新約 第1週
マタイ福音書1章1節~6章18節

東京基督教大学 教授
伊藤 明生

2006年12月22日 初版

【日曜】 マタイ福音書1章1~25節

 マタイ福音書は、イエスの系図で始まる。系図の意図は、イエスが「アブラハムの子」「ダビデの子」であることを示すためである。創世記12章から22章までのアブラハム物語の中で何度となく神はアブラハムに約束を繰り返している。アブラハムを大いなる国民にする、アブラハムが祝福の基となる、アブラハムによってすべての民族、多くの国民が祝福される、と。とりわけ、最後の約束については、旧約聖書ではほとんど成就した兆しが見られない。

 第二サムエル記7章で、ダビデ王は、神の箱(契約の箱)のために家(つまり神殿)を建てようと言い出す。神は預言者ナタンを通して、そうではなく、主がダビデのために家を建てる、ダビデの王国を確立し、ダビデの王座をとこしえまで堅く立てる、と約束した。そして、神殿建設についてはダビデではなく、跡継ぎがする、とも。歴史的には、ダビデの王国は、ソロモンの死後北王国イスラエルと南王国ユダに分裂する。そして、北王国はアッシリヤに滅ぼされ、南王国もバビロンに滅ぼされてバビロン捕囚の憂き目に会う。

 イエスがアブラハムの子、ダビデの子であることをマタイは系図から提示している。イエスこそがアブラハムへの神の約束が成就される方であり、ダビデの王座にとこしえまで座る王であることが主張されている。アブラハムからダビデまでが14代、ダビデからバビロン捕囚までが14代ということで、強調されている。14とは、完全数7の倍数であり、完全の倍を意味した。そして、マタイは福音書全体で、イエスこそが約束されたメシヤ、アブラハムの子、ダビデの子である方として描いている。

 この系図には、女性に言及がある。当時の系図には、通常、女性は名を連ねなかった。しかも、ここで言及されている女性たちは皆「曰く付き」の人たちである。タマルはユダにとっては息子の嫁であった。ラハブはエリコの遊女であった。ルツはモアブの女であった。ソロモンはダビデの子であるが、母親は「ウリヤの妻」であった。系図とは、家系・家柄が立派なことを誇示するものであるが、イエスの系図は逆である。イエスが地上に生まれたときは、まさに暗黒の時代であった。神の民、由緒ある系図さえも汚されていた!

 当時のユダヤの習慣では、正式に結婚が決まった(結婚の約束をした)時点で婚姻関係が成立する。その後、結婚式を経て同居して文字通り結婚生活が始まるが、それ以前の段階で婚約破棄をする際にも離婚手続きを経る必要があった。ユダヤの律法に従えば、ヨセフとマリヤの状況では、マリヤは姦淫罪で石打ちの刑に価した。御使いがヨセフを「ダビデの子ヨセフ」と呼びかけていることは重要である。ダビデの子イエスの親権者として幼子イエスを守るという重大な責務がヨセフには課された。マリヤが聖霊によってイエスを身ごもった神の子に他ならないことが明言されている。「イエス」という名は旧約聖書のヨシュア(訳すと「主は救い」)に当たる。

【月曜】 マタイ福音書2章1~23節

 異邦人、異教徒である東方の博士たちとは、現代流に考えると、限りなく占星術師に近い天文学者であっただろう。そういう博士たちが黄金、乳香、没薬を携えて遙々(バビロン辺りからか)「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を拝みに来た。ヘロデ王とエルサレムの人々が恐れ惑った、と言う。博士たちとヘロデ王とエルサレムの人々とは実に対照的に描かれている。本来ならばユダヤ人の王となるべき方の誕生は、ユダヤ人たちこそが祝うものであろう。ヘロデ王は、ユダヤ人の王という自らの立場を守ることに始終執着していた。晩年のヘロデ王は、謀反の噂に惑わされて息子たちを次々に処刑している。ベツレヘムの幼子虐殺というヘロデ王の過敏な反応は、非常に彼らしい。でも、エルサレムの人々の反応はどういうことであろうか。ヘロデ王の横暴を恐れただけか。

 興味深いことに、幼子イエスと旧約の神の民との重要な関係が示唆されている。預言者ホセアがイスラエルに関して預言したと思われる表現がイエスに成就したとしてマタイは引用している。預言者ホセアは、出エジプトの出来事を指して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した」と語った。「わたしの子」とはイスラエル民族のことであった。マタイがホセア書から引用するに際してイエスに成就したこととしている。イエスこそが真の神の子であり、旧約の神の子らイスラエルの歩みを追体験している。荒野での試みに見られる通りに、旧約の神の民、主の子らが失敗したことを神の御子が追体験して失敗したことをやり直している。

 ヘロデ王は紀元前4年に死去した。彼の死後、王国は分割されて息子たちが統治することになった。当時、実権はローマにあり、ローマに決定権があった。既に優秀な息子たちは謀反の疑いで処刑されていたので、もはや跡継ぎとして「本命」というべき存在はいなかった。ユダヤはアケラオ、ガリラヤはアンティパスの統治下となったが、王の称号はだれにも許されなかった。

【火曜】 マタイ福音書3章1~17節

 バプテスマのヨハネ(3章2節)は、イエス(4章17節)やイエスの弟子たち(10章7節)と同じ使信を宣べ伝えていた。バプテスマのヨハネは、人間社会を捨てた隠遁者であり、過激な裁きを語る預言者であった。ヨハネの使信と活躍の核心は、来るべき神の裁きに他ならない。イエスや弟子たちが描き出す「天の御国」とヨハネの「天の御国」とは少々強調点が異なっていた。しかし、イザヤが預言したように、ヨハネは後から来る主の道備えをした「荒野で叫ぶ声」であった。

 ヨハネはイエスにも悔い改めのバプテスマを授けた。先駆けであるヨハネが来たるべき方であるイエスに悔い改めのバプテスマを授けることは理に適っていないが、真の救い主となるべくイエスは、敢えて罪人と同じ立場に身を置いた。悔い改める必要のない罪なきイエスが悔い改めのバプテスマをヨハネから授かった。ヨハネがイエスにバプテスマを授けたことは、天の御声が承認した。ここでもイエスこそが真の神の子であることが再確認されている。
 「すべての正しいことを実行する」とは、直訳では「すべての義を成就する」

【水曜】 マタイ福音書4章1~25節

 イエスは、荒野で悪魔から試みを受けた。旧約の神の子らイスラエルは荒野で試みられてことごとく誘惑に負けた。真の神の子としてイエスが再び荒野で試みられて、試みに打ち勝つことは、イエスが公に働きを始める準備として重要であった。悪魔の試みに対抗するためにイエスは旧約聖書の申命記から引用している。申命記は、モーセが死を目前にして神の子らイスラエルにした訣別説教であるが、内容的には出エジプト以降のイスラエルの民の足跡を辿っている。神が如何にイスラエルを導き、真実なお方であったか、それにも拘わらずイスラエルはたびたび不信仰に陥り、失敗したことが綴られている。イスラエルの今後の歩みのために貴重な教訓が語られている。特に不信仰の結果、40年間荒野を放浪したこと、その間の失敗、主の真実が強調されている。荒野での40日は、旧約の40年を象徴的に指し示している。だからこそ、悪魔は「あなたが神の子なら、・・・」と三度繰り返して試みている。そして、イエスは三度とも、モーセがイスラエルの民の語った教訓である申命記から応えている。

 イエスがナザレからカペナウムに移り住んだことは、イザヤ書9章冒頭の預言の成就とマタイは理解している。暗黒のガリラヤに偉大な光としてイエスは到来した。イエスは公の活動を開始した。ヨハネと同じ使信を繰り返しつつ。

【木曜】 マタイ福音書5章1~20節

 「山上の説教」の始まり。いわば物見遊山の群衆を避けて、山に登り、中腹で腰掛けて弟子たちが来るのを待って語り始めている。3節~12節で、イエスは先ず、天の御国の幸いについて説き明かしている。天の御国の幸いとは、地上での幸福とは、逆転している。「心の貧しい者」とは「霊的に貧しいことを知り尽くして、真に霊的であることを乞い願う者たち」のこと。心が豊かで、霊的にも豊かであることが地上では喜ばれることではあるが、自らの霊的状態が貧しいことを思い知ることこそ天の御国でより豊かになる道だ、とイエスは教えている。

 弟子たちは、「地の塩」「世界の光」である、と。岩塩が思い描かれているが、味付けとして重要であり、体の健康にも不可欠なミネラルに他ならない。暗闇のガリラヤに輝くイエスの光を反射して輝く弟子たちの光は、隠してはならなかった。家の中を照らす灯火が台に置かれて家中を明るくするように、イエスの弟子たちの良い行いを見て、人々は父なる神を崇めることが期待されている。すべての栄光は神に帰されるべきことを忘れてはならない。

【金曜】 マタイ福音書5章21~48節

 「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでなければ、あなたがたは天の御国に、入れません」とイエスは言う。この「義」が旧約聖書律法、ユダヤ教のトーラーとの関連で説き明かされている。律法の要求している義よりも厳しい義が語られている。「殺すなかれ」と十戒で命じられているが、人殺しだけではなく、人を憎んだり、悪口を言ったりすることは、殺人の動機となり、人殺しの始まりだ、と断罪されている。「姦淫するなかれ」と同じく戒められているが、情欲を心に抱くならば、姦淫という行為を犯すことと同罪だ。旧約聖書で規定されているように、離婚状を渡したとしても、妻を離別することは妻が再婚して別の男性と関係を持ち、「姦淫を犯す」ことを強いる行為である。偽りの誓いをしない、誓ったことは実行するだけではなくて、誓うことが不要となる程に常に誠実に真実、正直に言葉を用いて、語ることが命じられている。自らの正当な権利であっても主張するのではなく、悪に手向かうことを止めて、他者のために自らの権利を放棄するように奨められている。隣人を愛するだけではなく、敵や迫害する人をも愛するように求められている。神が完全であるように、完全となることが神から神の子に求められていることが確認されている。

 「律法学者やパリサイ人の義にまさる」義をイエスは教えているが、旧約聖書律法が神の絶対的義の表現としては不十分であることが示唆されている。『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』と言うこと「以上のことは悪い」(37節後半)とイエスは指摘する。マタイ福音書19章の離婚問答で明らかになるが、離婚状を渡して妻を離別せよ、とは「あなたがたの心がかたくななので」(19章8節)モーセが許した、とイエスは言う。換言すると、律法は神のみことばではあるが、神の完璧なみこころが、純粋な絶対的な形で提示されているとは限らないことになる。

【土曜】 マタイ福音書6章1~18節

 「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい」 具体的には、施し、祈り、断食という宗教行為についてイエスは教えている。「善行」と訳されている語は直訳「義」である。宗教行為が宗教行為として行われると、無意味なだけではなく、むしろ有害な行為となることが指摘されて厳しく非難されている。宗教的行為が強調されると、信仰者の虚栄、見栄が助長される。イエスは信仰者の虚栄と見栄を厳しく戒めている。律法学者やパリサイ人たちは当時のユダヤ人社会では正しく尊敬されるべき人々であった。宗教が重要な位置を占めていたからである。キリスト者の信仰さえも人間の宗教に堕する危険が常に伴う。信仰者たる者、人から賞賛されることを期待して行うのではなく、神の御前に誠実に生きることが求められている。まさに「言うは易し、行うは難し」である。誰もが人から賞賛されたいと願うものであるから、大きな誘惑となる。

 キリスト教信仰が聖書の宗教、キリストの福音に明確に根ざすことは重要である。いつ何時人間の宗教に堕してしまうかもしれない。キリスト者にとっては人の賞賛、人の目よりも、見えない神の目を意識して神の御前に生きること、神に喜ばれることが最重要課題である。人の目を意識して、人の前だけで生きるならば、虚栄と見栄という人間からの栄誉を追求することになる。困難なのは、人は見えるが、神が見えないことである。見えない神の御前で神に喜ばれる歩みを全うすることを心がけたい。