新約 第5週
マタイ福音書20章1節~23章39節

イムマヌエル綜合伝道団 鶴瀬キリスト教会 牧師
長井 主恩

2007年1月26日 初版

【日曜】 マタイ福音書20章1~19節

【1~16節】

 最初の部分の「ぶどう園のたとえ話」は19章27節のペテロの質問「私たちは何がいただけるでしょうか」に対して、イエス様が確かな報いを保証された(19章29節)後に、その天の御国の根本的な原理(19章30節、20章16節)をわかりやすく説明なさった部分です。
 当時のユダヤ社会では、1日12時間働いて、1デナリの給料というものが平均的でした。早朝から雇われた人は、その「1デナリ」、9時からの人は「相当のもの」を上げると言われて雇われました。その後に雇われた人たちもいました。
 夕方になり、給料が支払われる時になると、何と最後に雇われた人から呼ばれ、しかも1デナリをしっかりもらって帰りました。早朝から働いた人たちの番になり、当然、それ以上もらえると思ったのですが、何と1デナリでした。彼らが主人に抗議した時、主人は「不当なことはしていない、ただ気前をよくしたいのだ」と答えました。
 このたとえを通して、イエス様は自分たちの功績を誇ろうとしていたペテロ(19章27節)に、神はその働きの分量に応じて人を扱うのではなく、与えられた機会に素直に神の恵みに応じる人を、等しく扱われることを示されたのでした。

【17~19節】

 次の部分はイエスさまの受難予告と言われる部分です。ここは予告の3回目(1回目:16章21節、2回目:17章22~23節)ですが、これまで以上に詳しく予告されています。だれから、どんなことをされ、だれによって十字架にかけられるかが語られています。同時に、復活の希望に向かって、イエス様が力強く「向かって」行かれる様子をうかがうことができます。

【月曜】 マタイ福音書20章20節~21章11節

【20章20~28節】

 「ゼベダイの子たち」とは、イエス様の12弟子の中のヤコブとヨハネのこと(10章2節)です。ここでは2人の「母」がお願いをしていますが、どうやら3人みんなの願いであったようです(マルコ10章35節)。その願い事とは、「天国でイエス様の右と左に座らせてください」でした。
 しかしイエス様は、彼らがイエス様に並ぶ苦難と謙遜の生涯を送る覚悟があるのか、また、イエス様の左右に座るためには、父なる神様から認められる必要があることを示され、「仕えられる」者ではなく、「仕える」心を持った者こそ、それにふさわしい者であることを、語られたのでした。
 それには、この2人のことで、同じような心で腹を立てていた他の弟子たちも、沈黙してしまったことでしょう。

【20章29~34節】

 この出来事は、3つの福音書すべてに記録されています(マルコ10章46~52節、ルカ18章35~43節)。ただ、マタイだけが「2人の盲人」(30節)としているのに対し、マルコとルカはただ1人として記しています。これは2人のうち、1人(バルテマイ)が積極的に行動し、人によく知られた人物であったためと考えられます。
 彼らの言葉「ダビデの子よ」とは、救世主はダビデの子孫から生まれるという預言を踏まえ、イエス様を救い主として信じていたことを伺わせます。
 イエス様は、あえて自分たちの願いを言わせ、心からの愛を持っていやされました。2人は、その回復した目を、イエス様について行くために、用いたのでした。

【21章1~11節】

 イエス様が遣わされた2人の弟子とは、ペテロとヨハネだったかもしれません(ルカ22章8節)。イエス様は、すでによく知られていたので、快くろばを貸してくれる人がいたようです(3節)。
 全世界の主であられるお方が、軍馬ではなく、小さなろばの子に乗られるということは、私たちの救い主イエス様がどれほど柔和で、へりくだったお方であるか、平和の王であられるかが伺えます。このイエス様の行動は、公式にユダヤ人の前に、ご自分を救い主として現されたものであり、それは同時に旧約聖書の預言が成就した時でもありました(イザヤ62章11節、ゼカリヤ9章9節)。
 「ホサナ」は「今、救ってください。」という意味ですが、ここでは「万歳!」のような意味にもとれます。しかし、本当にイエス様を霊的な、内的な救い主としてお迎えできた人は、ほとんどいなかったかもしれません。

【火曜】 マタイ福音書21章12~27節

【12~13節】

 ここは、イエス様の「宮きよめ」として知られる箇所です(マルコ11章15~17節参照)。マタイとマルコの福音書では、宮きよめは、イエス様の生涯の最後の方にあったとしていますが、ヨハネは最初のエルサレム訪問の時にあったと記しています(ヨハネ2章14~16節)。これは、2回あったためと考えられます。
 宮では、巡礼者たちがいけにえの動物を買い、神殿に納める貨幣を両替していました。そこでは商人たちが私利私欲のために、暴利をむさぼっていた状態でした。本来は、神様に心を向ける「祈りの家」であるはずの宮でしたので、イエス様は義憤を表わされたのでした。

【14~17節】

 以前ソロモンの神殿には「盲人や足なえ」の人は、入ることができませでした(第二サムエル5章8節)。
 しかしイエス様が彼らをいやすことにより、ご自身が「いけにえよりも、あわれみを好む」主であられることを示されました。子どもたちまでが、イエス様のすばらしさをほめたたえている様子を見て、祭司長や律法学者たちはねたみに燃えましたが、イエス様は詩篇8篇2節を引用され、ご自身がそうされるにふさわしい存在であられることを示されました。

【18~22節】

 イエス様も完全な神であられながらも、完全な人であられ、お腹も空けば、眠くなったり(マタイ8章24節)、涙されることも(ヨハネ11章35節)ありました。
 ここでイエス様は、実がなかったことに腹を立てて、のろわれたのではありませんでした。一見敬虔そうでありながら、実が伴わないユダヤ人たちへの視覚教材として、神様の不快を示されたようです。そして、その通りに枯れたいちじくの木を通して、イエス様は神様の知恵と力に信頼するなら、常識では不可能と思えることもさせていただけることを教えられました。

【23~27節】

 この出来事も、マタイ、マルコ、ルカそれぞれに記されています。「民の長老」とはエルサレムの最高議決機関であるサンヘドリンの議員の総称です。いわゆる「お偉い方々」が、連日のイエス様の宮きよめや、行い続けている奇蹟に腹を立て、ねたんで、挑戦してきたのでした。これに対し、イエス様は賢く対応されました(箴言26章5節)。それに対して、彼らは「天から」と言えば、イエス様を救い主とするヨハネのあかしを受け入れなければならなくなり、「人から」というと、過小評価していると自分たちが批判されていまうというジレンマに陥り、「わかりません」と逃げ口を使いました。彼らは、イエス様を封じ込めに来ましたが、逆になってしまいました。

【水曜】 マタイ福音書21章28~46節

【28~32節】

 先に結論的なことを言うと、ここで「お父さん」は神様のことです。2人の息子は、兄が45節にあるように、「祭司長とパリサイ人たち」のことです。

【33~44節】

 ぶどう園の栽培は、パレスチナではよく見られる情景でした。ぶどう園は「イスラエル」、悪い農夫は、「祭司長とパリサイ人たち」のことです。収穫を受け取りに遣わされたしもべたち(預言者たち)に対して、次々と悪を行い、最後には息子(イエス様)さえ、殺してしまうユダヤ人指導者への警告となるたとえです。42節の聖句は、詩篇118篇22節が引用されています。

【木曜】 マタイ福音書22章1~22節

【1~14節】

 「結婚の披露宴のたとえ」です。このたとえの意味は、前章に続いて、ユダヤ人たちは、神の国を味わうようにと、最初に王(神様)に招かれていたのに、「来たがら」ないで、自分たちのことばかりで頭がいっぱいでした(5~6節)。その代わり、手当たり次第に連れてこられた異邦人たちは、その周到に準備された(4節)宴会の客となったのでした。
 ところが、そこに1人だけ、礼服を着ていない人がいました。礼服は 王からあてがわれているものなので、それを身につけていないことは、王を侮辱することでもありました。神様とその御国を軽んじる者の最後は厳粛なものです。

【15~22節】

 公然とした悪い行いでは決して、イエス様の人気や評価を落とせないと知っていたパリサイ人たちは、「ことばのわなにかけようと」必死になりました。「ヘロデ党」とは、ヘロデ王朝に従順なユダヤ人の一派でしたが、「偽善」と言える下心を持ったうわべの言葉を用いて(16節)、イエス様をわなにかけようとしました。もし、カイザルへの納税を勧めれば、反ローマのユダヤ人たちの支持を失い、納税を禁止すれば、ローマ帝国に訴えるつもりでいたようです。
 しかしすべてを見抜いておられたイエス様のおことばに、彼らは驚嘆してしまいました(22節)。まさに私たちの主は人類史上最高の知恵者と言われる「ソロモンよりもまさった者」(12章42節)であられます。

【金曜】 マタイ福音書22章23節~23章12節

【22章23~33節】

 パリサイ人ほどではなかったですが、彼らと並んで宗教グループの一派であったサドカイ人は、唯物的な合理主義者で、復活や御使いを信じない人々でした。そんな彼らがイエス様をわなにかけるために、おかしな質問を投げ掛けました。
 24節にあるように、旧約聖書の申命記25章5節では、死んだ兄の家系を保ち、その財産を維持するためにも、その弟は兄嫁をめとることになっていました。28節までの彼らの質問を聞いていたイエス様は、「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです」(29節)と語られました。一宗教家として、大きな恥をかくことになりました。
 死人の復活の真理(32節)を、出エジプト3章6節からくみ取っておられるイエス様の視点に驚かされます。

【22章34~40節】

 サドカイ人たちが対抗できなかったとして、パリサイ人たちは、内心「よーっし!」と思ったかもしれません。復活も御使いも信じていたパリサイ人でしたが、やはり「ためそうとして」イエス様に質問を投げ掛けました。律法の軽重を示させ、何かにつけてつけ込もうとしていたようです。
 しかし、専門家の中の専門家であられたイエス様の、真をついたお答え(ユダヤ人たちが毎日唱えていたみことばの中から引用されました)に、彼らは権威と妥当性を認めざるを得なくなり、退散することになりました。

【22章41~46節】

 今度は、珍しくイエス様からの質問が記されています。救い主はダビデの子孫から生まれる、すなわち「ダビデの子」であるとされていました。当時も、イエス様を「ダビデの子」と呼ぶ人が少なくなかったようです(マタイ9章27節、20章30節)。
 しかし、「名は体をあらわす」とあるように、繰り返し用いられる名称には実質的なイメージもくっついてきます。イエス様はご自分を正しくとらえてほしいと思われ、詩篇110篇1節を引用して、ご自分がダビデの主(ダビデに優るお方)であられることを明確に示されたのでした。

【23章1~12節】

 「モーセの座」とは、神様の教えを教える立場にあるということで、律法学者やパリサイ人たちの教えるみことばの教えには、全面的に従うべきであるが、彼ら自身の普段の行いはまねてはいけないと、群衆と弟子たちを前にイエス様が仰られました。そして、続いてその理由が述べられています。
 一言で言うと、彼らの虚栄心と高慢による行いのためでした。「経札」や「衣のふさ」は、神のみことばを表す入れ物や飾りであり、彼らはそれらを目立たせることで、自分を敬虔であるように見せてしまっていたのでした。また、「上座」や「上席」を好み、「先生」「父」「師」などと呼ばれることを好む虚栄心をイエス様は鋭く非難されました。彼らは立場からすれば、その逆の振る舞いをするべき人たちだったのです(11~12節)。

【土曜】 マタイ福音書23章13~39節

 ここは、終始、イエス様の律法学者とパリサイ人への非難と忠告が記されています。23章冒頭に始まったイエス様の鋭いご指摘は、13節以下に、7回なされます。

  1. 人々から御国をさえぎる(13節)
    彼らは聖書を学びながら、勝手な解釈を付け加え、自らを神様の支配から締め出してしまうため、その影響で他の人々も入れなくしてしまいます。
  2. 改宗者をさらに悪く育てる(15節)
    彼らは大きな犠牲を払って熱心に改宗者を得るのですが、律法の形式的な遵守を教え、自分たちよりも、もっと救いから遠ざけてしまいます。
  3. 誓いに対する誤った理解(16~22節)
    イエス様は、彼らの勝手な、非論理的な解釈を非難し、すべての誓いはただ神様にかかっているもので、実行されるべきであると語られました。
  4. ささげものに対する自己満足(23~24節)
    「はっか」「いのんど」「クミン」は当時、料理や薬に用いられる庭草でしたが、彼らは元来の律法にはない、それらの細かいものまでささげるという戒めを加えていました。しかしそこまで神様を敬うようにしながら、一方で、はるかに重要な心のあり方を度外視していたようです。
  5. 偽善的なあり方1(25~26節)
    彼らは「杯の外側をきよめ」るなど、外的な宗教行為はしていても、心はきよめないまま、罪に汚れていました。順序が反対であったのでした。
  6. 偽善的なあり方2(27~28節)
    エルサレムでは、巡礼者が一目でお墓とわかるように、墓石を白く塗ったのでした。外側は、白く塗った墓のように、美しく見え、人から尊敬されたり、慕われたりする彼らだとしても、内側は、死人の骨や汚れたものがいっぱいあるように、その心は偽善と不法に満ちていると指摘されました。
  7. 偽善的なあり方3(29節)
    彼らは「預言者の墓を建て、義人の祈念碑を飾って」外面的には、神の人を敬っていたり、30節にあるようなことを口にして、罪を他人事にしていました。しかし、そのことは「自分たちは殺人者の子孫である」と言っていることになり、イエス様から厳しく「蛇ども、まむしのすえども」と叱責されなければならない者に、自分たちをしてしまったのでした。

 イエス様は、これらのことを挙げて彼らを非難された後、彼らがこの時代にあっても、まむしのすえとして悪行を繰り返すことを語られました(34~36節)。
 「義人アベル」とは、旧約聖書の最初の殺人被害者(創世4章8~12節)を指し、「バラキヤの子ゼカリヤ」は、当時ユダヤ人が用いていたヘブル語旧約聖書の最後に位置する第二歴代誌に記されている殺人被害者(第二歴代24章21~22節)を指します。
 イエス様は、御民イスラエルを神様に立ち返らせようと心を用いなさるのですが、残念ながら、エルサレムが悲劇的な滅亡をしてしまうことを預言なさいました(38~29節)。

参考文献

  • 増田誉雄「マタイの福音書」『新聖書注解・新約1』(いのちのことば社、1973年)
  • 『ウェスレアン聖書注解・新約篇・第1巻』(イムマヌエル綜合伝道団、1984年)
  • 内田和彦「マタイの福音書」『実用聖書注解』(いのちのことば社、1995年)