新約 第4週
マタイ福音書15章1節~19章30節

日本バプテスト連盟 清水栄光キリスト教会 牧師
萩原 永子

2007年1月19日 初版

【日曜】 マタイ福音書15章1~28節

 あらゆるところで活動するイエス様を見て、快く思わない人たちがいました。既に何度か登場している、パリサイ人や律法学者です。「パリサイ人」とは、当時のユダヤ教最大のグループで、律法について厳格に解釈している人たちでした。また「律法学者」は、パリサイ人に所属していて、律法について研究し、教える立場にあった人たちでした。彼らにしてみれば、何度も自分たちに都合の悪いことばかりを言う「イエス」を、このまま野放しにしておくことは出来なかったのです。
 彼らは、揚げ足をとろうと、自分たちの本拠地エルサレムから、わざわざイエス様のところまでやってきて、「食前に手を洗う(衛生上の清潔さではなく、『信仰の上での聖さ』が理由)」という「言い伝え(先祖たちが作った規則)」を、イエス様の弟子たちが守っていないことを咎めました。当時、旧約の律法とは別に、このような規則がパリサイ人や律法学者によって重要視されていました。イエス様は、彼らが「言い伝え」を守ろうとするあまり、神の御心に反したことを行っていることに気づいていないことを指摘します。自分の内側の罪に気づかず、口から汚れたものが入ることで、自らの身が汚れることにばかり気をする方が、はるかに始末が悪いからです。

 この後、イエス様はツロとシドンの地方へ行きました。そこで、娘の癒しを求めるカナン人の女性と出会います。彼女は当時のユダヤ人(とりわけ、パリサイ人や律法学者)の感覚からすれば、「異邦人の女性」つまり、「汚れた人間」です。彼女に投げかけるイエス様の言葉も、どこか冷淡にすら見えます。ところが、彼女はそれに引き下がらなかったのです。「本来ならば、自分は救いがたい犬のようである」と認めた上で、イエス様に助けを求めました。彼女の信仰は、冒頭のパリサイ人や律法学者には、ないものでした。イエス様は、そんな彼女の願いを聞き届けるのです。

 「自分たちは聖い」と自負していた人たちが、神の御心に反したことを行い、彼らが「汚れている」と評価していた女性のうちに、「自分の汚れ(罪深さ)」を認める信仰がありました。そして、彼女のもっていた信仰こそが、御心に添った信仰だったのです。

【月曜】 マタイ福音書15章29節~16章12節

 前日の箇所で、カナン人の女性の願いを聞き届けたイエス様は、それからガリラヤ湖に向かいました。やがてイエス様に助けてもらおうと大勢の人が集まってきます。既に3日も自分の傍を離れない人たちを見て、イエス様はマタイ14章17~21節で起した奇蹟と似たものを行いました。似た奇蹟にもかかわらず、前回イエス様の奇蹟を見たはずの弟子たちが、今回もまた困惑しています。
 単に、前回の奇蹟を忘れてしまったわけではありません。前回は、ユダヤ人たちの多い地域でした。今回は、おなじみのガリラヤ湖とはいえ、異邦人の多い地域だったようです(マルコ7章31~37節参照)。選民意識を持っていた弟子たちは、前回の箇所でカナン人の女性にイエス様が示した奇蹟を見てもなお、その真意を悟っていませんでした。「このへんぴな所」(33節)で奇蹟が示されることなど、期待していなかったのです。

 さて、この出来事の後、パリサイ人とサドカイ人(パリサイ人とは敵対関係にあったグループ。パリサイ人と違って、復活や言い伝えの価値を認めていなかった)が、イエス様の言葉尻をとらえようとして、やってきました。普段は仲の悪い2つのグループが、こういうときに限って肩を並べてくるあたり、彼らがいかにイエス様を憎んでいたかが伺えます。何しろ、質問の内容もマタイ12章38節で一度出している質問です。そんな彼らに、イエス様は、前回と同じようなことを答えました。彼らと別れた後、イエス様は弟子たちに「パリサイ人やサドカイ人のパン種」すなわち、「彼らの教え・彼らの信仰のあり方」に気をつけるように語りました。
 ところが、弟子たちは自分たちが先程の奇蹟の「パン」を持ってくるのを忘れたことを注意されたと、曲解してしまいます。パリサイ人にしろ、サドカイ人にしろ、そして弟子たちにしろ、自分の汚れ・・・いわゆる罪について、しっかりと認識していないのです。罪は、「パン種」にたとえられているように、当人たちには些細なことでも、いつかは膨らんでしまいます。気をつけるべきは、そのパン種が自分の中にあることなのです。それは自分たちが気にしていないところで、着々と膨らんでしまうのです。

 最後に。今日の箇所には、イエス様の厳しい言葉の背後に、空腹な人たちを見て心を痛め、パンの奇蹟を示す姿が際立っています。厳しさの背後に、神の祝福が裏打ちされているのです。ここに、私たちへの慰めが示されています。

【火曜】 マタイ福音書16章13~28節

 パリサイ人やサドカイ人との間に不穏な空気が流れた後、イエス様と弟子たちはピリポ・カイザリヤの地方に行きました。ここでは、ギリシャ神話の神が祀られていて、ヘロデ・ピリポ(マタイ14章3節)によって、ローマ皇帝アウグストゥスに敬意を表し、カイザリヤと名づけられた場所でした(パレスチナのカイザリヤと区別して、ピリポ・カイザリヤと呼ばれた)。この地方は、異教礼拝と皇帝崇拝とが交じり合う場所なのです。この場所で、イエス様は弟子たちに、人々は「人の子(ここでは、神秘的意味があり、イエス様を指す)」をなんと呼んでいるか、尋ねました。
 弟子たちは「バプテスマのヨハネ、エリヤ、エレミヤ、預言者のひとり」と答えます。この中で挙げられているエリヤもエレミヤも、「救い主の到来を予告する人」と思われていた預言者です(実際は、その役目はバプテスマのヨハネが担いました)。少なくとも人々は、イエス様に対して尋常でない力 ― 「メシヤ(キリスト)」が来る予兆 ― を感じていたのです。キリスト本人だとは、気が付く人は多くはありませんでしたが・・・。
 弟子たちの答えを受けて、イエス様は「あなたたちは、だれだと言いますか」という、さらなる問いをしています。シモン・ペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです」と答えました。ペテロの信仰告白を聞いたイエス様は、「この告白は、岩のように不動のものであり、それは、人間から出た発想ではなく、神の導きによるもの」で、「この告白の上に『教会』が立つこと」を予告します。いかなる地上の権力も、この告白を揺るがすことは出来ないのです。

 「その時から」(21節)、すなわちペテロの信仰告白の後から、イエス様はエルサレムで受ける苦難と3日目によみがえる事とをはっきりと予告し始めました。これは、「あなたは生ける神の御子キリスト」という告白と、十字架・復活の出来事は、切り離す事は出来ないことを示しています。なのに、ペテロは「そんなこと起こるはずがありません」と、イエス様の発言を止めようとするのです。ペテロは、イエス様が「そんなこと」(22節)を通らなければ、自分は救われないとは気がついていません。「イエス様への配慮」というオブラートに包みながら、ペテロは、自分が「罪人」であり、イエス様の十字架による贖いが必要であることは、まだ気がついていないのです。

 この後、イエス様は「自分を捨て、自分の十字架を負い、ついていく」という「弟子として従う道」を語りました(24~27節)。信仰告白は、単なる告白ではなく、実践を生むのです。その実践の為に迫害を受けることがあったとしても、迫害者たちは、信仰者の「魂」に死をもたらすことは出来ません。それは丁度、地上のいかなる権力も、神が導いて下さった信仰告白を揺るがす事が出来ないように・・・。

【水曜】 マタイ福音書17章1~23節

 「それから6日たって」(1節)・・・すなわち、イエス様が受難の予告をしてから6日後、イエス様はペテロとヤコブと、その兄弟ヨハネをつれて高い山に行きました。3人の弟子は、その山でモーセとエリヤという旧約時代の信仰者たちが現れて、光り輝く姿になっているイエス様と語るのを目撃します。モーセは律法(創世記~申命記)をまとめた預言者であり、エリヤは「メシヤ(キリスト)」が来られるときに先駆者として現れると約束されていた預言者(マラキ4章5~6節)です。この2人は旧約聖書の象徴と言えます。
 そこへ、かつてイエス様がバプテスマを受けたときにくだってきた言葉(マタイ3章17節)、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という神からの声がしました。バプテスマのときと違うのは、「彼の言うことを聞きなさい」という命令が、弟子たちに示されたということです。しかし、3人の弟子たちは恐れるばかりです。

 イエス様と3人の弟子たちが山を降りると、悪霊にとりつかれて苦しむ子と、その子を癒せないでいる弟子たち、そしてそれを興味本位に見ている人たちが待っていました。輝くイエス様の姿、栄光の姿・・・その素晴らしい出来事を経た後、山を降りてみれば、たとえようもない現実が待っていたのです。実に、信仰者は、このたとえようもない現実の世界において、イエス様の言うことを聞き続けるように招かれています。私たちは、夢のような信仰の世界で生きているのではありません。この現実の中で、歩いているのです。そして、その中で、主に従い続けるよう日々召されているのです。

 昨日の箇所が、「ペテロの信仰告白と、その後の失態」について書いてありましたが、ここでは、高い山での輝かしい出来事と、下山後に待ち伏せていた『弟子たちの失態』」が出ています。そして、昨日と同様に、弟子たちの失態の後、イエス様は2度目の「受難の予告」をします。栄光の主が、山を降りてきたのは十字架にかかるためでした。そして、その十字架は、自分では自分を救うことが出来ない私たちのためだったのです。

【木曜】 マタイ福音書17章24節~18章14節

 17章24~27節にある「宮の納入金問題」と、18章1~14節の「天の御国ではだれが一番偉いか」という話は、「つまずき」という言葉でつながっています。

 「宮の納入金」は、20歳以上のユダヤ人男性が毎年納めることになっており(納入金額は、当時のパレスチナで2日分の労働賃金)、人口調査をする時、災いがその身に降りかからないように、「命のあがない代」として徴収されていたものでした(出エジプト30章12~13節)。神の御子であるイエス様に、父なる神の宮の納入金を支払う義務はないのです。にもかかわらず、イエス様は、あえて納入します。それは「かれらにつまずきを与えないため」と語っています。イエス様が、このように他者に「つまずき」を与えないように配慮なさっているのならば、イエス様に従う私たちもまた、他者をつまずかせない歩みを心がけることは、言うまでもありません。

 これに続いて、18章1~14節は、信仰者が他者に対し持つべき「配慮」について記されてあります。「そのとき」(18章1節)とあるように、この話の流れで、弟子達はイエス様に「天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか」(2節)と質問しました。イエス様に支払う義務がないのは先刻承知のこととはいえ、イエス様に従っている自分たちの立場が気になるところだったのでしょう。そんな弟子たちに、イエス様は小さい子を呼び寄せて、「子どもたちのようにならない限り、天の御国には、はいれません」(3節)と語ります。
 皮肉にも天の御国での順位を気にしていた・・・つまり、ちゃっかり入るつもりでいた弟子たちにとって、「~ない限り、御国に入れない」というフレーズは、衝撃的です。しかも、一番立場の弱い「子ども」のようでなければならないと言うのです。何か努力や修行の結果たどりつくものではありません。その上、6~10節を見ると、そのような「小さい者」に、「つまずき」を与える者に対する厳しい言葉が述べられています。たたみかけるように、12~13節に記されている「迷子の羊のたとえ」は、迷子になった1匹の・・・すなわち、「小さい者」の価値は、神の前に損なわれる事がないことを保証しています。

 「つまずき」について配慮する背景には、「神の慈しみ」が存在します。神が、その者たちを慈しんでおられるという慰めがあるのです。小さい者、小さくされている者を愛する神の愛は、私たちに注がれています。その愛が注がれているからこそ、私たちもまた、他者を傷つけたり、その価値を損なわせたりするような罪と、戦う必要があります。

【金曜】 マタイ福音書18章15~35節

 前回、小さい者を見捨てない神の慈しみが記されてありました。その慈しみを知らされた者は、それゆえに、誰かが罪を犯した場合に、どう接するべきかが、この箇所に記されてあります。最初は一対一で、次は証人を連れて、それでもダメなら「教会」を通して・・・と、あくまでも「悔い改め」の機会を与えようという気長な姿勢です。それは、前回見た、1匹の羊を見捨てない神の愛ゆえに(18章12~13節)、罪を犯した1人の人が、そのまま罪の深い淵に落ちていくのを、見捨てることがないようにという配慮なのです。

 イエス様の話を聞いたペテロは、「何度まで赦すべきでしょうか。7度まででしょうか」と尋ねました。当時は「3度までは赦す」というところで十分信仰深いと判断していましたから、この「7度まで」という言葉は、あながち少ないものではありません。ところが、イエス様は「7度を70倍するまで(7は完全数であり、7の70倍とは、無制限を暗示する)」と語り、それを譬え話で説明しました。
 10,000タラント(当時のパレスチナで60,000,000日分の給料)の借金がある「しもべ」が、主人である王のあわれみの故に赦され、借金を免除してもらいます。王は神の比喩であり、「しもべ」はまさに「神に罪を赦された人間」の姿なのです。さて、赦された「しもべ」は、同じ「しもべ仲間」で自分が100デナリ(当時のパレスチナで100日分の給料)の金を貸している者と出会うと、その者を牢に投げ入れてしまいます。このことが王の耳に入ると、王は怒り、「しもべ」は牢に入れられてしまいました。
 譬えの終わりは、こう閉じています。「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです」(35節)。もし、本当に神に赦されているとわかっているならば、赦せるはずであり、赦せないでいるのは、自分が神に赦してもらっていると分っていないと、迫るのです。何と、厳しい言葉でしょうか。

 人は、神から受けた愛ゆえに、仲間が罪を重ねるのを見過ごしてはいけません。そして同時に、神から受けた愛ゆえに、悔い改めのチャンスを与えることなく赦さないでいることも、あってはならないのです。私たちの主人であり、王である神が、私たちを赦してくださった今、「しもべ仲間」に対する配慮が信仰者には求められています。

【土曜】 マタイ福音書19章1~30節

 小さい者への配慮について語ったイエス様は、ガリラヤを去り、ヨルダンの向こうにあるユダヤ地方へ向かいました。そこへパリサイ人が、「離婚が、律法から見て合法的か否か」について尋ねます。イエス様が律法をどう解釈するかによって、いかように批判することもできるからです。これに対し、イエス様は創世記を引き合いに出して、人が自分勝手に離婚してはいけないことを断言しました。引き下がらないパリサイ人は「律法に、離縁状が存在する(申命記24章1~4節)理由」を尋ねます。イエス様は「名実伴わない立場においやられた妻」を見たモーセが、そういう状況に追い込んでいる人たちのかたくなさを見て、「離婚」について定めたことを説明しました。ですから、「何か理由があれば、離婚できる」という下心を抱くのは本末転倒であり、それこそ「心がかたくな」な表れなのです。
 これには聞いていた弟子たちですら、「結婚しないほうがまし」という本音を吐露してしまいます。当時、いかに、「離縁状」が「妻」にとって配慮に欠けた使われ方をしていたか、伺い知れるところです。また、そういう配慮のなさが表されているのが、13~15節にある「子どもへの祝福」です。イエス様に祝祷してもらおうと、子どもたちが連れてこられたのを見て、弟子たちは叱り飛ばします。しかし、イエス様は「天の御国はこのような者たちの国」と語り、子どもたちを祝福しました。マタイ18章3節で、同じようなことが言われていましたが、イエス様は、ここで改めて語るのです。

 そこへ、ひとりの青年がイエス様のもとにやってきて、永遠の命を得る方法・・・言い換えれば「天の御国に入る方法」を尋ねました。問答の末、律法を完全に守っていると自負する彼に、イエス様は、「全財産を売り払って貧しい人に施し、わたしについてきなさい」と語ります。多くの財産を持っていたこの青年は悲しみながらこの場を去りました。「富は祝福」ととらえてきた弟子たちにとって、この出来事と、その後にイエス様が語った「金持ちが天の御国にはいるのは難しい」という言葉は、驚き以外の何物でもありません。
 ペテロは、「私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました」と語ります。しかし、この高慢な言葉も、主の「先の者があとになり、あとの者が先になることが多い」(30節)という言葉で、砕かれてしまいます。ここで、振り返りましょう。「それでは、だれが救われることができるでしょう」(25節)。主は答えました。「人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」(26節)。心がかたくなだったり、配慮がなかったり、高慢だったりと、救われる素質のない私たちを、主が一方的にあわれみ、救いの道を示してくださいました。そのために、主は全てを捨てたのです。

参考文献

  • 富田正樹『聖書資料集―キリスト教との出会い』(日本キリスト教団出版局、2004年)
  • 『新聖書大辞典』(キリスト新聞社、1971年)