです。そのとき彼女は復活のいのちを目の前で見たのです。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」そう言われたイエス様が本当にいのちなるお方で、死んだ人にも永遠のいのちを与えることができるお方であることを知ったのです。
 彼女はこのときすでに、イエス様から、これからイエス様がエルサレムで私たちの罪を贖うために私たちの身代わりのいけにえとして死のうとしておられるのだという話を聞いていたに違いないのです。この食卓でも話されていたでしょう。そうなると、もう二度とイエス様にお会いできないかも知れない。だから彼女は考えられる限りのささげものをイエス様にささげようと思いました。イエス様の葬りの準備のために、これからイエス様が十字架にかけられても、墓に葬られても、ずうっと血生臭いにおいを消すために、自分にできる限りの最善のものとして、自分の香油をイエス様に注いだのです。
 それをイエス様は喜ばれました。彼女にとってもそれは記念となりました。

 一方、ユダはこの後、イエスを売ろうと祭司長たちのところに出向きます。ユダの姿と、香油を注いだ女の姿は対照的です。自分の人生すべてをイエス様にささげる者と、イエス様をだしに自分の利益を受けようとする者です。ユダは、お金欲しさに最後には文字どおりイエス様を売るのです。

 そして、いよいよ十字架に架けられる前夜の食卓の準備が、主の導きによってなされていきます。

 私たちも永遠のいのちへと召された者です。喜びと感謝をもって香油をささげた彼女のように、イエス様を愛せますように。自分の考えられる限りの最も大切なもの、私にとってのナルドの香油、人生を主にささげて、主のお役に立てますように、心から願います。