新約 第9週
マルコ福音書7章1節~10章34節

日本同盟基督教団 多治見中央キリスト教会 牧師
山本 陽一郎

2007年2月24日 初版

【日曜】 マルコ福音書7章1~23節

 7章は、汚れときよめがテーマです。話は、イエス様の弟子が手を洗わないままでパンを食べていたのを、パリサイ派の人々や律法学者たちが咎めたことに始まります。ユダヤ社会には、3~4節に一部があげられているように多くのきよめのしきたりがあり、特にパリサイ派はこれらを堅く守ろうとする人々でした。手を洗うといっても、衛生を目的とした行為ではありません。まったく宗教的な儀式でした。

 しかし、イエス様は彼らに向かって、そんな規定を守ったからといって人がきよめられるわけではない、と告げられたのです。そして、「人間の言い伝えを堅く守っている」だけで、彼らの心が神様から遠く離れている事実、「人間」によって張り巡らされた膨大な数の「言い伝え」によって、神のみことばが無にされている事実を鋭く突かれたのです。

 イエス様はさらに、食べ物を始めとして、「外側から人にはいって、人を汚すことのできるものは何もありません」と明言されました(15節)。汚れときよめは、心の外側でなく、“内側の問題”です。人から出て来るもの、すなわち心の中にある汚れが、外に現れて人を汚すのです。

 日本にも、「身を清める」とか、「塩をまいて清める」といったように、不吉なものを取り除いて清めるという思想があります。しかし、いくら外側を整えても、自分の心の問題を解決しなければ、人間は本当にきよめられることはできません。では、どうしたら心の汚れを解決できるのでしょうか。それは、主イエス・キリストのもとに行くことです。このお方だけが、私たちをきよくし、神様によって新しく生まれさせることができるのです。

【月曜】 マルコ福音書7章24節~8章10節

 イエス様はガリラヤを去り、異邦人の地方へ入って行かれました。すると、それを聞きつけたスロ・フェニキア生まれの女性(異邦人)がイエス様のもとへ駆けつけて来てひれ伏し、自分の娘から悪霊を追い出して下さるようにと必死で願い続けました。ところが、イエス様はそれを退けられたのです(27節)。「子どもたち」はユダヤ人、「パン」は福音を意味しており、「小犬」とは当時のユダヤ人の習慣で異邦人を指すものでした。たしかに、パンをまず子どもたちに与えるのは当然です。イエス様は、これらの表現をあえて用いて、現時点では、福音はまずユダヤ人に届けられなければならないことを彼女に伝えられたのです。

 しかし、彼女も引き下がりませんでした。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます」と、あきらめずイエス様に食い下がったのです(28節)。その信仰をイエス様はご覧になって、彼女の願いどおりに娘を癒されたのでした。
 私たちも今日、主の前にへりくだりましょう。それと同時に、このお方に心から求め、信頼を寄せていきましょう。主は私たちの信仰を見ておられるのです。それに応える祝福を用意して、待っておられるのです。「主よ、私にはあなたが必要なのです」

 8章1~10節には、6章30節以下に続いて再びパンの奇蹟が記されています。空腹を抱えた群集を心配されるイエス様のことばは大変印象的です(8章2~3節)。イエス様は彼らを深く憐れみ、たましいと肉体の両面において養って下さいました。私たちの日々の歩みも、主の愛の配慮によってあらゆる必要が満たされていることを覚えましょう。

【火曜】 マルコ福音書8章11~38節

 イエス様はこれまで、人々に神の国の福音を宣べ伝え、多くの奇蹟、数え切れないほどの癒しのわざを行なってこられました。直前にも4,000人(これは女性・子どもを除いた数)の給食の奇蹟を行われたばかりです。にもかかわらず、なおもパリサイ派の人々はイエス様に対し、天から遣わされたメシヤであることのしるしを見せるよう求めました。

 何を見、何を聞いたとしても、悟ろうとせず、信じようとしない不信仰を彼等のうちに見たとき、イエス様は霊的に深い嘆きを覚えられたのです(11~12節)。敵対者たちだけはありません。弟子たちもまた、霊的な理解力が鈍く、「まだ悟らないのですか」と繰り返しイエス様に言われる状態だったのです(13~21節)。これらの記事は、男の耳が開かれ、舌のもつれが解かれた癒し(7章31~37節)、見えなかった人の目が開かれた癒し(8章22~26節)の出来事と対照的に描かれています。
 私たちの信仰の耳や目はどうでしょうか。イエス様に向かって開かれているでしょうか。

 8章27節以降に記されたピリポ・カイザリヤでの出来事は、マルコの福音書のひとつのクライマックスと言える部分です。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」(29節)。重要なのは、人がどう言っているかではなく、私たち自身がイエス様を誰だと言うかです。ペテロが答えました。「あなたは、キリストです」。弟子の口から初めて、イエス様に対する信仰の告白がなされたのです。

 しかし、そのペテロは直後に、イエス様から「下がれ、サタン」とまで言われて厳しい叱責を受けることになります(31~33節)。イエス様とは“どんなメシヤであるか”ということが決定的に重要なのです。政治的・地上的英雄としてのメシヤを思い描いていた弟子たちにとって、ご自身の受難と復活についてはっきりと教え始められたイエス様のことばは、到底理解も受容もできないものでした。人間的な気遣いの虜となって、神様のみこころに逆らい、ご自分をいさめようとしたペテロの中に、イエス様はサタンの働きを見られたのです。

 さらにイエス様は、群衆も弟子たちと共に呼び寄せて教えられました(34~38節)。信仰とは頭の中の話ではなく、ご利益でもなく、アクセサリーや個人の趣味でもありません。自分自身の全存在をかけて、イエス・キリストに従っていくことです。イエス様のことばは、終末の時代に生きる私たちにとって、ひとつひとつが深く響いてくるものではないでしょうか。

【水曜】 マルコ福音書9章1~13節

 6日後、イエス様はペテロとヤコブとヨハネを伴って高い山に登られました。ピリポ・カイザリヤの北東20kmのヘルモン山(標高2,800m)であると考えられます。そこでイエス様の姿が栄光の姿に変貌するのを、3人の弟子たちは目撃することになったのでした。
 この変貌は、神の子であるイエス様の隠された(本来の)栄光を示すものでした。それと同時に、復活され、やがて再臨されることを宣言された(8章38節)ご自身の栄光の姿、究極的勝利をあらかじめ示すものでした。

 その衣が白く光り輝いていたことが強調されています(3節)。かつてシナイ山でモーセが神様の栄光を反射して輝いたことを想起させます(出エジプト34章29~30節)が、イエス様の輝きはモーセとは違って反射ではなく、ご自身の神の栄光そのものでした。
 イエス様と語り合うエリヤは預言者の代表者、また終末の時を告げる先駆者。そして、モーセは律法の代表者です。ここにはイエス様が旧約聖書の預言の成就であること、神から遣わされた、約束されたメシヤであることが示されているのです(4節)。

 ペテロは気が動転してしまい、幕屋を3つ作ることをとっさに提案しますが、これはイエス様をモーセ、エリヤと同列に並べる誤った考え方に基づいていたと言えます(5節)。そこに、湧き起こる雲の中から神様の御声が響きます。「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」。イエス様のバプテスマの時(マルコ1章11節)のように、父なる神様はただひとりの御子についてあかしされたのでした。イエス様の受難の予告、「苦難のメシヤ」に衝撃と困惑をおぼえていた弟子たちに、イエス様の神性、栄光に満ちた姿が示されたのです。

 ペテロは生涯、この出来事を忘れることがありませんでした。彼の信仰と宣教の原動力として、栄光のキリストはその心に刻みこまれたのです(第二ペテロ1章16~18節)。

【木曜】 マルコ福音書9章14~32節

 山を降りてこられたイエス様を待っていたのは「不信仰な世」の現実でした。少年がいやしを求めてイエス様のところへ連れて来られ、山に行かずに残っていた弟子たちが汚れた霊を追い出そうと試みたのですが、彼らは以前にイエス様からその権威を授かっていた(6章7節)にもかかわらず、できませんでした。そして、律法学者たちと論じ合っていたのです。

 「いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう」。十字架に向かって歩むイエス様は、弟子たちの相変わらずの不信仰ぶりを嘆かれました(19節)。
 イエス様のもとへ連れてこられると、少年は引き付けを起こし、あわを吹きながら転げ回りました。父親は「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください」と願いますが、イエス様は「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」と語られます。神にとって不可能はありません。イエス様が問われているのは、私たち人間の信仰なのです。「信じます。不信仰なわたしをお助けください」。イエス様は父親の信仰にこたえて、息子から汚れた霊を追い出されました。

 それにしても、なぜ、弟子たちには霊を追い出せなかったのでしょうか。イエス様は、「祈りによらなければ」、つまり、神様との深い交わりの中で神様の力を受けなければ、決してこれを行うことはできないと教えられました。神様の力は、神様を心から信頼する者をとおして働くのです。逆に、不信仰は人を無力にし、無益な議論を繰り返させます。
 イエス様は弟子たちに向かって、繰り返し、ご自分の受難の予告をされます(30~32節)。

【金曜】 マルコ福音書9章33節~10章12節

 十字架に向かって歩まれるイエス様の後ろで、弟子たちが論じ合っていたのは、この中でだれが一番偉いかということでした。彼らは自分たちのことだけを考えていたのです。それは、イエスが先にお示しになった、自分を捨て、自分の十字架を負う生き方とは正反対のものでした。しかし、これは決して弟子たちだけに見られるものではなく、一番上になろうとする、この世の縮図であると言えます。

 イエス様は語られました。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい」(35節)。
 当時、子どもは社会的にはとても低く見られていました。子どもだけでなく、弱い者、小さな存在を受け入れるためには、そこまで自分を低くし、降りていくことが求められます。しかし、その生き方こそ、イエス様を受け入れることであり、神様を受け入れる祝福の姿勢であると教えられたのです。

 ともすれば社会では、勝ち残る者こそが最も偉いとされます。人を蹴落としてでも上へ向かおうとする力が働いています。しかし、それとは正反対の生き方、そして死に方をされたお方がいるのです。このお方のことばを、私たちは受け止めていかなければなりません。
 41節以下では、愛の配慮について語られています。私たちの内につまずきとなるものがあるなら、それを捨てるようにと教えられます。私たちのために他の人が失われることのないようにということです。教会でも、社会でも、このことばを受け止めていく必要があります。

 イエス様と弟子たちは、ガリラヤから南下し、ヨルダン川を渡ってペレヤ地方に入りました(10章1節)。ここで再びパリサイ派の人々がイエス様を陥れようと質問して来ます。
 テーマは結婚と離婚です。イエス様が語っておられるように、結婚は神様が結び合わせて下さるものです。夫婦がひとつとなること、人はこれを引き離してはならない、というのが、変わることのない神様の御旨です。
 敵対者の念頭にあるのは申命記24章1節の離婚に関する律法ですが、これは離婚を法的に規制し、人(特に女性)を守るために定められたものであって、決して神様が離婚を望んでおられるわけではありません。
 イエス様はあらためて、結婚に関する神様のみこころを教えられたのです。

【土曜】 マルコ福音書10章13~34節

 当時の社会で価値を認められていなかった幼い子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福されるイエス様の姿は大変印象的です。子どものように、自分の弱さや欠けを認める者たちこそ、神の国に入ることができるのだとイエス様は教えられました。

 「永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいのでしょうか」(17節)。イエス様にこう質問した人は、とても誠実に、また真剣に求めてはいましたが、自分の努力で神の国に入れると考えていました。事実、イエス様が十戒を語られると、自分はそれらを全て守っていると答えています。しかし、すべてを捨てるように求められた時、この人は、イエス様に従うために自分の富を手放すことができず、そこから立ち去ったのでした。

 「あなたには、欠けたことが一つあります」(21節)。これは、あともう一つというものではなく、この一つのためにすべてを無にしているという一事なのです。自分の欠けや問題に気づいていても、その解決を今までの生き方の延長線上でとらえている限り、救いを受けることはできないということです。あるいはまた、自分には影響がないような距離でイエス様と係わっていても、求めている解決には届かないということです。

 私たちは、自分の富や力では、神の国に入ることはできません。救いを受けるために必要なことは、一つです。主イエス・キリストに向かう方向転換なのです。
 人の持つ何かではなく、神様だけが人を救うことができます。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです」(27節)。

 イエス様のために、また福音のためにすべてを捨てて従う者に対して、神様がどれほど豊かな報いを与えて下さるかをイエス様は教えられました。そういう人はこの世でも大きな祝福を受けるだけでなく、「後の世では永遠のいのち」を受けることを約束されたのです。これから向かわれる受難、そして復活について具体的に語られる主イエス・キリストのことばを、私たちは自分のこととして受け止めていく必要があります。