新約 第6週
マタイ福音書24章1節~26章68節

東京基督神学校 東京基督教大学 講師
岩田 三枝子

2007年1月30日 初版

【日曜】 マタイ福音書24章1~28節

 21章23節から続いていたイエス様の長い話も終わりました(1節)。これまでは祭司長、民の長老、パリサイ人、サドカイ人、群集、弟子たち、とあらゆる種類の人々に向けて話しておられましたが、今度はイエス様と弟子たちだけの、「ひそかな」(3節)親密な場です。立派な建物が崩れてしまう、と聞いてびっくりした弟子たちは、「いつ、そのようなことが起こるのでしょう」(3節)とこっそり聞いたようです。

 そこでイエス様は「世の終わり」(3節)の前兆(4~14節)、その日のこと(15~28節)、そしてその日の直後のこと(29~36節)についてお話くださいます。「その日までは、こんな変な兆候がいろいろ起こるけど、あわてないようにね(4~14節)」「その日にはすぐに山に逃げなさい。荷物を取りに戻っちゃだめだよ(16~18節)」「あ、もう一度いうけど、偽預言者には絶対にだまされないで!(23~26節)」「でも、私がすぐに来るからね。稲妻のようにすぐ駆けつけるからね(27、29節)」と繰り返すイエス様の弟子達へのお言葉はまるで、これから初めて一人暮らしをする子供のためにお母さんがあれこれと心配し、気を回し、「こういうセールスマンが来たら、ドアを開けちゃだめよ」「もし風邪を引いたら、生姜湯を飲んでちゃんと寝るのよ」「何かあったらすぐ電話しなさいよ」と繰り返しているような、イエス様の弟子たちに対する思いやりが伝わってくるように感じられます。

【月曜】 マタイ福音書24章29~51節

 イエス様は続いて、その日の直後のことを語ります。「人の子のしるし」(30節)を見上げた人々の目は「悲しみ」(30節)に満ちている、と言います。その悲しみの目は、苦難の中に生きてきた証拠でもあるかのようです。アフリカの飢餓の中で苦しむ母と子が、力なく遠くを見つめて座っている写真を見たことがあります。飢餓の苦難での中で生きてきたその母親の目が、この箇所を読む私の脳裏に浮かんできます。

 イエス様が来られる日。それは「思いかげない時」(44節)です。その突然さを、イエス様は3つのたとえでお話になります。
 1つ目は、ノアの日のように、突然に(37~41節)。さっきまでごく普通に「飲んだり、食べたり」生活していたかと思うと、もうその日が来ているのです。
 2つ目は、どろぼうが入ってくるように、ひたひたと(42~43節)。
 3つ目は、出かけていた家のご主人様が帰ってくる時のように思いがけず突然に(44~51節)。鬼のいぬまに洗濯とばかりに浮かれていたら、まさかと思うような時間に、ご主人様はもうそこにいるのです。どきり、とするような思いがけなさです。

【火曜】 マタイ福音書25章1~30節

 24章で、その日が来る思いがけなさをお話になったイエス様は、次は天の御国について語られます。

 25章1~13節のともしびを持つ10人の娘たちのたとえは、やはりイエス様の来られる日の思いがけなさを語っているようです(13節)。予定よりも遅い時間(5節)。真夜中に到着する花婿。その中で輝くともしび。イエス様の話を聞いていた弟子たちのまぶたの裏には、暗闇とともしびの光の対比が効果的に映し出されたのではないでしょうか。この情景は、世の終わりの時の月も光を放たず星も天から落ちてしまう暗闇の世界(24章29節)に現れる、イエス様の「輝かしい栄光」(24章30節)の輝きにも似ています。

 そしてイエス様は繰り返しおっしゃるのです。「目を覚ましていなさい。その日は、思いかげない時に来るのだから」(24章42節、44節、25章13節)。

 続いてイエス様はタラントのたとえをお話になります。タラントを預かると「すぐに」(16節)仕事に着手し、「よほどたってから」(19節)帰ってくるご主人様の帰還までの長い間、ご主人様の所持金を管理する忠実なしもべ。このたとえのしもべの姿には、これまでの忠実な僕のたとえ(24章45節)と、長い間その準備をして待つともしびを持った娘たちのたとえが総括されているかのようです。

【水曜】 マタイ福音書25章31~46節

 「これらの私の兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(40節)。
 この言葉にこれまでどれほど多くの人がチャレンジを受け、小さきものへの奉仕へと駆り立てられてきたことでしょうか。

 私に、仕えることの原点を考えさせてくれたひとつの詩を紹介したいと思います。

私が飢えていたとき、あなたは人道主義の機関を作り、飢えについて議論していた
私が牢にいたとき、あなたは足早にチャペルに行き、私の解放のために祈った
私が裸だったとき、あなたは私が裸であることについての倫理的問題で頭が一杯だった
私が病気だったとき、あなたは自分が健康であることを神に感謝した
私がホームレスだったとき、あなたは私に神の愛は魂の救いであることを説いた
私が孤独だったとき、あなたは私をひとりにし、私のために祈った
あなたは、まったく聖であり、神に近いように見える
けれども、私は今なお飢えており、孤独で、凍えているのです
(出典不明)

【木曜】 マタイ福音書26章1~25節

 そしてついにイエス様の十字架の時が近づいてきました。
 明日は十字架の日。

 その最後の過ぎ越しの食事の席で「この中の一人がわたしを裏切る」(21節)と言われたイエス様のお言葉に、弟子たちは「まさか私のことではないでしょう?」と悲しみの声を上げます。

 この時、イエス様を裏切るのが自分だと知っていたユダは他の弟子たちの声には加わらなかったでしょうか。その直後、「人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかった」(24節)というイエス様の言葉を聞き、「のろいだって?まさか私が?」(25節)と思わず声が出てしまったのでしょうか。ユダの、ドクン、という心臓の音と共に、大きく見開いた目が見えるような気がします。イエス様をいくらで売れるか(15節)ということに気をとられていたユダにとって、自分自身がのろいの対象となるとは想定外の誤算だったのでしょうか。

 「生まれなかったほうがよかった」とは、なんと悲しい言葉でしょう。イエス様の十字架の死のあと、死を迎えるユダ(使徒1章18節)の耳の奥には、この時のイエス様の言葉が繰り返し響いてきたのかもしれない、と思うのです。

【金曜】 マタイ福音書26章26~46節

 聖餐式のたびに多くの教会で読み上げられるであろう、主の聖餐の言葉が語られ、その後(26~29節)、イエス様たちはオリーブ山へ向かいます。弟子たちだけを集めて、最後の日の心構えをお話になったあのオリーブ山。その山に立った弟子たちの心には、「だから目を覚ましていなさい」(25章13節)という昨日のイエスの言葉が自然と思い起こされたのではないでしょうか。

 しかし弟子たちは、不覚にもイエス様がお祈りされている間、眠ってしまったようです。祈りを終え弟子たちの所へ戻ってきたイエス様は、昨日オリーブ山で繰り返された同じ言葉を再び弟子たちに告げられます。「誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈っていなさい」(41節)。

 そのようなことが3度繰り返された後、「時が来ました」(45節)とイエス様はおっしゃいました。弟子たちが目を閉じて休んでいた間に、暗闇の中にひたひたと迫ってきた「時」。その時はどろぼうのように思いがけない時に来る(24章43節)。まだまだだろう、と娘達がうとうとと休んでいる時にこそ来る(25章5節)。そのように語られた、昨日のイエス様のたとえ話が想起されるような場面です。

【土曜】 マタイ福音書26章47~68節

 31節以降、弟子たちの中で、ペテロの姿がクローズアップされています。「私は決してつまずきません」(33節)という勇敢な言葉を述べたペテロ。その言葉の後オリーブ山では、イエス様に何度も起こされながらすぐに眠ってしまいます。しかしユダがやってきた時には「決してつまずきません」との潔い言葉の通り、大祭司のしもべに悠然と立ち向かっていきます(51節)。けれども直後、イエス様を残して逃げていってしまいます(56節)。と、思いきや、ペテロはその後こっそりとイエス様について大祭司の中庭まで忍び込んでくるのです(58節)。「決してつまずきません!」の約束を守らねば、という気負いもあったのでしょうか。しかしこの後、逃げ腰になり、思わず「イエスだって?そんな人は知らない」と口走ってしまいます(72節)。

 なんとしてもイエス様に最後までついていくのだ!という熱い思い。しかしその熱き心を一瞬にしてかき消してしまう肉体の弱さ(41節)や恐れ、自分の身を守りたいという護身の思い。その2つの思いの間を揺れ動いているペテロの葛藤が伝わってきます。

 ペテロと同じように、「心は燃えていても肉体は弱いのです」(41節)というイエス様の言葉は、私たちの毎日の生活で体験しているものではないでしょうか。「小さきものの一人に仕えたい」という理想の一方で、心身の弱さや誘惑、恐れ、護身のために、その小さきものを残して逃げていこうとする自身の現実の姿との葛藤。

 「だから、誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」
 そのイエス様のお言葉がこの私の耳にも聞こえてくるのです。