新約 第7週 マタイ福音書26章69節~マルコ福音書2章22節
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OM日本 スタッフ
大庭 恵里
2007年2月9日 初版
【日曜】 マタイ福音書26章69節~27章14節
【1】 イエスを裏切った2人の弟子
「私は決してつまずきません」(33節)、「私は、あなた(イエス)を知らないなどとは決して申しません」(35節)と断言したペテロでしたが、結局はイエスを見捨てて逃げ出します。しかし捕えられたイエスのことを心配して、こっそりと大祭司の中庭で裁判の様子を伺っていたのでした。そんな時、その場にいた人々にペテロがイエスの仲間であることがばれ、ガリラヤなまりまで指摘されます。これに対しペテロは、「何を言っているの分からない」とごまかし、「そんな人は知らない」と誓い、最後はのろいをかけてまで誓ってしまいます。小さなごまかしは、イエスを否定するという大きな罪へと膨らんでいきました。その時、鶏が鳴きました。ペテロは「鶏が鳴く前に私を三度裏切ります」(34節)と言われたイエスの言葉を思い出し、激しく泣きました。
イエスの逮捕から一夜明け、ユダヤ人宗教指導者たちはイエスを死刑にするため2度目の協議を行い、地方総督ピラトにイエスを引き渡しました。イエスが罪に定められたことを知り、ユダはイエスを裏切ったことを後悔します。銀貨30枚を祭司長たちに返そうとしますが、彼らは受けとることを拒否します。ユダはそのお金を神殿に投げ込み、首をつって自殺しました。ユダは銀貨30枚でイエスを裏切って宗教指導者たちに売り渡しました。これは当時、奴隷ひとりを買う値段で、イエス、ひいては神様の価値を値積りされたものでした。祭司長たちはそのお金で陶器師の畑を買い、旅人たちの墓にしました。これは、エレミヤ32章6~9節とゼカリヤ11章12・13節の預言が成就したものです。
ユダは後悔はしましたが、自分の犯した罪を悔い改めず、神に赦しを求めず、自ら命を絶ちました。しかし、ペテロは後に三度イエスを否定した罪を悔い改め、赦され、再び使徒として用いられるようになったのです。
【2】 イエスの裁判
死刑執行の権限を持つローマの地方総督ピラトは、イエスが「王」という表現で反ローマ的政治犯であるかを確かめることから審問を始めます。「あなたはユダヤ人の王ですか」(11節)という問いに、イエスは「その通りです」(11節)と答えられます。「私の国はのこの世のものではない」(ヨハネ18章36節)とも答えておられように、イエスはこの地上の政治的な王ではなく、霊的な王、すなわち救い主として永遠の王座に着く王であることを意味しています。その後、祭司長や長老からは不利な証言が出されましたが、イエスは沈黙を守られ、ご自分を弁護されることはありませんでした。ピラトは普通の犯罪人とは異なるイエスの態度に非常に驚きました。
【月曜】 マタイ福音書27章15~44節
【1】 イエスの裁判
イエスの裁判は続きます。ピラトは宗教指導者たちがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていました。また、ピラトの妻は夢を通してイエスの無罪を緊急の伝言として伝えます。しかし、群衆は宗教指導者たちに説得され、慣習として過越の祭りに釈放する囚人にバラバを求め、「イエスを十字架につけろ」と叫びました。ピラトは「あの人がどんな悪いことをしたというのか」(23節)とイエスを釈放する努力をしますが、群衆の暴動と自分の立場が危うくなるのを恐れ、イエスの血の責任を放棄します。それに対してユダヤの人々は「イエスの血は自分たちと子供たちの上にかかってもよい」(25節)と答えましたが、最終的な決定を下したのはピラトで、イエスをムチでうち、十字架につけるために引き渡したのでした。
【2】 イエスの十字架
イエスはマントとイバラの冠と葦の棒で王と見立てられ、ユダヤ人の王様万歳とからかわれました。そして、つばをかけられ頭をたたかれる中、一歩一歩、十字架へと進んでいかれます。ゴルゴタと呼ばれる処刑場で、イエスは、手足に釘を打ち付けられる痛みを麻痺させる、苦味を混ぜたぶどう酒を拒まれます。それは十字架の痛みを最後まで耐え尽くすためでした。それから、イエスは十字架につけられました。道をゆく人、宗教指導者たち、いっしょに十字架につけられた2人の強盗も、イエスをあざけりました。彼らは、イエスが、他人を救うからこそ自分を救わないことを知りませんでした。イエスは罵り返さず、自分を罵る罪人の罪を代わりに背負って、その刑罰にじっと耐えたのです。
【火曜】 マタイ福音書27章45~66節
イエスは午前9時に十字架につけられ(マルコ15章25節)、午後3時ごろ、息絶えました。全地が暗くなったのは、出エジプトの地で神が裁きのために下された暗黒と同様、罪に対する神のさばきの象徴です。イエスは十字架の上で7つの言葉を残されましたが、マタイによる福音書では「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(46節)のみ記されています。天の父との親密な交わりにあったイエスが見捨てられたのは、人の罪を背負い、のろわれた者となったからです。それでもなお、イエスは「わが神」と呼び、父に対する信頼を捨てませんでした。十字架の上でイエスの口から出た「完了した」(ヨハネ19章30節)という言葉は、私たち全ての人の罪のため贖いが達成されたことの宣言でした。イエスの死は、罪人が負うべき死刑の罰を代わって負われた「いけにえ」(ヘブル9章23~28節)、人の罪に対する神の怒りを取り除く「なだめの供え物」(ローマ3章25節)、神と人の間にある壁を取り除く「和解」の行為(エペソ2章13~16節)、束縛と不自由の状態から代価を払って解放する「贖い」なのです。
イエスが息を引き取られたとき、3つの象徴的な現象が起こります。
- 神殿の幕が上から下まで裂けた
神殿の幕は聖所と至聖所を仕切る幕であり、大祭司が年に一度、贖いの日にいけにえの動物の血を携えて、この幕を通って至聖所に入り、人々の罪を贖うことができました。しかし、イエスによる贖いが完成した今、神と人とを隔てていた幕は永遠に取り去られ、イエスを救い主と信じる私たちはキリストの血によって、大胆に神に近づくことができるのです。
- 地が揺れ動き、岩が避け、眠っていた聖徒たちが生き返った
イエスの十字架は死に打ち勝ったことを示し、生き返らされた聖徒たちはその偉大な勝利を示しています。
- 百人隊長と兵士たちの信仰告白
十字架から始まった一連の出来事は、異邦人である百人隊長とその兵士たちに恐れを与え、信仰告白へと導びきました。
夕方になって、イエスの死体はイエスのひそかな弟子でありサンへドリンの議員である金持ちのヨセフによってひきとられました。イエスの体は、没薬とアロエを混ぜ合わせたもので塗られ、きれいな亜麻布で包まれ、ヨセフの新しい墓に葬られました。「彼は富む者とともに葬られた」(イザヤ53章9節)の預言が成就したのです。
イエスが死なれた翌日、祭司長とパリサイ人たちは、イエスの弟子たちが死体を盗み出して「イエスが死者の中からよみがえった」と民衆に言うことを恐れ、ピラトのところへ集まり、墓の番をしてもらいたいと申し出ました。ピラトは墓の石に封印をして番兵に番をさせました。
【水曜】 マタイ福音書28章1~20節
【1】 イエスの復活
日曜日の朝、マグダラのマリヤと他のマリヤが墓を見に行ったとき、地震が起こり、天の使いが現れ、石をわきに転がしました。それから、イエスが復活され、ガリラヤで会うことができると伝えます。彼女たちは急いで、喜んで弟子たちに知らせに行く途中、復活のイエスに出会い、その栄光に恐れを感じつつも、イエスの足を抱いて拝みました。
イエスの復活は、イエスが神であることを示しています。イエスは何度も自分がよみがえられることを予告され、それは事実となりました。イエスは私たちの罪を贖い、きよめるために十字架で死なれました。そして文字通り死人の中から復活したことにより、ご自身が神の御子であることを公に示されました。復活は、私たちの救いが確かなものであることを保障し、希望を与えます。イエスは初穂として死者の中からよみがえられました。同じように、イエスを信じる者の体も、やがてイエスが再び来られる時に復活し、イエスと共に永遠に生きるのです。
祭司長、長老たちはイエスが復活されたという報告を聞いて、「弟子たちが死体を盗んでいった」と番兵たちにウソの証言をさせ、そのうわさがユダヤ人の間で広まります。ユダヤ人指導者たちはユダヤ人が真理を知ることを阻んだのです。
【2】 大宣教命令
弟子たちがガリラヤで復活のイエスに会ったとき、弟子たちはイエスを礼拝しました。それから、イエスは神の子としての権威において、弟子たちに命令を与えました。
- 行って、あらゆる国の人を弟子とする
イエスの公生涯においては、イスラエルの民に伝道することが主体でしたが、イエスの復活後はその枠がはずされ、あらゆる国の人々に福音を宣べ伝えるよう命令されました。こうして、弟子たちは「地の果てにまで」(使徒1章8節)宣教に行って、人々をイエスの弟子としたのです。
- 父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授ける
儀式としてのバプテスマではなく、神様との霊的交わりに至るバプテスマ。
- 私があなたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい
マタイの福音書に記されているような、神に喜ばれるきよい生き方を教える。
これらの命令を果たすためにイエスは最後に「見よ。わたしは世の終わりまで、いつも、あなたとともにいます」(20節)と弟子たちを励まし、約束を与えました。弟子たちはやがて、さらに聖霊の力を受けて、このイエスの大宣教命令に着手しました。そして、イエスの十字架と復活を信じる私たちも、弟子としてその働きを担っていくべきです。このように、「世の終わり」にイエスが再び来られる時まで、この宣教の働きは忠実に続けられていくのです。
【木曜】 マルコ福音書1章1~20節
【1】 宣教の備え
マルコの福音書はイエス・キリストが救い主であることを宣言するところから始まります。
イエスはおよそ30歳になったとき、故郷のナザレを出て、公の伝道を開始されます。そして、その働きのために必要な備えがありました。
- バプテスマのヨハネの出現
ヨハネは、イエスの母マリアの親戚エリサベツから生まれ、荒野で成長しました。先駆者として、イエスの道を備え、救い主の到来を宣言しました。それはイザヤ書の預言が成就するためです。道を備えるとは、人々に罪を悔い改めさせ、救い主へと心を向けさせることです。
- イエスのバプテスマ
マタイの福音書によると、罪無きイエスに罪の悔い改めを表わすバプテスマを授けることをヨハネはためらい、止めようとしました。しかし、ここでイエスがヨハネから洗礼を受けたのは信者の模範としてのバプテスマでした(マタイ3章15節)。信じる者はイエスの模範に習い洗礼を受ける時、同じように天において喜びの声がわきおこるのです(ルカ15章10節)。
- 荒野における誘惑
イエスは40日間、荒野で悪魔の誘惑を受けられました。荒野は寂しい場所で、神と向き合うための場所です。
【2】 宣教の始め
ヨハネが捕えたれた後、イエスはガリラヤでの伝道を開始され、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。旧約聖書全体を通して待望されている罪からの救い主が、今まさに到来し、その救いのみわざを成就しようとしておられる。神の国がもうそこまで来ているその喜びのメッセージを、イエスは宣言しておられます。
イエスの福音宣教は4人の人を招き、彼らが従うところから始まります。ガリラヤ湖で働いていた4人の漁師たちがイエスの最初の弟子となりました。彼らはイエスに呼びかけに、生活の手段である網を捨て、家族を残してすぐに従いました。
【金曜】 マルコ福音書1章21~45節
【1】 カペナウムの一日
ここではイエスの宣教の特徴的な働きが紹介されています。
- 教えること
律法学者とは異なる新しい教え。
- 悪霊追放
イエスには、悪霊に出て行けと命じる権威がありました。悪霊はイエスを恐れ、イエスに従いました。人々はこのような新しい質の教えを体験したことがなく、驚きましたが、イエスが誰であるのか分かりませんでした。この本質、すなわちイエスが神であるということを見抜いてるのは悪霊だけでした。
- いやし
様々な病人がイエスによっていやされました。
あわただしい一日が終わると、翌朝はやくイエスは荒野に退かれ、祈られました。神様に遣わされ、父なる神の御心を食物とされるイエスの姿がここにあります。
そしてまた、「さあ・・・そこにも・・・」(38節)とイエスは弟子たちと一緒にガリラヤ全土を巡られました。
【2】 ツァラアトに冒された人をきよめる
ツァラアトに触れれば、その人も汚れると言われていました。しかし、イエスは手を伸ばし、その人に触れ、きよめられました。イエスは、人々がイエスが罪の贖いを成就する救い主として正しく理解できないまま、奇蹟のわざを通して「うわさ」が広がることを警戒しました。しかしイエスのうわさはどんどん広がり、人々はあらゆるところからイエスのところにやってきました。
【土曜】 マルコ福音書2章1~22節
カペナウムの家でイエスが教えておられるとき、突然屋根がはがされ、上から中風の男が床に寝かされたままの状態でつり降ろされてきます。この背後には、男の絶望的な病と4人の友情、そして彼らの、病をいやすイエスへの信仰があります。イエスは男に「あなたの罪は赦されました」と宣言します。律法学者たちをはじめ、その場に居合わせた人々は、一体イエスは何者なのだろうと疑問を持ったに違いありません。
イエスの来られた目的は、罪の赦しであって、病のいやしはその権威のしるしに過ぎませんでした。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(17節)罪を赦す権威を持っておられるというのは、ご自身の十字架の上での死を前提にしていることを忘れてはなりません。自分の行ないで救われるのでのはなく、イエスの十字架という身代わりの死によって罪が赦されるとは、誰も思いもつかないことでした。これは律法により義と認められようとするユダヤ教という「古い服、古い皮袋」には相容れない、全く新しい神のご計画でした。今日の私たちはどうでしょうか?自分の努力や善行によって神に認められようとし、またそれができない自分の力の無さにがっかりしたりと、古い皮袋にとらわれている自分の姿がないでしょうか?
参考文献
- 増田誉雄「マタイの福音書」『新聖書注解・新約1』(いのちのことば社、1973年)
- 山口昇「マルコの福音書」『新聖書注解・新約1』(いのちのことば社、1973年)
- 山口昇『マタイの福音書(新聖書講解シリーズ)』(いのちのことば社、1983年)
- 泉田昭『マルコの福音書(新聖書講解シリーズ)』(いのちのことば社、1982年)
- 内田和彦「マタイの福音書」『実用聖書注解』(いのちのことば社、1995年)
- 藤本満「マルコの福音書」『実用聖書注解』(いのちのことば社、1995年)
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