新約第10週
【マルコ10章35節~14章16節】

BibleStyle.com

2007年3月9日 初版

日曜 【マルコ10章35~52節】

 ヤコブとヨハネが天の座を願い出ました。残り10人も、この抜け駆けに立腹していることから(41節)、同じ思いだったことがわかります。
 主イエスが天の栄光の座にお着きになることを前提とした十二弟子の願いは、一見すると立派な信仰告白とも取れそうです。主イエスと一緒に十字架につけられた犯罪人も、最後に「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」(ルカ23章42節)と告白し、天国に入る確約をいただいています。
 しかし、主イエスは諭されました。言葉の上では似ていても、それは、悔い砕かれた心からの切なる願いではなく、「あなたの栄光の王座」(37節)と言上しつつ、己を心の王座に据える「罪」(※)からにじみ出ていたからだと思います。
※ 罪とは、「神を神とせず、己を神とし(創世記3章5節)、神の座すべき心の王座に己が着座し、神と断絶すること」と定義します。

 主イエスは、おっしゃいました。主イエスの弟子(キリスト者)は、仕えるしもべになりなさい(44節)、と。
 主イエスが地上に来られたのも、仕え仕えて、ついにはご自身のいのちさえ私たちの「罪」の代価として差し出されるためでした(私たちが天国の座に着くことのできるようになるために)。
 だから、心の王座に主イエスをお迎えし、日々一瞬一瞬「イエス様ならどうする(WWJD=What Would Jesus Do?)」と想う者たちも、そのように生きなさい、と。

 ヨルダン川を渡りエリコまで上られると、バルテマイという目の見えない貧しい男が、すがりついて懇願しました。「イエスさま。私をあわれんでください」(47節)。砕かれた心でした。
 主イエスはご覧になり、おっしゃいました。「あなたの信仰があなたを救ったのです」(52節)
 視える自由を得て、「さあ、行きなさい」と言われたバルテマイが選んだ先は、主イエスの行かれるところでした(52節)。

月曜 【マルコ11章1~25節】

 11章からは、十字架までの最後の1週間(受難週)について、ゆっくり詳しく描かれます(マルコ伝の約1/3は最後の1週間)。週のはじめ、人々は「ホサナ(どうぞ救ってください)」と叫んで、主イエスを迎えました。しかし週の終わり、人々は「十字架につけろ」と叫んで(15章14節)、主イエスを殺しました。強烈な対比です。いったいこの1週間に何があったというのでしょう?・・・(もちろん次の新しい週には、神によって全く新しいことが起こるのですが)

 エリコから上ってこられた主イエスは、ろばの子に乗ってエルサレムに入城されました。その子ろばは、「主がお入用なのです」という、たった一言で引かれてきたものです。乗りものの用立てひとつからも、神の子としての権威が描かれます。

 また、「宮きよめ」をされました。もともと、いけにえの動物の売買や神殿納付用のシェケル銀貨の両替は巡礼者の便宜のためでしたが、時を経て目の前にあったのは、「祈りの家」ではなく、利得へといざなわれ「強盗の巣」となり果てた「父の家」でした。主イエスの、父なる神から委ねられた権能をもって断行される姿に、神の子としての権威が描かれます。

 さらに、自然界全体を治める神の子としての権威が描かれます。前日に、「いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように」(14節)と主イエスのおっしゃったことを聞いていたペテロたちは、翌朝、主イエスのことばどおりになったいちじくの木を目の当たりにします。

 エルサレム入城以来、「生ける神の御子キリスト(救い主)」の権威を明らかにされる主イエス。しかし他方で、その権威が、祭司長・律法学者たちを十字架の陰謀へと走らせます(18節参照)。神の子の権威を受け入れられず、へりくだって心の王座を明け渡さない者にとって、主の権威は、除きたくてたまらない邪魔な存在となります。主の権威が、彼らの「罪」を断罪し、自分たちの権威・プライド・既得権益を揺るがすからです。

 恐ろしいことですが、しかし、彼らのあり方を反面教師に、謙虚に自省する者でありたいと思います。私たちも、彼らと同じ罪人なのですから。主イエスを十字架につけたのは、まさに私の「罪」なのですから・・・。
 悔い改め、あわれみを求めて祈るとき、神は必ずその祈りを聞き、主イエスの御名によって、罪を赦し、救ってくださいます。偽ることのないみことばによって、確かに約束してくださっていますから。「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。・・・あなたがたの罪を赦してくださいます」(24~25節)と。

火曜 【マルコ11章27節~12章12節】

 主イエスの権威は明らかな力をもって示されました。しかし、祭司長・律法学者・長老たち(27節)にとって、それは受け入れ難いものでした。モーセ以来の律法や伝承に基づく権威を自負する彼ら(「家を建てる者たち」〔10節〕)にとって、主イエスは、ナザレという田舎からやってきた、30歳そこそこの大工の息子にしかすぎず、彼らの価値観からは権威を認めることのできない存在だったからです。しかも「宮きよめ」です。
 妬みと怒りを押し殺して、彼らは主イエスに尋ねます。「何の権威によって・・・」(28節)

 「神の子の権威によって、天の父から授かった一切の権威をもって」
 とは、お答えになりませんでした。主イエスのことを前述のように見ている彼らにとって、このストレートな言葉を受けとめるだけの土壌はありませんでした。むしろ「自分を『神』とするなんて!」と、火に油を注ぐだけでしょう。十字架にかかる「時」が未だ到来していないことを見た主イエスは、直に答えて事件とすることはせず、彼らの心のうちにある妬みと怒り、そして人の目を気にする恐れをご覧になったうえで、彼らには答えることのできない問いをもってお答えになりました。

 けれど、彼らの問いを封ずるだけではありませんでした。たとえを用いて、彼らのしようとしている“近未来”を示されました。主人の使いに恥をかかせ、愛する息子を殺すなど、狂気の沙汰です。そんなことをしたら、社会で生きていくことはできず、自分の人生も終わってしまうことは、冷静に合理的に考えたら誰の目にも明らかです。群衆の空気を読むことに長けた祭司長たちなら、なおさらわかるはずです。主イエスは、「あなたがたがしようとしていることは、それほどのことなのです」と、近未来の視座を投影し、立ち返るよう促されました。

 「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである」(10~11節)
 主の救いは、まったく人手によらず、ただ神のみわざによります。「不思議なことなら、私たちにはわからないのでは?」
 しかし律法は次のように述べます。「あなたがたが心の中で、『私たちは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか。』というような場合は、預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない」(申命記18章21~22節)
 主イエスは、ご自身がメシヤであることを、これまでにも数々のみわざをもって(私たちも見てきたように)、証明されてきました。それは、律法学者たちの熟知した律法の基準から見ても、弁解の成り立たないほどに明らかでした。
 主の救いの恵みにあずかるには、不思議なみわざを見極める権威や技量が必要なのではありません。すでに明示されているみわざを、へりくだって信じるだけなのです。

水曜 【マルコ12章13~34節】

 群衆は、主イエスの権威(authority、1章22節他)も、力あるみわざ(power、1章27節他)も目の当たりにして、「この方こそ救い主に違いない」と信じていました。祭司長・律法学者・長老たちも、その事実は認めないわけにいきませんでした。その事実と群衆の支持の前には、いくら彼らの権威をもってしても主イエスを手にかけることはできませんでした(11章18節・12章12節)。
 彼らは謀議を重ね、「権威と力でうまくいかないのなら、言葉の罠に陥れよう」ということになったのでしょう。しかし、彼らの不幸は、主イエスの正体を知らないことでした。人となられた「ことば」なるお方(ヨハネ1章1~3・14節)に、言葉の罠をかけようとするとは・・・。

 問答は3つあります。【1】神のものは神に(神と国家・社会〔人〕に仕える)。【2】生きている者の神(復活について)。【3】神を愛し、人を愛す(一番大切なこと)。そのうち、【1】を見てみましょう。

 当時、多くのユダヤ人(群衆)は、「神が約束の地に導き、ご支配なさるなら、どうして他の支配者に税金を納めなければならないのか?」、という疑問を抱いており、指導者層の「パリサイ人」たちも納税に否定的でした。他方、現実的なイスラエルの繁栄のためにはローマ支配をも許容する「ヘロデ党」は、納税にも肯定的でした。その両翼が、呉越同舟よろしくやって来たのです。
 14節の問いは、迎合するように納税を肯定すれば、「神の国」という言葉が一気に力を失い、群衆も失望と反感のうちに離れてゆき、他方、納税を否定すればローマ帝国への反逆者として訴追されるおそれのあるものでした。
 これに対し主イエスのお答えは、イデオロギーではなく、誰も否定することのできない事実に基づいたものでした。「カイザルの像が刻まれ、その所有が明認されるなら、持ち主に返すのは当然でしょう」と。わかりやすいです。
 これを現代風に「キリスト者と国家」というテーマに引き直すと、「貨幣に象徴される経済制度をはじめ、国という枠組みのなかで、そのインフラの便益を享受しているのなら、それに対する責任も果たすべきである」と言えるかもしれません(参照:ローマ13章1~7節、第一ペテロ2章13~14節)。
 ところで、もう一方の「神のもの」とは何でしょうか?神の像(イメージ)が刻まれているものとは?・・・創世記1章27節を開くと次のようにあります。「神はこのように、人をご自身のかたち(像)に創造された」。そうです。私たちです。
 社会的責任(人への責任)を果たしつつ、神のものである私たち自身、私たちの人生は、神にお返しする(献身する)。そういう生き方がキリスト者である。そうおっしゃっているように思います。

木曜 【マルコ12章35節~13章13節】

 レプタは当時の最小単位の貨幣です。額の多寡ではなく、もちろん全財産の何%を献げたか、ということでもなかったと思います。「神のものは神に」(12章17節)という信仰のあらわれとして献げたかどうか、なのだと思います。
 神の像が刻まれた自分自身を、神にお返しする。お金は、いわばその信仰を入れる「容器」と言えます。いくら「容器」ばかり献げても、献身という「中身」がなければ、意味がありません。

 人は、表の容器しか見ることはできません。洞察力の鋭い人は、あるいは感じることができるかもしれません。けれど、神は確かに容器の中身をご覧になります(律法学者を見通すように〔12章38~40節〕)。

 この「神のものは神に」という生き方は、平時の備えであると同時に、世の終わりの備えにもなります。すべてを神にお献げし、御手にあると思えると、惑わされず(13章5節)、あわてることもないからです(13章7節)。

金曜 【マルコ13章14~37節】

 13章3節から続く、宮が崩壊される時の「前兆」(4節)について記されます。直接には、主イエスが語られて約40年後の、紀元70年に起きたエルサレム陥落についてのことと言われますが、世の終わりに向けてのメッセージでもあるので(このような二重の意味を含む預言は聖書によく見られます)、今の私たちも「よく読みとる」(14節)必要があります。

 「何もかも前もって話しました」(23節)として挙げられた終わりの日の「前兆」。しかしよく見ると、どれも目新しいものではありません。有史以来、戦争や民族紛争は絶えることなく、地震や飢饉も世界のニュースから消えることはありません。偽キリストや偽預言者も、次から次に・・・。前兆だらけです。いつ世の終わりが来てもおかしくない状況です。

 それに、人は自分がいつ死ぬか知りません。地上の歩みが終わり、主イエスにお会いするという意味では、世の終わりも、人生の終わりも、その人にとっては同じ「その日、その時」(32節)です。

 だから、どちらの「終わり」が先に来てもよいように生きたいと思います。主イエスはおっしゃいましたから。「わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい」(37節)

土曜 【マルコ14章1~16節】

 「祭りの間はいけない」(2節)と謀議されていましたが、ユダの裏切りもあり、逮捕・十字架は祭りのただ中で起きました。
 過越の祭りは、出エジプト記12章1~14節の出来事に端を発し、奴隷から解放され、約束の地へ導いてくださった神のみわざを記念して、毎年、現在の太陽暦で3~4月頃(イースターの頃)に行われます。祭りでは、傷のない1歳の雄の子羊(またはヤギ)をほふり、血を家の門柱とかもいに塗ります(肉は家族で食べます)。これは、出エジプト時の最後の災いである神のさばきの渦中、子羊の血の塗られたイスラエルの家だけは、さばきが過ぎ越された出来事に由来します。

 傷のない子羊の血によってさばきを免れる。過越の子羊は、神の子羊キリストをあらかじめ示す「モデル(型)」(第一コリント5章7節)だったことが、十字架の後にわかります。
 しかし当然ですが、十字架の前は明らかではありませんでした。「わたしの客間はどこか」(14節)とおっしゃったときの、主イエスの胸中を知る弟子はいなかったのでしょう。「罪のあがないのためにほふられる、わたしの間はどこか」
 後を知る私たちには、そのようにも聞こえます。

 今日の箇所では、“過越の祭り”のための、それぞれの用意が描かれています。
 祭司長たちの、逮捕・殺害の用意(1・2・11節)。
 ひとりの女の、主体的な、埋葬の用意(8節)。
 弟子たちの、命じられての、過越の用意(16節)。
 そして、十二弟子のユダの、用意。

参考文献

  • R. A. コール:著/山口昇:訳『マルコの福音書(ティンデル聖書注解)』(いのちのことば社、2004年)
  • 山口昇「マルコの福音書」『新聖書注解・新約1』(いのちのことば社、1973年)
  • 山口昇:監修『新エッセンシャル聖書辞典』(いのちのことば社、2006年)

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