新約 第8週
マルコ福音書2章23節~6章56節

日本バプテスト教会連合 千葉ニュータウン衛星教会 牧師
東京基督教大学 男子寮主事

木森 隆

2007年2月16日 初版

【日曜】 マルコ福音書2章23節~3章19節

「人が大切にされるために」

 安息日はユダヤの休息の日です。休息といっても食べないでいるわけではありません。食糧の用意がなければ自分で調達してもいいはずです。麦畑で穂を摘むことは誰であっても許されていました。どの日に何をするかは主イエスに聴くべきです。
 安息日はまた礼拝の日でもありました。神を礼拝する場所でいつも隅に追いやられている片手の萎えた人がいました。パリサイ派の関心は主イエスを訴える口実を見つけること、主イエスの関心はすべての人をとおして神様の栄光が現されることでした。安息日であっても、いいえ安息日だからこそ、神様のみわざがどんな人にも現れるべきなのです。翌日に後回しせず、パリサイ派との衝突にひるまず、主イエスは安息日に善を行い、片手の萎えた人の魂を救いました。
 大勢の人が主イエスの助けを必要としていました。たくさんの病人が癒され、悪霊との戦いもありましたが、十二弟子を任命して主イエスはより多くの人に届こうとしました。誤解が広まるのではなく(12節参照)、正しく福音を伝えて神に奉仕する人は、主イエスと共にいなければなりません。聖書を読み、祈り、自分にたいする神様の御心について黙想し、主イエスとほんとうに深く交わりましょう。十二弟子の1人はイスカリオテ・ユダでした。表向きだけの弟子であってはなりません。

【月曜】 マルコ福音書3章20節~4章9節

「みこころに生きる共同体」

 どうしてこんなに物事がうまく伝わらないのだと思った経験はありませんか。主イエスの宣教もまた誤解続きでした。2つの典型がここであげられています。ひとつは主イエスの家族からのもので、みことばを伝える主イエスは気が狂ったという評判が気になって、家に連れ戻そうとしました。もうひとつは、律法学者たちからの中傷で、主イエスの悪霊の追い出しは、神の霊によるのではなく、悪霊のかしらによるというものでした。
 主イエスはまず律法学者たちに道理を説きました。サタンが内輪もめするようであれば怖ろしくないのですが、サタンは「強い人」であって、神の力によって縛り上げなければなりません。主イエスを誤解し、神を汚すような発言をすることもあるでしょう、しかし聖霊があなたを信仰に導こうとするとき逆らうならば取り返しがつかなくなるのです。
 さて母と兄弟たちは主イエスを連れ戻そうとしましたが、あたかも無視されたかのようです。しかし主イエスは肉親の情を乗りこえただけでなく、このとき「もうひとつの家族」を構想されました。35節「神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」。血縁やしがらみではなく、神の御心を行うことによってできる共同体、すなわち教会、神の家族です。神の御心を行うとは、主イエスのそばに座って、主イエスを仰ぎ、主イエスに聴こうとすることです。教会は礼拝共同体であって、神のことばがどう語られ、どう聴かれていくかということが大切なのです。主イエスは湖の畔で、まず種蒔きのたとえを話されました(4章1~9節)。

【火曜】 マルコ福音書4章10~34節

「聞く耳のあるものは聞きなさい」

 「聞く耳のある者は聞きなさい」(9・23節)と主イエスは言われました。主イエスが語っても聞く耳のない人がいるのでしょうか。残念ながらいるのです。
 主イエスは、イザヤ書6章9節を引用して、知覚に情報が入ることと、心で了解することは別だと言われました。そして他のことはともかく、主イエスのことばがわかるということは肝心なことです。それは私たちの救い、神の国ということと関係するからです。
 「道ばた」のような頑固さではなく、「岩地」のような浅はかさでもなく、「いばらの中」のような二心でもなく、神の国のことばを、聴き、深く受けいれ、「30倍、60倍、100倍の実を結ぶ」ことが私たちにできるでしょうか。ひとつは、必ずわかると信じて聞くことです(21~22節)。また、神からのことばなので、真剣に、そして大いに期待して聴くことです(24~25節)。そしてみことばを聴いた結果は、神様にゆだね(26~29節)、大きな成長を見るのです(30~32節)。2003年に出た養老孟司の新書『バカの壁』は今なお売れているようですが、霊的「バカの壁」ができないよう、「主よ、教えてください」と祈りつつ、みことばを聴きましょう。

【水曜】 マルコ福音書4章35節~5章20節

「ほんとうに恐るべき方」

 普通の感情からいえば恐怖を抱くしかない出来事が連続する今日の箇所です。まず大自然の脅威であって、弟子たちの乗った湖上の舟を突風が襲います。主イエスは舟が水でいっぱいになっても舟の艫のほうで枕をして寝ておられました。弟子たちは悲鳴を上げます。人間は死を恐怖します。しかし主イエスは風と波をしかりつけ、大きな凪にしてしまい、弟子たちに「信仰がないのはどうしたことか」と言われます。弟子たちは大きな恐怖に包まれ、主イエスにますます心を向けるようになります。
 ゲラサ人の地に入ってからは1人の悪霊憑きの存在がまず恐怖でしょう。いのちは生きるために使うはずなのに、この者は破壊のために用いています。汚れた霊とは、そのように矛盾に満ちた存在なのです。しかし主イエスはこの男を怖がらず、かえってこの男が主イエスに怯えるのです。たくさんの悪霊に憑かれた男は主イエスによって解放され、乗りうつった悪霊は2,000匹の豚を死なしめてしまいます。ゲラサ地方の人たちは、正気に返った人と、おぼれ死んだ豚を見て、主イエスに恐怖します。そしてこの地方から出て行ってくださいと願うのです。主イエスは去りますが、悪霊から解放された男が主イエスのことをゲラサ地方に言い広めはじめます。
 主イエスは自然よりも悪霊よりも強く優れたお方です。主イエスによって大きな脅威から救われた者は、より敬虔になり、また主のみわざを証しする者となるでしょう。

【木曜】 マルコ福音書5章21~43節

「時間のなかで主は働かれる」

 病の癒しを必要とした2人の女性の話です。1人は会堂管理者ヤイロの娘12歳。もう1人は12年間長血を患う女性です。同じ12年でも2人の境遇は著しく違い、1人は、有力者(会堂管理者)を父に、周囲から愛されて、裕福な娘時代。もう1人は、多くの医者にさんざん非道い目に遭い、お金を使い果たし、あいかわらず病に苦しむ、もう若くはない孤独な女性。同じ地方、同じ時代に生きる同じ時間にも、大きな違いがあるようです。
 でも同じことがあります。人生で幸せそうでも不幸なようでも死は必ずやってきます。そして若いヤイロの娘のほうに突然それが訪れたようです。父親はひれ伏して主イエスに来ていただこうとします。一刻の猶予もないはずです。
 しかし主イエスは自分の力が出ていくのを知ると、割り込んだその人を捜します。急いでいるはずなのに、慢性の病が癒えた女性と話そうとします。主は御心でしたら、他の人をおいてでも、あなたのたましいの状態にまで深く関わろうとする方です。
 さてヤイロの娘は死にました。途中で時間を食いすぎて間に合わなかった。いいえ、主は思いもよらない方法、「タリタ、クミ」の声をもってヤイロの娘は生き返りました。一度に2つの大きなことはできません。主もまた、ひとつ、またひとつとやっていかれた。手遅れのように見えても、主の御心はすべての人にとっての最善をなすのです。

【金曜】 マルコ福音書6章1~29節

「不信仰な世界で」

 評判が高くなることと、信仰が呼び起こされることは違います。たくさんの効果的な宣伝をし、耳目を驚かせたとしても、主イエスに躓く人はいるのです。
 主イエスが育った郷里、ナザレの町の人たちは、自分たちは主イエスを充分知っているという慢心のゆえに、主に躓きました。
 またバプテスマのヨハネの説教を聞いていた国主ヘロデ・アンテパスも、罪は認識しても、神への信仰に向かう悔い改めには至らず、ただ過去の罪におののくのみでした。過去の罪とは、踊りに浮かれたことばの勢いで、神の人を斬首するという愚挙でした。人はどうして、人を恐れて、神を恐れず、罪に罪を重ねていくのでしょうか。
 そんななか、王も庶民も躓きに汚染された不信仰な世界へ、あの選ばれた12人の弟子が宣教へと派遣されるのです。2人1組、必要最低限の備えのなかで一宿一飯にあずかり、拒まれることも覚悟して、神の国を伝え、悪霊を追い出し、病人をいやしたのです。不信仰な世界のなかで、ひるむことなく捨て身で宣教している人たちが、今もいることを覚えます。私たちもまた遣わされてこの世に出て行ってまいりましょう。

【土曜】 マルコ福音書6章30~56節

「弟子たちの休息は嵐の後に」

 宣教小旅行より戻った十二弟子たち(ここでは使徒と呼ばれています)は、主イエスより離れて休息をとるよう命じられます。神の尊い働きであっても、あるいは尊い働きであるからこそでしょうか、関わらなければならない人々から離れ、心身を休める必要があります。
 ただその意に反して、多くの群衆は、さらに押し寄せ、「牧者のいない羊のようだ」と主イエスの(腸がちぎれそうなほどに)深いあわれみを誘うのでした。いろいろと教えて時刻が遅くなったとき、主イエスは5つのパンと2匹の魚で男だけで5,000人の人を養います。霊的な糧だけではなく肉体の糧を必要とする人が、主イエスによって満たされ、さらに12篭の余りを見るほどに祝福された出来事でした。主イエスは弟子たちを強いて舟に乗りこませ、ご自分は岸辺に残り群衆を解散させます。弟子たちにはそれほどに休養が必要だったのです。主イエスは、群衆の、そして群衆に奉仕する弟子たちの牧者として立っていてくださいます。
 弟子たちは嵐のガリラヤ湖でもうひとつの大きな経験をいたします。主から離れて湖上に乗り出したのはやむを得ないことだったのですが、主から離れた自分たちの無力、格別に、主のわざから悟ることのできない自分たちの不信仰を知ることになります。主はもしかしたら弟子たちにそのような方法で実相を知らせようとしたのではないでしょうか。自分たちの臆病、怠慢、不信仰、無力を知って「恐れることはない、わたしだ」と言われる方を受けいれ直すこと。それが魂の深いところが癒される、真の回復になるのではないでしょうか。