新約 第3週
マタイ福音書11章2節~14章36節

日本長老教会 おゆみ野キリスト教会 伝道師
永田 信昭

2007年1月14日 初版

【日曜】 マタイ福音書11章2~30節

 バプテスマ(洗礼)のヨハネ(マタイ3章)は、天の御国の到来を知らせ、神への悔い改め(ルカ3章7~18節)と洗礼(ルカ3章3節)を人々に説いた、すぐれた人物(11節)でありました。彼の出現はこの時代から遡ること700年、旧約聖書イザヤ書に預言されており、彼の人生の目的は「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐに」(マタイ3章3節、イザヤ40章3~5節)することであり、「こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる」(ルカ3章6節)ためでした。つまり人々の心を神に向けさせ(マラキ4章5~6節)、救い主イエス・キリストによる罪の赦し、神の救いを人々が自分のものとして受け取ることができるように、キリストが来る準備をすることでありました。洗礼は罪を告白して悔い改めた人を水の中に浸ける、もしくは水を注ぐことによって、神がその罪の告白を聞き入れ、罪を洗い流し、赦してくださったことを象徴しています。彼の働きは目覚しく、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々が(マタイ3章5節)彼のもとへ行き、自分の罪を告白して洗礼を受けたほどでありました。また罪を犯したことのないイエス様ご自身も、私たちの代わりに完全に正しいことを全うするために(マタイ3章15節)、ヨハネから洗礼を受けられたのでした(マタイ3章13節)。

 しかし、そんなヨハネが逮捕されます(マタイ4章12節)。人間は時に真理を喜びません。人間は生まれ持っている自分の罪を認めたくないものです。自分を正当化し、ごまかしておきたいことがあるものなのです。私たちと同じように当時の権力者ヘロデ・アンティパスもその一人でありました。ヘロデはヨハネに「兄弟ピリポの妻ヘロデヤをめとったことは不法である」と罪を指摘されたことが気に食わず、彼はヨハネを捕らえ、牢に入れたのでした(マタイ14章1~12節)。
 ヨハネは、「自分のこの先は長くないかもしれない」と感じたのでしょうか。弟子たちをイエスのもとに遣わして聞きます。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」(3節)。救い主の道を備えるため、自分の命の危険を冒してでさえも真理を人々に伝え続けてきたヨハネにとって、その集大成とも呼べる質問でしょう。

 しかし、ヨハネはイエス様に洗礼を授けたとき、彼はイエス様の上に聖霊が鳩のように下るのを見、「その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である」と「私を遣わされた方」(ヨハネ1章33節)神に示され、「私はそれを見、それで、この方が神の子であると証言して」(ヨハネ1章33~34節)きました。「見よ。世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1章29節)とイエス様を呼んだヨハネでした。それなのに、彼は不安になったのです。不安の理由は推測するしかありませんが、一つは自分の死期が近いかもしれない、という恐れ、また耳にする「悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ」(マタイ9章34節)という人々の噂話かもしれません。
 また、バプテスマのヨハネは信仰に基づき「食べも飲みもしない」スタイル、イエス様は福音のため「食べたり飲んだり」しました(18~19節)。新しい教えだ!という人々の反応も拍車をかけたのかもしれません。バプテスマのヨハネに限ってはそんなことがないかもしれませんが、信仰のスタイルの違いは時に不安を呼び起こします。自分は断食して祈るのに、なぜイエス様は取税人の家で食べたり飲んだりされるのか?とヨハネ自身からでなくとも、ヨハネの弟子たちがイエス様とヨハネを比較していたこと(ヨハネ3章25~26節)から、彼らにイエス様を指し示すための確認としてそのようにしたのでしょうか。私たちにも同じ傾向があるのではないでしょうか。他のクリスチャンと比較して、自分が信仰に基づいてやっていることが他のクリスチャンと違ったりすると不安になったりします。前は神様から確信をいただいた、しかし、私たちは揺らぐものです。

 そんなヨハネからの使者にイエス様はこのように告げます。「盲人が見、足なえが歩き、・・・貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。誰でも、わたしにつまずかない者は幸いです」(5~6節)。イエス様はそのような私たちを知っておいでです。そして確信をすぐに失ってしまう私たちに、何度もご自分を示し、導いてくださるお方です。私たちは人の噂や、反応ではなく、このイエス様からの励ましを必要としています。今日、この方に耳を傾けましょう。この方からの確証以外に、確かで、本当の平安を私たちにもたらすものはありません。

 イエス様の言葉は続きます。その証言はバプテスマのヨハネに続き、ヨハネの目的、彼が彼の全生涯を通して指し示し続けてきたイエスご自身について、証言されます。「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」(12節)
 律法と預言者はバプテスマのヨハネまで。福音が来ました!イエスキリストです。この方による救いは大きく、大勢の人々に開かれました。天の御国を求める人々が殺到し、今まで除外されてきたはずの異邦人や収税人たちまでもが悔い改めて、キリストによって救いを自分のものとしているのです。待ち望まれてきた救いがキリストによって到来し、実現したのです!神の国が近づいたのです!しかし、約束の民であったユダヤの人々の反応はどうだったでしょうか。冷たく、無反応でした。多くの奇蹟を見た人々がいたはずなのに、悔い改めず、神を恐れず、一時的な盛り上がりだけで、また自分中心に戻ってしまったのです。イエス様はその町々を責め始められます(20~24節)。私たちはどうでしょうか?多くの恵みを受けながら、同じようになっていないでしょうか?もう一度悔い改めをもって、主の御許へと歩みましょう。

 神に選ばれた人々よ、イエス様と共に喜んでください。私たちが今日主を知っているとすれば、私たちは主に渡されたもの、キリストの財産であります。ゆえに、今日私たちが重荷を負っているとするなら、この方の御許におろすことができます。今日私たちが疲れているなら、この方の癒しを味わうことができます。私たちは罪人でありながらも、キリストの赦しの恵みのゆえに、福音のゆえに、大胆に神に求める権利があります。むしろ神の宝とされた者である、国民に数えられた者である私たちの義務ですらあります。キリストによってこの恵みは全ての人に開かれています!この方からの変わることのない平安をいただきましょう。

【月曜】 マタイ福音書12章1~21節

 人間にとって安息は大切です。もし人間が休みなく働いた場合、病気になりますし、「はたらきすぎ」は過労死してしまいます。安息は神様が定めてくださった私たちを守るための律法であります。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」(出エジプト20章8節)。
 しかし、かといって引きこもりなどに見られるように、休んでいるようにみえる人が、本当に休まっているかどうかというと、そうではないでしょう。また日本の自殺者の内訳で、60代以上が3分の1を占め、無職の方が半数を占めていることも、注目に値します。人間に必要なのは、単なる肉体的な休みだけではありません。もちろん肉体的な休養は大切ですが、人間は、精神的にも、霊的にも、全人的な、目的ある休みを必要としているのです。
 では、何が私たちを休ませるのでしょうか?自分で休みを休みと認識しようとしても、それすらも難しい、弱い私たちです。私たちを休ませるのは、神からの平安であります。マタイ11章28節の招きに従って、キリストのもとに重荷を下ろすことであります。恵みによる信仰が、私たちに本当のいやしと平安をもたらすのです。それは時に肉体的、精神的な疲れの中にあってでさえ、また様々なプレッシャーや、逆境の中にあってでさえ、奇蹟のように、私たちを霊的にいやすものであります。神が私たちを心配してくださっている(第一ペテロ5章7節)、この難しい状況には意味がある(ヘブル12章5~11節)ということは、聖書の約束にあるとおり、私たちにある現実です。それがどれほど困難に見えて、いくら私たちにとって受け止めにくいことであっても、アップダウンのある私たちの感覚より、変わらない神様の約束のほうこそ信憑性があるのではないでしょうか?(イザヤ40章6~8節)
 事実は事実です。この約束を覚えて、私たちは神と共に過ごす安息を、キリストの赦しを受け、罪の重荷をおろし、深く楽しみ、味わい、喜ぶべきです。罪人であるのに、神に取り分けられた(聖とされた)者、聖徒として数えてくださり、今日も主の民として招かれているという、主の憐れみ深さを覚え、パーティーを開くべきです!(使徒2章46~47節) それが礼拝であります。

 その安息日に、イエス様の弟子たちはお腹がすいて、穂を摘んで食べ始めました。他人の畑であっても、鎌で刈ったりしたら盗みにあたりますが、手で摘む分は律法で定められた困った人への配慮ということで、合法でありました。ですので、パリサイ人はその点を責めたのではありません。彼らは「『穂を摘んで』それを『もみだして』食べることは2つの労働にあたり(タルムード)、本来安息日の前日までに整えておくべきこと(出エジプト16章23節)であって、安息日にしてはならないことである」と主張したのです。要するに、彼らは律法を破っているじゃないか!というのです。
 しかし、そんな彼らをイエス様は諭します。「ダビデの例外があったように、飢え死にしそうな人への憐れみは認められているじゃないか」 本来備えのパンはイスラエル十二部族を表す神聖なささげ物であり、1週間供えた後は祭司たちだけがそれを食べることが許されていました(レビ24章5~9節)。ところが、飢えたダビデに対して祭司アヒメレクはそれを与えたのです(第一サムエル21章6節)。主の律法は、人を生かすためであって、決して人を殺すためではない、と、当時のパリサイ人たちも理解していました(タルムード)。また、特別な事情で安息日の前日に用意できなかった人のために、安息日であってもパンやぶどう酒、油を貸すことは許されていたのです(イザヤ58章10節)。
さらに、イエス様は続けます。「また、安息日には宮に仕える祭司たちは礼拝の準備のために働くべきであり、安息日の神聖を冒しても罪にならないじゃないか」 彼らが働くべきことは律法(出エジプト27章21節以降)で規定されており、当時も祭司たちはそのように働いていたのです。

 これらのことはパリサイ人にとって当たり前でした。現代を生きる私たち以上に正確に、完全な理解があったことでしょう。では一体何が問題だったのでしょう?
 その問題の本当の争点は、イエス様の答えのうちに現れています。「あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです」 イエス様はご自分があのエルサレム神殿より大きく偉大であることを主張されています。神殿は神ご自身がおられる天国の写しに過ぎません(ヘブル8章5節)。人間の作った宮などに住めるはずがありません(使徒7章48節)。それでも神様は約束の民と共に住んでくださる、という約束の現われとして、神殿を礼拝の場所とし、それを通して人々にご自身をあらわしてくださいました。しかし、それは模型のようなもので、本体ではありません。本体は何でしょうか?キリストです(ヘブル9章)。神ご自身が、地上に、ご自身の愛と恵みを現すため、人々の間に住まわれる、それはキリストが肉体をとって来られた、ということで実現したのです。まさにキリストこそ神殿の本体であられ、キリストこそ祭司に仕えられ、人々に礼拝されるべき方、まことの神ご自身であられるのです。

 しかし、これがパリサイ人には気に入らなかった!弟子たちはキリストを主とし、神に仕えるがごとく祭司気取りで仕えている、お前らは一体何様だ!安息日の律法すら守ろうとしていないじゃないか!というのが、本心にあったのです。
 そんな彼らにイエス様は主張されます。ご自分こそが仕えられるためではなく、仕えるために来た、神であり、宮である、と。安息日にも休むことなくこの世界を支え、人々の必要を満たし続け、あなたがたに安息を与えるために仕えに来た、救い主である、と。あなたがたも本当の休みを、私から受けなさい、と主張されているのです。
 「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう」(7節)

 私たちにとって安息日は安息の時でしょうか。私はすぐに心が義務感や奉仕でいっぱいになってしまいます。自分でやること、自分の目に見える必要、自分が取り組まなければならないこと、自分、自分、自分、で、神様を礼拝するために招かれて来たのに(もちろん自分の足で来るのですが、信仰があるということは特別な恵みであり、自分の内側から出てくることでは決してありません!)、愛も恵みも注がれているはずなのに感じずに礼拝から帰ることがしばしばあります。自分にフォーカスしすぎです。しかし、私たちがもし、イエス様に目を注ぐなら、なんと全ての物が新しく映ることでしょうか!奉仕や献金はいけにえではなく喜びと感謝のささげ物に変わり、神様からいただいている多くの憐れみへの気づきは、他者への憐れみに変わることでしょうか!今日、私たちに必要なのは、この罪深い、自分中心な私たちを救うため来てくださった、イエス様ご自身です。主よ、私の曇りがちな信仰の目を、今日また開いてください。あなたの大いなる恵みの数々に気づかせ、新しい心で感謝を持って御許へ近づくように、私を作り変えてください。

【火曜】 マタイ福音書12章22~50節

 「病気を治したり、悪霊を追い出したり、死人を生き返らせたり、取税人や遊女たちがつき従う。一体このイエス様というのは何者だ?」という質問は、最近に始まったものではありませんで、イエス様の現役当時こそまさにその渦中にありました。

 イエス様のもとに、悪霊につかれた、目も見えず、口も聞けない人が連れて来られました。イエス様が彼をいやすと、人々は驚き、「この方はダビデの子(救い主。第二サムエル7章5~16節、イザヤ9章7節、詩篇132篇)なのだろうか?」とささやきました。そのとおり!なんですが、パリサイ人たちは以前(マタイ9章34節)と同じようにささやき始めます。「あいつは悪霊どものかしらベルゼブルの力で、部下の悪霊どもを追い出しているだけだ」と。
 私たちを悪魔の力から救いに来てくださった神の子、救い主を捕まえてとんでもないことを言っています!これにはイエス様はきっとお怒りになったことでしょう。「だったらあなたがたの仲間の魔よけ祈祷師は誰によって悪霊を追い出しているのですか?悪霊払いがそのように行われているのであれば、あなたの仲間もそういうことになるんじゃないですか?しかし、もしわたしが本当に神の御霊によって追い出していたなら、もう神の国が来ているってことですよ!!木がよければその実も良い、実によってわかるでしょ?」
 本当はここで裁きがあってもおかしくないシチュエーションです。「あなたがた裁くよ、悔い改めなさい!」と。イエス様はなおも彼らを導こうしてくださっているのがわかります。悔い改めない、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。しかし、イエス様は人々を悔い改めに導いてくださる方であります。

 すると、パリサイ人たちのある者たちはまた屁理屈を言い出します。「じゃあしるしを見せてくださいよ!」って、今悪霊が追い出され、目も見えない人が見えるようになり、口のきけない人が話せるようになったばっかりなのに!彼らはもっと大きなはっきりしたしるしがほしい、と訴えるのです。
 私たちは目に見えることが大好きです。しかし目に見たものさえも、私たちの心は信じない。しるしがあるから人生変わるか?いや、どんな奇蹟を何回見たとしても、どんな体験を何回したとしても、それが私たちの心に何ももたらさない。本当の問題は、私たちの信じない心にあるのです。すぐに不満をつぶやき、これは私の告白ですが、奇蹟を強調する人々を悪魔のわざかもしれないと裁いたりもし、何か落ち度があればほれ見たことか、とあざ笑い、人の幸いも偶然のわざのように見なし、自分の納得を求め、自分への奇蹟を要求する私たちも、彼らと同じようではありませんか。イエス様は良くご存知です。

 イエス様に注目するように。目に見えない、しかし実現している約束を信じるように。主は奇蹟を起こしてくださいます。大きなことを祈るように招かれています。
 しかし、それを信仰によって見るのでなければ、どれほどの体験も、私たちの信仰を腐らせることにしかつながりません。もっともっと要求し、満足を知らず、与えられてきた恵みに感謝することもなく、日々過ごすことにつながるでしょう。
 今日私たちは主に目を注ぎ、約束の言葉、聖書に目を注ぎ、その日々与えられている祈りの答えの数々に目を注ぎましょう。今日私たちが目に見えない神を信じている事実こそ奇蹟であります。罪深い私たちが今日死んでも天国に入れることこそ、本当の奇蹟であります。イエス・キリストが十字架によってもたらしてくださった救いの実現こそが、パリサイ人と同じ傾向を持つ滅びの子である私たちが神の子とされた事実こそが、私たちの奇蹟の現実なのです。
 聖書を見てください。歴史を見てください。日常生活を見てください。主は私たちの祈りに、適切な時、適切な答えをくださり、「奇蹟だ!」と思うようなことを何回も経験してきたのではないのですか?他のクリスチャンからもそんな話は聞きませんでしたか?毎日は奇蹟の連続です。まだ不平をつぶやきますか?

【水曜】 マタイ福音書13章1~23節

 イエス様が語られた有名な4つの種のたとえ話です。当時の種を蒔く人は、粗雑そのものだったようで、適当に手でばらまくので、色々な所に飛んで行ってしまいます。当時種を蒔いているというのは日常的な光景だったようです。種には命があります。外見的には乾燥していて死んでいるように見えますが、必要な環境があれば豊かな実りをもたらすものです。蒔かれた種は、落ちた土壌によって、その後を左右されることになります。このたとえはイエス様が解説されているように、神の御言葉を聞いた人々の反応にたとえられています。御言葉には命があります。必要な環境があれば、豊かな実りをもたらすものであります。さて、私達はどのように御言葉を聞いているでしょうか?

【1】 道端に落ちた種

 種が、畑のあぜ道や、脇の道に落ちた場合、鳥が食べてしまいます。そのように、御言葉の種が蒔かれているのに、根を張る間もなく悪魔がそれを持ち去ってしまいます。これは悟らない人にたとえられています。

【2】 岩地に落ちた種

 土の薄い岩地に落ちた種は、太陽の熱を受け、すぐに芽を出したようです。これは御言葉をすぐに喜んで受け入れる人にたとえられています。すぐに喜んで受け入れるなんて素晴らしいと思いませんか?しかし、自分のうちに根がないため、みことばのために困難や迫害が起こるとすぐにつまずいてしまいます。浅い土の下にあったのは、硬い岩だったのです。浅はかさの下に、硬い心が眠っていないでしょうか?果たして自分のうちに根はあるでしょうか?私たちは『沈黙』に出てくる5時間の拷問で棄教したフェレイラ神父を笑うことができるでしょうか?

【3】 いばらの上に落ちた種

 いばらの上に落ちた種は、見かけ上は良い地に似ているのですが、いばらの根が残っています。やがていばらの方が早く成長して覆ってしまう様がたとえられています。いばらに象徴されるこの世の心遣いと富の惑わしは、一旦捨ててきれいになったつもりでも、その根っこから何と早く成長して、私達の信仰をくらませることでしょうか。

【4】 良い地に蒔かれた種

 幸いなるかな!良い地に整えられた人々!耕す方が目を注いでくださり、畑と見なして、鳥から守り、堅い岩を取り除いて開墾し、いばらの根っこを引き抜き、豊かな実りのために情熱を注がれている人々よ!多くの人はこの救いを待ち望み、このキリストを、本当の救いを目にしたいと願いましたが、実現しませんでした。今日私たちはこの救いのうちを歩ませられているものです。自分の努力でそのように歩んできたのではありません。もちろんそれもあるでしょうが、その源の源はキリストの恵みにあります。この方が開墾してくださって、今日私たちは主にあるものとして数えられているのです。

 ゆえに、私たちは今日、どのように御言葉を聞くべきでしょうか?不注意に、同じことの繰り返しのように硬い心で受け止めてはいけません。新しい恵みを、私たちを導いてくださっている主に期待すべきです。喜んで受け入れ、すぐに枯らすべきでしょうか?根を張る土の下にかたくなな岩があることを仮定して、主に悔い改めを持って取り除いていただけるよう願い続けるべきではないでしょうか?見かけ上良い地であるかように受け止め、安心するべきでしょうか?いばらの成長は早いのです。今日何に心がふさがれているのか、主にご覧いただくべきではないでしょうか?それが良い地であり、豊かな実りにつながるよう、恐れを持って、生涯、主の恵みを待ち望み続けようではありませんか。

【木曜】 マタイ福音書13章24~43節

 天の御国について、他にもイエス様はたとえでお話になりました。

麦と毒麦(24~30・36~43節)

 神様はこの世界に神の子とされた人々をまかれました。キリストによって命が流れ、多くの実を結ぶようにされたのです。それに対してサタンも、神の御業を妨害するために、毒麦をこの世界に蒔きました。
 しかし、主はそれを伸びるがままにされました。なぜでしょうか。本当の御国の子らも刈り取ってしまうことがないように、です。間違えるというよりも、本当の実を見るために、あえてそれを許されるというのです。やがて裁きの時が来ます。全ての実りはそこで判別され、毒麦は焼かれ、麦は倉におさめられるのです。
 この地上にあって、神の子とされた人々も、そうでない人々も、同じように生活しています。同じ良いものを求め、同じ苦しみを味わい、同じように歩んでいるかに見えるでしょう。ときにこの地上にあって、悪者の行いに対する報いを正しい者がその身に受け、正しい人の行いに対する報いを悪者がその身に受けることがあります(伝道者の書8章14節)。ときに本当にむなしさを感じ、神を恐れる生き方に対して、この世と同じようにさげすみを覚えることもあるかもしれません。
 しかし、忘れてはいけません。「すべては神の御業である」のです。主は御国の子らのため、忍耐されているのです。その際たる方こそキリストです。何の罪もなく、かえって真実に生きたがゆえに迫害され、殺されました。多くの預言者たちもそうです(ヘブル11章)。私達はこのキリストにならうものであります。むしろ不条理に思えることを体験したなら、躍り上がって喜びなさい、天の御国はその人のものだから!(マタイ5章10~12節)とまで薦められているのです。私たちの忍耐には報いがあるのです!
 では、私たちは何を思うべきでしょうか。誰が毒麦なんてまだわからないのです!正しいことを求めても、報いのない人たちに、この方の希望を分かちあえないでしょうか?イエス様が歩まれたように、天の御国の福音を分かち合いつつ、人生の価値の尊さを、どのような形でか、分かち合えないでしょうか?それこそ主の財産である命ある麦であります。自分が毒麦でないことを願うのみです。

【金曜】 マタイ福音書13章44節~14章12節

宝・真珠・地引網による御国のたとえ(44~50節)

 天の御国を見出した人は、畑に隠された宝のようです。その宝を確実に自分のもととするため、持ち物を全部売り払っても、その畑ごと手に入れます。あとでそれが自分の手元から奪い取られたり、権利を主張されたりしないためです。その宝の価値がどれほど計り知れなくて、今支払うべき自分の財産分など、それに比べたらいかにちっぽけでつまらないということを知っているからです。中途半端は一番痛い!お正月の初売りで電気屋さんに並んで、自分の番号の直前で売切れてしまったくらい、痛いです。いや、そんなことと比べ物にならないものを、私たちは今、手にしようとしているところです。生涯全力をかける意義のあるものであり、いかなる苦労さえちっぽけに思えるものに私たちは手をかけつつあるのです。何が価値があり永遠に残るものでしょうか?何がつまらなく一時的であり、過ぎ去ることでしょうか?今日私たちは何に取り組むべきでしょうか?
 天国学者の皆さん、宝を手に入れつつある皆さん。あなたが主人です。古いものも新しいものも、みなあなた方のものです。私たちはもう罪の奴隷ではなく、律法の奴隷でもありません。古くからの契約は、このキリストによって実現し、律法は、私たちが神の子として歩むためのガイドとなり、キリストがもたらした福音は、私たちに主の道を歩ませる力となります。キリストとの出会いは、私たちに新しい生き方をさせるのです。もう罪に縛られてはいけません。また形式だけの信仰生活に縛られてはいけません。神の子の皆さん。いただいた自由とガイドと力をもとに、今日、私たちは歩もうではありませんか。
 「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」(ガラテヤ5章1節)

【土曜】 マタイ福音書14章13~36節

5,000人の給食、5つのパンと2匹の魚

 関東で5,000人以上収容する施設として、横浜アリーナ(11,000人)、有明コロシアム(10,000人)、日本武道館(15,031人収容)などがあります。高校時代、横浜アリーナでエリック・クラプトンのライブに行ったのですが、アリーナ席から見たクラプトンはゴマ粒ほどの大きさでした。これでは影武者がやっていてもばれないだろうな、と思いました。

 イエス様のもとへ男だけで5,000人もの人々が集まってきました。女性と子供を除いて(21節)、とありますから、そこには大変な人数が集まっていたことになります。彼らの目的は様々でした。ある者は病気を治してもらいに、ある者は話を聞きに、ある者は物珍しさだったかもしれません。そんな彼らを見て、イエス様は深く憐れみ、病を癒されました(14節)。
 そんな大勢の人々の必要に応えているうちに夕方になり、弟子達は心配し始め、「ここは寂しい所ですし、もう暗くなっているし、みんなお腹がすいています。群集を解散させましょう」と言いました。当時は野良犬、山賊、野良ライオンなどが闊歩している時代ですから、本当に危険です。自分のお腹を満たす前に、他のお腹を満たすことになりかねません。
 するとイエス様は彼らに答えます。「あなたがたで、あの人達に何か食べるものをあげなさい」
 持ってないっつーの。
 「ここにはパンが5つと魚が2匹よりほかはありません」
 するとイエス様はそれをとって祝福し、パンを裂いて弟子たちに与えられたので、弟子たちはそれを配りました。
 すると!人々は食べて満腹したのです!まさにミラクル!そればかりか余ったパン切れは12のかごにいっぱいになったほどでした。5,000人以上の目撃者がいる、覆しようのない奇蹟であります。

 神にとって不可能なことはひとつもありません(ルカ1章37節)。イエス様はこの奇蹟を通して、ご自分が神の子、救い主であることを、弟子たちに、また人々に示されたのでした。
 また、この方に差別はありませんでした。真剣に救いを求めて来た人も、興味本位で来た人も、後にパリサイ人たちに扇動されて、十字架につけろ!と叫ぶであろう人も、ここにいたであろう裏切り者ユダにさえも、彼らの心の全てを知っておいでであるのに、イエス様は同じように、食事を与え養ってくださいました。「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」(5章45節)。
 全ての人を救うため、イエス様はご自分を十字架によって与えてくださいました。全ての人にこの福音が提供されています。イエス様は現代に生きる私たち一人ひとりにも、多くの恵みを注ぎ、その手を差し伸べてくださっているのです。大切なのは、それを無視するのか、それとも自分のこととして、その恵みを神様に感謝するのか、ということです。今日、イエス様に祈るなら、この方は聞いてくださいます。今日、イエス様に求めるなら、あなたが今までどのようであったとしても、答えてくださる方です。この方のみもとへ行ってみませんか?

 「しいたげられる者のためにさばきを行ない、飢えた者にパンを与える方。・・・主は盲人の目をあけ、主はかがんでいる者を起こされる」(詩篇146篇7~8節)

参考文献・サイト